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戦国時代年表・安土桃山時代・織豊時代・江戸時代

時代 元号 よみ 使用年 出来事・備考 天皇 将軍 生死
室町時代
1336年〜1573年

南北朝時代
1336年〜1392年

戦国時代
(戦国時代の区切り方は諸説ある)
1467年〜1590年

明徳 めいとく 1390年〜1393年
  • 明徳3年 [1392年]
    • 南北朝統一
  3代 足利義満  
応永 おうえい 1394年〜1427年     3代 足利義満[〜応永元年 1394年 12月17日]

4代 足利義持[よしもち 応永元年 1394年 12月17日 〜 応永30年 1423年 3月18日]

5代 足利義量[よしかず 応永30年 1423年 3月18日〜応永32年 1425年 2月27日]
 
正長 しょうちょう 1428年     6代 足利義教[よしのり 正長2年 1429年 3月15日〜]  
永享 えいきょう 1429年〜1440年     6代 足利義教  
嘉吉 かきつ 1441年〜1443年     6代 足利義教[〜嘉吉元年 1441年 6月24日]

7代 足利義勝[よしかつ 嘉吉2年 1442年 11月17日〜嘉吉3年 1443年 7月21日]
 
文安 ぶんあん 1444年〜1448年     8代 足利義政[文安6年 1449年] 4月29日〜  
宝徳 ほうとく 1449年〜1451年     8代 足利義政  
享徳 きょうとく 1452年〜1454年     8代 足利義政  
康正 こうしょう 1455年〜1456年     8代 足利義政  
長禄 ちょうろく 1457年〜1459年     8代 足利義政  
寛正 かんしょう 1460年〜1465年     8代 足利義政  
文正 ぶんしょう 1466年〜1466年     8代 足利義政  
応仁 おうにん 1467年〜1468年
  • 応仁元年 [1467年]
    • 1月18日 - 応仁の乱が起きる(応仁・文明の乱)
第103代 後土御門天皇 ごつちみかどてんのう[寛正5年 7月19日 1464年 〜] 8代 足利義政  
文明 ぶんめい 1469年〜1486年
  • 文明9年 [1477年]
    • 11月11日 - 応仁の乱(応仁・文明の乱)が終結
  • 文明18年 [1486年]
    • 1月1日 - 出雲守護大名 京極政高(政経)がその重臣筆頭 守護代 尼子経久に逐われる[下克上の始まり]
第103代 後土御門天皇 8代 足利義政[〜文明5年 1473年 12月19日]

9代 足利義尚[よしひさ 文明5年 1473年 12月19日〜]
 
長享 ちょうきょう 1487年〜1489年
  • 長享2年 [1488年]
    • 6月9日 - 加賀守護大名 富樫政親[とがしまさちか]が一向一揆に逐われる。これ以降、加賀は織田信長に敗れるまでの100年間〜天正8年[1580年]まで「百姓の持たる国」と呼ばれる。
第103代 後土御門天皇 9代 足利義尚[〜長享3年 1489年 3月26日]  
延徳 えんとく 1489年〜1491年   第103代 後土御門天皇 10代 足利義材[よしき 延徳2年 1490年 7月5日〜]  
明応 めいおう 1492年〜1500年
  • 明応2年 [1493年]
    • 第10代足利将軍、足利義材[よしき]廃立クーデター、明応の政変が勃発する。延徳2年[1490年] 義材の10代将軍就任が決定すると室町幕府管領の細川政元や伊勢貞宗[幕府要人]、足利政知[初代堀越公方]らは将軍父子と対立し、足利政知の子、足利義澄[よしずみ]を11代将軍として擁立した。そして細川政元は義材の廃立を宣言するクーデターを決行し、京都を征圧するとともに、その後細川氏は幕府の主導権を掌握する事に成功している。この明応の政変を戦国時代の端とする説がある。
    • 晩夏、足利義澄の命を受けた伊勢盛時 [いせもりとき = 伊勢新九郎 = 北条早雲]が二代目堀越公方[ほりごえくぼう]の地位を簒奪[さんだつ]した足利茶々丸[ちゃちゃまる]を襲撃して伊豆を奪う。足利茶々丸は義澄の異母兄[ともに父は足利政知]。これを「伊豆討入り」と言う。この事件を東国の戦国期の端とする説がある。
第103代 後土御門天皇[〜明応9年 9月28日 1500年]

第104代 後柏原天皇 ごかしわばらてんのう[明応9年 10月25日 1500年〜]
10代 足利義材[〜明応10年 1494年]

11代 足利義澄[よしずみ 明応10年 1494年 12月27日〜]
3年 1494年 武田信虎[生]

