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シリーズ裸の東京・道灌旋風の吹いた跡
Yahoo!ニュース

東京・中野区沼袋、江古田公園近くに、「江古田沼袋古戦場」の石碑が立っている。文明9年(1477)4月の太田道灌と豊島泰経との戦いの跡である。関東管領の上杉家に叛旗を翻した家宰の長尾景春に同調した豊島泰経、泰明兄弟は、この江古田沼袋で上杉方の太田道灌と激突、軍略に優れた道灌が豊島兄弟を打ち破った。程なく、豊島一族の石神井城も落城する。

この太田道灌の登場は、歴史の節目であろう。戦術面では、これまでの一騎打ち中心の戦い方から、足軽という下級の歩兵による集団戦法へと変化せしめた。

また、江戸城を築城したことは、その後の地域史の上でも画期的なことである。後に徳川幕府が開かれ、明治以降は皇居となって現在に至る。江戸という関東の一地域から、世界的に注目を集める日本の首都・東京へ。その足かがりを作ったのが上杉家の家宰、太田道灌であった。だが、その優れた才能ゆえに、野心を疑われ、主君である上杉定正に暗殺された。

公方家、管領家といった室町幕府の出先機関や土着の豪族たちが治乱興亡を繰り返す戦国時代の東京23区は、人間の権力欲むき出しのままで、中央政権的な建前で着飾る時期ではまだなかった。
(記者:菊池 道人)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071022-00000001-tsuka-l13

コラムにもありますが、関東管領[かんとうかんれい]の一流である扇谷上杉[おおぎがやつ]の太田道灌[おおたどうかん]の足軽隊は戦国の合戦を一変させました。
鎌倉時代以降、武士達の合戦は一騎打ちが主流で、逃げるのは卑怯中の卑怯と考えられていました。
足軽のように集団で活動し、相手の弱点を一気に攻め、状況が危うくなったら一気に引くことなど論外、言語道断の行為でした。
太田道灌が足軽隊を考え出したわけではないのですが、太田の足軽隊以前の足軽隊は傭兵が多かったようです。つまり金で雇われた没落農民や浮浪者達の烏合の衆でした。道徳や規律など気に掛けず、動きもバラバラで皆自分勝手、戦況が危うくなると勝手に故郷に逃げ帰ってしまいます。
それを「足軽軍法」でまとめ上げ、組織化したプロ集団に育て上げたのが、太田道灌だといわれています。
太田道灌の足軽隊は数ある戦で連戦連勝し一躍有名になっていきます。
こうして、太田道灌の足軽戦法を習いにして、足軽戦法がその後の戦国時代の合戦で主流になっていくのです。

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⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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