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信長居館の茶室か蔵の跡? 焼土と礎石発見
岐阜新聞
壁土や礎石など火災で焼けた建物跡が見つかった発掘調査現場=岐阜市槻谷
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岐阜市教育委員会は10日、同市大宮町の岐阜公園で実施している織田信長の居館発掘調査で、戦国時代と見られる地層から焼けた壁土と礎石を見つけた、と発表した。茶室か蔵の建物跡の可能性が考えられるといい、市教委は「信長居館の全貌(ぜんぼう)を解明する上で大きな発見。さらに調査し、居館本体との関連や全体的な建物の配置を明らかにしたい」としている。
今回調査したのは、信長居館の最奥部に位置すると想定される金華山ロープウェー山麓駅の南東部分の山中で、計約50平方メートル。9月下旬から発掘を始めたところ、幅2メートル、長さ6メートルにわたって掘り進めた地点から、約60センチの厚さに堆積(たいせき)した焼土層を確認。その下からは、薄い炭の層と幅25センチほどの礎石1基を見つけた。焼土層の多くは、わらなどでできた厚さ6、7センチの壁土だった。
年代を特定する遺物は発見できなかったが、地層の状況などから、焼土は1600年に、関ケ原合戦の前哨戦で岐阜城が落城した際の火災を受けたものと考えられるという。礎石が比較的小さく、壁土が通常より分厚いことや、場所の性格などから、茶室か蔵の建物跡と考えられ、今回の調査現場よりもさらに下の平坦地に居館本体があった可能性が高いという。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、信長居館の上層階について「3階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下がある」などと記述しており、信長居館発掘調査専門委員会の中井均さん(米原市教育委員会)は「まさに(この記述を)ほうふつとさせる遺構」と指摘。大阪市立大学の仁木宏准教授も「奥座敷のような場所に戦国時代の建物があったことが確認でき、大量の焼土、壁土も驚くべき発見」と評価した。
市教委は、来年度も引き続き調査を続け、建物の性格や範囲などを明らかにしたい考え。22日午後1時から現地説明会を開く。同発掘調査は、居館本体の建物位置や構造を明らかにするため、今年6月から3地点で順次実施してきた。既に調査を終えた2地点からは戦国時代の大通りと庭園の一部と見られる遺構が発見されている。
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20071211/200712111049_3545.shtml
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