3年 1494年 斎藤道三[生]

6年 3月14日 1497年 毛利元就[生]
文亀 ぶんき 1501年〜1503年   第104代 後柏原天皇 11代 足利義澄  
永正 えいしょう 1504年〜1520年 甲子改元 第104代 後柏原天皇 11代 足利義澄[〜永正5年 1508年 4月16日]

10代(再) 足利義材[永正5年 1508年 7月1日〜]

※義材は明応7年[1498年]に義尹[よしただ]と改名し、さらに永正10年[1513年]義稙 [よしたね]と改名
 
大永 だいえい 1521年〜1527年   第104代 後柏原天皇[〜大永6年 4月7日 1526年]

第105代 後奈良天皇 ごならてんのう[大永6年 4月29日 1526年〜]
10代(再) 足利義稙[〜大永元年 1521年 12月25日]

12代 足利義晴[大永元年 1521年 11月25日〜]
元年 11月3日 1521年 武田信玄[生]
享禄 きょうろく 1528年〜1531年   第105代 後奈良天皇 12代 足利義晴  
天文 てんぶん、てんもん 1532年〜1555年
  • 天文5年 [1536年]
    • 6月10日 - 駿河今川家の後継者争いである花倉の乱が勃発。嫡流の梅岳承芳[ばいがくしょうほう]が勝利し、京の足利将軍から偏偉[へんき]を賜り今川義元と名乗る。敗れた玄広恵探[げんこうえたん]は自刃。
  • 天文12年 [1543年]
    • 8月25日 - 種子島へポルトガル船が漂着、乗船していたポルトガル人により鉄砲が伝来する。島主の種子島時尭[たねがしまときたか]は2000両で二挺を購入したというが、当時、時尭は16歳であり父親の種子島恵時[たねがしままさとき]が主導したと言う説も。以後の合戦形式を激変させたと言うことでこれは大事件と言える。
  • 天文22年 [1553年]
    • 4月 - 武田晴信[信玄]、北信濃へ侵攻を開始。小笠原氏の残党を討伐し村上義清の城を次々と落とす。村上義清は葛尾城から逃亡し、越後の長尾景虎[上杉謙信]に助けを求めた。
    • 9月1日 - 川中島の戦い 第一次合戦[布施の戦い]が勃発
    • 9月20日 - 長尾景虎、越後へ帰還
    • 10月17日 - 武田晴信、甲斐・甲府へ帰還
  • 天文23年 [1554年]
    • 甲相駿三国同盟[こうそうすんさんごくどうめい]が結ばれる。甲斐[武田晴信]、相模[北条氏康]、駿河[今川義元]
  • 天文24年 [1555年]
    • 7月19日 - 川中島の戦い 第二次合戦[犀川の戦い・さいがわのたたかい]
  • 天文24年 [1555年]
    • 10月1日 - 毛利元就が厳島の合戦[いつくしま]で陶晴賢[すえはるかた]を討つ ※天文24年 10月23日 [1555年] 弘治に改元
第105代 後奈良天皇 12代 足利義晴[〜天文15年 1546年 12月20日]

13代 足利義輝[天文15年 1546年 12月20日〜]
3年 5月12日 1534年 織田信長[生]

6年 2月6日 1537年 豊臣秀吉[生]

6年 11月13日 1537年 足利義昭[生]

11年 12月26日 1543年 徳川家康[生]
弘治 こうじ 1555年〜1557年   第105代 後奈良天皇[〜弘治3年 9月5日 1557年]

第106代 正親町天皇 おおぎまちてんのう[弘治3年 10月27日 1557年〜]
13代 足利義輝  
永禄 えいろく 1558年〜1569年
  • 永禄3年 [1560年]
    • 5月 - 今川義元の軍勢が織田信長領の尾張に侵攻。その数2万5千。
    • 5月 - 今川義元、おだ方の鳴海城[なるみじょう]を占拠。
    • 5月17日 - 今川義元、沓懸城[くっかけじょう]を落とし、そこに陣を構える。
    • 5月18日 夕刻 - 信長の元に明日19日には今川が攻め寄せて来るのは確実との知らせが入る。伝令:佐久間盛重[丸根山]、織田秀敏[鷲津山]
    • 5月18日 夜 - 信長と家臣たちの間で軍議が持たれたが、作戦に関する話題は一つも出ず、家臣たちは退出の許可が出た後、口々に「運が尽きた時は知恵の鏡が曇ると言うが、今はまさにその時だ」と嘲笑しながら帰ったと言う。[信長公記]
    • 5月19日 明け方 - 信長方の砦、鷲津山、丸根山が今川の攻撃を受けているとの知らせが入る。伝令:佐久間盛重、織田秀敏。実はこの時、信長方の砦を攻めていたのは、後に信長と堅く友好関係を結び、共に生死を賭けて戦い戦国時代を生き抜いていくことになる徳川家康であった。徳川家康は朱色の武具を付け、今川方の先陣を務めていた。伝令を聞くと信長は、あの有名な敦盛の舞を舞った。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ物のあるべきか」。信長はすぐさま鎧をつけ、立ったまま湯漬けをかきこみ、兜をかぶり、単騎で清洲城を飛び出していったという。それに続いたのはわずか6騎だけ。その後、ほら貝の音を聞いた家臣たちは支度を整え、我遅れまいと続々と出陣していった。
    • 5月19日 - 今川義元、沓懸城を出発して大高城[おおだかじょう]を目指す。
    • 5月19日 - 信長、熱田社で戦勝祈願をする。この時点で信長の兵は騎馬6騎、雑兵200。続々と集結している様ではあるが、義元の軍勢2万5千にははるか遠く及ばない。ただ、義元の兵は鳴海城や大高城に分散して展開していたらしいので、信長と桶狭間でぶつかった義元の本隊は推定5千位だったと言われている。
    • 5月19日 - 信長、自陣の善照寺砦[ぜんしょうじとりで]に進み、そのまま、ようやくまとまった兵3千の内、2千を率いて、義元が昼食休憩を取っていた桶狭間を急襲した。この時にわか雨が石か氷を投げつけるように降って来たという。信長は雨の中、今川義元を奇襲したと説明する解説書も多いが、信長公記では、にわか雨が止み空が晴れたのを見て突撃したとある。義元の軍勢は信長の急襲に恐れをなし、どっと逃げ崩れた。乱戦の中、信長は輿に乗っているであろう義元を集中攻撃させ、服部春安が義元に切りかかり、ついに毛利良勝が義元に組み付き首級を挙げた。逃げた義元の軍勢も桶狭間の深田にはまり、もがいているところを信長の血気盛んな若武者達に矢で射られ、次々に首を取られていったと言う。
      先にも言ったとおり、桶狭間の義元本隊の他に、2万は鳴海城や大高城に分散して展開していたはずなので、やろうと思えば信長の本隊を挟撃できたはずである。出来なかったのはやはりあっけなく義元が討たれてしまって指揮系統が麻痺し戦意喪失したのと、信長の軍勢が善照寺砦に大挙して待ち構えているのではないかという疑心暗鬼がそうさせたのかもしれない。実は信長が善照寺砦に兵1千を残し、旗、指物もその場に残したのは本隊がそこに留まっているように見せた作戦だったからである。義元軍も、まさか信長の軍勢が3千そこそことは夢にも思わなかったのだろう。
      こうして織田信長は海道一の弓取りと呼ばれた名将・今川義元を破り、天下統一への一歩を踏み出すのであった。
    • 5月19日 - 桶狭間の戦いにて織田信長が今川義元を討つ
  • 永禄8年 [1565年]
    • 5月19日 - 永禄の変が起きる。三好義継[みよしよしつぐ]の軍勢が第13代将軍・足利義輝の御所に攻め入り、義輝は御殿に火を掛け自害[ルイス・フロイス 日本史]。塚原卜伝 直伝の剣の腕で30人以上切り殺したという話も伝わっている。
    • 7月28日 - 足利義輝の弟、一乗院覚慶[いちじょういんかくけい・足利義昭]は我が身にも危険が迫っている事を察知、興福寺一乗院を脱出し将軍家恩顧の六角義堅[ろっかくよしかた]の治める近江に居を移す。その後、六角義堅は覚慶を疎んじ近江から追放したので、覚慶は越前の朝倉義景[あさくらよしかげ]を頼るため越前に向かい世話を受けることになる。
  • 永禄11年 [1568年]
    • 7月 - 朝倉義景の三好氏討伐と上洛意思の薄弱さに業を煮やした覚慶・足利義昭は美濃の信長に親書を送り支援を請う。当時、朝倉義景の家臣であった明智光秀が間に入ったと言われる。
    • 7月 - 織田信長、足利義昭を迎えに家臣を越前に派遣。
    • 7月25日 - 足利義昭、美濃の国に到着。義昭の宿泊した西ノ庄・立正寺の部屋には銅銭千貫文[約一億五千万円]が積み上げられ、馬、鎧、武具、太刀などが信長より献上された。
    • 9月7日 - 織田信長、足利義昭を奉戴し、京へ向け上洛軍を発した。
    • 10月18日 - 足利義昭が朝廷より将軍宣下を受け室町幕府第15代将軍となる。
  • 永禄12年 [1569年]
    • 越前本願寺が朝倉氏と反信長連合を形成する。
第106代 正親町天皇 13代 足利義輝[〜永禄8年 1565年 5月19日]

14代 足利義栄[よしひで 永禄11年 1568年 2月8日〜9月]

15代 足利義昭[よしあき 永禄11年 1568年 10月18日〜]
 
元亀 げんき 1570年〜1573年
  • 元亀元年 [1570年]
    • 4月 - 織田信長、徳川家康を従え、朝倉義景[あさくらよしかげ]を討伐せんと越前へ侵攻を開始
    • 4月 - 信長軍、敦賀[つるが]の城をはじめ朝倉方の支城を次々と落とし、朝倉の本城 一乗谷城も目前となった今、信長の妹・お市の夫・浅井長政[あざいながまさ]が朝倉方につき、突如挙兵する。浅井の領国を抜けて進軍してきた信長は退路を断たれたと言うことになる。信長は前方の朝倉との挟撃を恐れ、已む無く全軍撤退の命を下す。朝倉・浅井の追撃があったが、殿軍の木下秀吉軍の活躍で信長自身も命からがら京へ撤退[金ヶ崎退き口]。
    • 6月20日 - 信長の軍勢、浅井長政の本城 小谷城近くの虎姫山に布陣。
    • 6月23日 - 織田信長、海抜500mの要害堅固な小谷城攻めは無益とし、いったん兵を引き琵琶湖へ注ぐ姉川を越え、竜ヶ鼻へ本陣を移動。
    • 徳川家康着陣。
    • 織田信長・徳川家康の連合軍と朝倉義景・浅井長政連合軍が姉川を挟み対峙する。
    • 6月28日 - 早朝、姉川の河原で姉川の戦い[あねがわのたたかい]が始まる。朝倉・浅井は善戦したが、織田・徳川連合軍が勝利。浅井長政は小谷城に敗走。思うところあってか信長は追わず。
    • 織田信長、小谷城と向き合う二里先の横山城を落とし、木下秀吉に守らせ岐阜へ戻る。
    • 9月12日 - 石山本願寺・顕如[けんにょ]、織田信長に対し挙兵する。これより顕如が石山本願寺を退去するまでの11年にも及ぶ石山合戦が始まる。
  • 元亀2年 [1571年]
    • 9月12日 - 織田信長、朝倉・浅井両氏と結ぶ比叡山延暦寺を焼き討ちにする。
  • 元亀3年 [1572年]
    • 10月3日 - 武田信玄軍が甲斐・躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]を出立する。出陣の目的としては15代将軍・足利義昭からの要請で上洛しようとした、または信長を討伐しようとしたと言う説がある。いずれにせよ当時の武田最大動員数の約3万弱の兵を引き連れての出立だったと言うから信玄公人生最大の乾坤一擲[けんこんいってき]の大勝負に出たと言うことだろう。兵は三手に分かれ、信玄率いる本隊は徳川家康領の遠江[とおとうみ]へ、秋山信友率いる伊奈衆が美濃へ、山県昌景[やまがたまさかげ]率いる兵は奥三河へと侵攻した。
    • 12月9日 - 信玄軍、徳川方の支城・二俣城を陥落させる。
    • 12月22日 - 圧倒的兵力の差から浜松城に篭城して戦うつもりだった家康は、信玄軍が浜松城を素通りし敷知郡[ふちのこおり]の三方が原台地へ進軍するのを確認、このまま行かせてなるものかと意を決して篭城作戦から野戦に打って出る。三方が原の戦い[みかたがはらのたたかい]である。家康はこの戦いで完膚なきまでに敗北し、敗走途中に恐怖で脱糞したことはあまりにも有名。惨敗した家康だが、圧倒的兵力差を物ともせず野戦に挑んだ家康の名声は高まる結果となった。しかし家康がなぜ城を飛び出したかと言う理由は近年の研究によると、浜松城を素通りしていく信玄に一矢も報いず遣り過せば、あとで信長に叱責されるというのを恐れたためとの説や、家康は通り過ぎていく信玄をじっとやり過ごすつもりだったが、血気盛んな家臣たちが見物と称して次々と勝手に飛び出して行ってしまい、それを連れ戻しに行って戦闘に巻き込まれてしまったと言う説が有力らしい。
  • 元亀4年 [1573年]
    • 1月 - 三方が原の戦いで勝利した武田信玄は、さらに徳川領の三河へ侵攻、徳川方の野田城を陥落させる。
    • 2月 - 武田信玄、陣中にて発病[肺結核だったと言われている]。已む無く甲斐への帰路に就くが、途中、信濃伊奈郡の駒場[こまんば]にて死亡する。家督は武田勝頼[かつより]が継ぐが、信玄の遺言により3年間喪を秘す事になる。
    • 4月 - 足利義昭、三好義継・松永久秀らと同盟を結び、信長に対して挙兵するものの、正親町天皇の勅命により和解。
    • 7月 - 足利義昭、信長に対して2度目の挙兵、信長に捕らえられ河内に追放される。室町幕府滅亡。
第106代 正親町天皇 15代 足利義昭[〜天正16年 1588年 1月13日、または元亀4年 1573年 7月] 4年 4月12日 1573年 武田信玄[死]
天正 てんしょう 1573年〜1591年
  • 天正元年 [1573年]
    • 7月18日 - 信長、足利義昭を追放する。室町幕府滅亡
    • 8月 - 信玄が死に、足利義昭の追放によって、所謂、信長包囲網は完全に瓦解した。後顧の憂いを絶った織田信長は浅井長政を討伐せんと3万の兵を率い北近江に侵攻。総勢5千の兵しか持たない浅井長政は成すすべも無く小谷城[おだにじょう]に籠城する。これに呼応し朝倉義景も出兵した。
    • 8月12日 - 暴風雨の中、信長は朝倉方が守る大嶽砦[城]を奇襲し陥落させる。
    • 8月13日 - 朝倉義景は大嶽砦の陥落から形勢不利と判断し、撤退の命を下す。
    • 8月14日 - 信長は自ら本隊を指揮し撤退した朝倉軍を追撃し大打撃を与える。刀根坂の戦い[とねざかのたたかい]
    • 8月15日 - 総大将の朝倉義景は自陣の一乗谷城へ逃れる。
    • 8月17日 - 信長、義景に止めを刺すべく越前に侵攻。一乗谷城の戦い。
    • 8月18日 - 信長、一乗谷の街を焼く。
    • 8月20日 - 秀吉の事前工作により、自分の手勢に裏切られ朝倉義景自刃。朝倉氏滅亡。
    • 8月27日 - 信長軍は、北近江に戻り、小谷城に籠城する浅井長政の攻略に取り掛かる。すぐさま、信長の命が下った。「お市と子を城から救い出せ」。だが秀吉をはじめ誰もが分かっていた、戦火の混乱時に足腰の弱い女子供を救い出すのは至難の業だと。お市とは言うまでも無く信長の妹であり長政の妻である。信長が下した鉛のごとく重い命令の前に陣中の各ご武人たちは良い案が思い浮かばず、黙ってしまったが、しばらくして秀吉の軍師・竹中半兵衛が良策をひねり出した。「父の久政は頑固一徹で、父の前で長政はいつも遠慮している。久政を引き離せば、長政も安心して、お市母子を道ずれにするようなことはあるまい。」つまり、父の久政を先に討てと言うことだ。
      やはり、竹中半兵衛の策は的中した。小丸にいる久政と本丸の長政を分断し先に久政を自害に追い込んだ後、長政に久政自刃を伝えると状況は一変した。長政はお市を開放するとし、城兵の助命を嘆願した。しかし、降伏は武士の意地が許さぬから腹を切ると言うのであった。
      裏切り行為には厳罰で臨んで来た信長だったが、何か思うところがあったのだろうか、この時は信長らしくない計らいで、長政に命と開城後の生活を安堵し、何度も降伏を促したという。だが長政は頑として応じなかったという。一方、お市は長政を非常に好いていたらしく共に自害をする心づもりだったらしい。結局、お市は長政に説得され、無事3人の娘とともに小谷城を出た。そして終に長政は城に火を掛け自刃することになる。こうして浅井家は滅亡した。
      そして、助け出されたお市は、信長が本能寺の変で死んだ後、信長重臣筆頭の柴田勝家の妻となり、信長死後の家督争いで、秀吉に攻められ柴田勝家と共に自害するのである。娘はそれぞれ、長女の茶々[淀殿]が秀吉の側室となり豊臣秀頼を生み、次女の初は京極高次の妻、三女の小督[おごう]またはお江与[おえよ]は徳川2代将軍・秀忠の妻・崇源院[すうげんいん]となり、3代将軍家光を生むのである。
  • 天正2年 [1574年]
    • 正月 - 織田信長は朝倉義景、浅井久政、長政の髑髏[どくろ]を薄濃[はくだみ:漆塗り、金粉・金泥を施したもの]にし、白木の台に乗せ酒宴を楽しんだ。自分に逆らって一時は追い詰められもした朝倉・浅井の髑髏を酒の肴に酒を飲み、信長自身は非常に上機嫌だったというが、さすがに家臣たちはドン引きしていたという。死者を冒涜したのか、敬意を表したのか、または何もかもが思い通りになっていく記念にしたのか、信長自身に聞いてみないと分からない事だろう。信長公記には未だかつて聞いたことも無い、珍奇な肴にて酒を飲んだ、とあるのでそれ自体は一般的なことではなかったと思われる。
    • 正月 - 甲斐 武田勝頼、信長が石山本願寺、越前、伊勢長島一向一揆の鎮圧に忙殺されているのに乗じ、信長領の東美濃に侵攻する。
    • 2月 - 武田勝頼、明智城をはじめ信長配下の城を次々と落とす。18もの城が落とされたというから、まさに旭日天に昇る勢いとはこの事だ。これを牽制したのが越後の上杉謙信である。謙信は信長・家康の要請により背後を脅かし、勝頼は甲斐に兵を退かざるを得なかった。この時、信長は謝礼として謙信にあの有名な狩野永徳[かのうえいとく]の洛中洛外図屏風[らくちゅうらくがいずびょうぶ]を、家康は備前正家の刀を贈っている。
    • 5月12日 - 武田勝頼が家康領・遠江の高天神城[たかてんじんじょう]を落とす。城将は小笠原長忠。信玄が死んだあと信玄の遺言は「3年間は喪を秘せ」と言う事だった。そのため表向き、勝頼は信玄の陣代と言う形だったが、勝頼にとっては重臣たちに自分の力を証明する絶好の戦いだった。と言うのも信玄が存命中の元亀2年に、この高天神城を攻めたが落とせなかったからである。その高天神城を落としたのだのだから、相当な自信過剰に陥ったことだろう。実際、勝頼の戦国大名として、いや勝頼の人生のピークはこの戦いだったのではないだろうか。この戦いで家康は明らかに兵力で劣っていたため、信長に援軍を要請したが、このとき信長は越前の一向一揆に掛かっており、すぐには兵力が割けず、信長の援軍が押し出して来た時にはすでに開城してしまった後だという。それも勝頼にとって幸運だったのかもしれない。
    • 6月〜10月 - 織田信長は石山本願寺、越前国、伊勢長島の本願寺勢を完全討伐せよとの大動員令を発する。この一向一揆鎮圧の激戦にて、信長の庶兄・織田信広や弟の織田秀成らが討ち死にしている。
    • 9月29日 - 織田信長、伊勢長島一向一揆鎮定
  • 天正3年 [1575年]
    • 4月 - 武田勝頼の元に、徳川家康の家臣・大賀弥四郎[おおがやしろう]が勝頼に内応するという密書が届く。つまり寝返ると言うことだ。勝頼は大賀の手引きにて家康の岡崎城を攻めるべく兵を挙げるが、大賀の謀[はかりごと]が家康に見抜かれ大賀弥四郎は殺される。勝頼は挙げてしまった兵を戻さず、同じく徳川方の長篠城攻めに方向転換することとなる。長篠城は徳川方の城といっても城主は信玄の代に武田家に仕えていた奥平信昌。奥平氏は信玄が死んだ時、家康方に寝返っている。家康がその奥平氏を長篠城に配置したのは、もし武田が攻めて来ても寝返った奥平なら必死で武田に抵抗するだろうと踏んでいたからだ。当然、この事で勝頼は憤慨し遺恨に残っていた。だから裏切り者の城を攻め落とさんと、兵を退かず、ついでに押し出して来たのだろう。ちなみに奥平信昌は元の名を貞昌[さだまさ]と言った。この戦いの褒美に信長から偏諱[へんき]を賜り貞昌から信昌と改名したそうだ。
    • 5月11日 - 武田勝頼の軍勢が徳川方に奪われていた奥三河にある長篠城を包囲する。
    • 5月21日 早朝 - 長篠・設楽が原の戦い[ながしの・したらがはらのたたかい]が起きる。この戦の端は5月11日に奥三河にある徳川方の長篠城が武田勝頼軍に包囲され、長篠城篭城戦が始まり長篠城が陥落寸前になることから始まる。兵糧蔵も奪われ、ついに落城寸前にまでなった時、奥平信昌の家臣、鳥居強右衛門[とりいすねえもん]が決死の覚悟で城を抜け出し家康に知らせた。その後、鳥居は帰陣する際、武田軍に捕まり殺されている。すぐさま家康は織田信長に救援を要請した。そして長篠城西方の設楽が原において、武田勝頼軍と徳川家康・織田信長の連合軍が戦ったのがこの「長篠・設楽が原の戦い」である。この戦いにおいて、信長は乾掘り[けんぼり]や土塁などで告ャされる陣城[じんしろ]と馬防柵[ばぼうさく]を作り、勝頼軍をうまくおびき出したところを鉄砲で撃ちかけ、勝頼軍に大打撃を与えた。 誘き出したというより、信長に背後の鳶巣山[とびのすやま]を抑えられ、勝頼は云わば罠が仕掛けられた設楽が原に出ざるを得なかったらしい。信長がうますぎた。重臣たちが撤退を進言する中、なぜ勝頼が敵の鉄砲隊が激しく撃ち掛けてくるのに何度も突撃していったのかについては諸説あったが、最近ではこのように前に押し出されたといった事が有力な説になってきているらしい。 あとは前年に父の信玄も落とせなかった高天神城を落としたことで自信過剰に陥っていて、がむしゃらに突撃していったと言うこともあるかもしれない。信長が鉄砲隊を三列にして、前列が撃っている間に後列が準備をし、馬防柵の間から間髪をいれず順番に鉄砲を打ち掛けたのもこの戦いである。ただし、この鉄砲三段撃ちと言う方法は存在しなかったし、さらに武田の騎馬軍団自体も無かったと言う説もあるので、それが事実だとすると長篠・設楽が原の戦いも、後世に伝わっている様子とはまったく異なる風景だったのかも知れない。 何れにせよ、この戦いで武田軍の重臣、山県昌景[やまがたまさかげ]、馬場信房、土屋昌次らが死んで、武田氏は滅亡の道を突き進むことになり、7年後の武田討伐により滅亡するのである。
    • 8月19日 - 織田信長、本願寺の坊官・下間頼照[しもつまよりてる]率いる越前一向一揆を鎮圧、後の越前統治は柴田勝家に任せる。
  • 天正4年 [1576年]
    • 1月 - 織田信長、丹羽長秀に命じ近江の安土山に築城を開始する。
    • 2月23日 - 織田信長、安土城に移る。
    • 7月15日 - 木津浦の海戦、石山本願寺に兵糧を運び入れようとする毛利水軍とそれを阻止しようとした織田側の九鬼水軍との海戦。毛利水軍が勝利し、石山本願寺に兵糧が運び込まれる。
    • 上杉謙信、2万の軍勢を率い能登の七尾城[畠山氏]の攻略を開始する。畠山氏はかねてから誼を通じていた織田信長に援軍を依頼する。
  • 天正5年 [1577年]
    • 8月8日 - 織田信長、柴田勝家を総大将とする北国軍を加賀、能登・七尾城に派兵。後日、羽柴秀吉は柴田勝家と意見が合わず信長の許可を得ずに戦線離脱。
    • 9月15日 - 柴田勝家らの援軍を待たずして、七尾城が陥落する。
    • 9月23日 - 手取川の戦い。七尾城陥落を知り、慌てて撤退を開始した柴田勝家率いる織田軍を上杉軍が追撃し撃破した。上杉軍の大勝利。「上杉に逢うては織田も手取川、はねる謙信逃げるとぶ長」
    • 10月23日 - 羽柴秀吉、織田信長より中国地方攻略の命を受け、京を出立する。先の北方遠征での失態の汚名を返上するための出陣でもあった。
  • 天正6年 [1578年]
    • 正月 - 近江 安土城完成 [織田信長]
    • 3月13日 - 上杉謙信、越後の春日山城にて急死
    • 3月 - 三木の干殺し[みきのひごろし、ほしごろし]で有名な三木合戦[みきがっせん]が始まる。これは中国地方攻略中の羽柴秀吉と、播磨国[はりまのくに]の三木城に篭城した別所長治[べっしょながはる]以下約7500人との2年間にも亘る壮絶な長期篭城戦である。支城の英賀城や毛利氏などの支援により隙を見ては兵糧が運び込まれ、このような長期の篭城戦となった。秀吉はまず、一つ一つ支城を攻略し、包囲のための付城[つけじろ]を築いたうえ、数メートル間隔に兵を立たせ、昼夜問わず監視し徹底的に兵糧の補給路を遮断した。
    • 10月 - 織田方の摂津国の荒木村重が離反し毛利氏側につき新たな兵糧の流通経路ができる。摂津は播磨の東。
  • 天正7年 [1579年]
    • 5月 - 秀吉、播磨の東の摂津からの兵糧流入を遮断するため丹生山明要寺と淡河城を攻略
    • 6月 - 秀吉の軍師・竹中半兵衛が平井山の陣中で病死する。
    • 10月30 - 毛利氏側であった備前国・岡山城の宇喜多直家が離反。戦わずして備前と美作[みまさか]が信長の版図に加えられる。これにより、毛利の領国と播磨、摂津の間が分断され、毛利の支援が途絶える。
  • 天正8年 [1580年]
    • 1月 - すでに三木城の兵糧は底を尽き、まさに干し殺し状態となる
    • 1月14日 - 城主切腹、城兵助命という条件が出される。
    • 1月16日 - 城中別れの宴が催される。
    • 1月17日 - 三木城城主・別所長治の一族が切腹し、正味1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終わる。「いまはただうらみもあらず、もろ人の命にかはるわが身と思へば」別所長治辞世の歌。
    • 4月9日 - 本願寺顕如、石山本願寺を退去。11年に及ぶ石山合戦が終決。
    • - 秀吉、播磨を平定した後、但馬[たじま]、因幡[いなば]へと軍を進める。
  • 天正9年 [1581年]
    • 3月18日 - 吉川経家[きっかわつねいえ]が因幡鳥取城に入城する。三木城を兵糧攻めにより落とした秀吉は、すぐさま但馬[たじま]から因幡[いなば]へと軍を進め、毛利方の鳥取城攻略を開始する。因幡鳥取城の本来の城主、山名豊国は秀吉の謀略によりあっさりと城を出てしまった。秀吉は山名豊国に「城を明け渡せば因幡一国を与える」と言ったらしい。当然、罠だったのは言うまでも無い。開城に反対する一部の重臣を残したまま、まさに落城寸前という時、城内の重臣の要請により、毛利方から臨時城主として吉川経家が因幡鳥取城に送られた。吉川経家は毛利両川[もうりりょうせん]の一人、毛利元就の次男・吉川元春一門の武将である。
    • 7月12日 - 秀吉2万の軍勢が因幡鳥取城とその支城・丸山城を包囲する。三木の干し殺しと並び、数ある戦国時代の合戦の中で最も壮絶な兵糧攻めと言われる、鳥取の渇え殺し[とっとりのかつえごろし]が始まる。
    • 9月 - 早くも城内の兵糧が底をつきはじめる。吉川経家は愕然とした。冬になれば雪で秀吉の包囲網も緩くなり、毛利からの兵糧補給が期待できると踏んでいたからだ。しかし、現実は甘くなかった。これは三木の干殺しで経験を積んだ秀吉の事前工作が功を奏する形となった。秀吉は播磨の三木城攻めと同様に包囲のための付城[つけじろ]を築城し、兵糧の搬入経路を徹底的に遮断した。しかし、吉川経家が毛利一門だと言うことを考えると、毛利方の兵糧を搬入する援軍の力の入れようは播磨の三木城の時の比では無かったように思われるが、これを阻止した秀吉軍の力は相当な物だったのだろうと容易に想像が付く。そして極め付けなのが、前もって因幡国中の米を通常の倍の値段で買い占めたと言う話である。鳥取城でもそれが秀吉の謀略だとは思いもよらず、兵糧米まで売ってしまっていたと言うから愚の骨頂と言うしかない。だが、この話は出来すぎなので誰かの創作だろう。さらに秀吉は鳥取城下の村や町で、兵にいやがらせや乱暴を働かせ、盛んに城中へ人を逃げ込ませていたらしい。人が増えればそれだけ兵糧の消費が早くなると言う巧妙な戦略だった。それにしても秀吉恐るべし。そしてついに城内は最悪の状態を迎えることとなる。飢えた人々は馬や家畜はもちろん、虫、草木、食べられるものは全て食べつくしたあと、餓死した死体まで食べ始めたと言う。吉川経家は決断した。城主切腹、城兵助命である。秀吉は経家が臨時の城主だと知っていたので、経家を城に呼んだ元城主の山名豊国の重臣たちの切腹を命じたが、経家はそれでは吉川一門の名が落ちるとし、切腹して死んだ。
    • 10月25日 - 吉川経家、切腹。最後は子供達に手紙を書き残している。「鳥取の事、夜昼二百日耐えたが、兵糧が尽き果てた。私が一人切腹すれば、城の皆が助かる。これは吉川一門の名を上げる事になる。これで良いのだ。」
  • 天正10年 [1582年]
    • 2月 - 武田勝頼、信長方に寝返った妹・真理姫の夫の木曾義昌[きそよしまさ]を攻めた。親類縁者である木曾義昌が謀反を起したのは、度重なる出兵による財政難のために勝頼が課した賦役の増大に不満を抱いていた折、更に新府城築城で賦役を課されたことが原因だった。勝頼は信長等との戦いで軍資金に窮していたのだが、それが親類縁者の裏切りを招いてしまった。仕方が無いとはいえ自業自得である。
    • 2月3日 - 織田信長、木曾義昌謀反の報を聞き及び、武田勝頼討伐の大動員令を発した。
    • 2月 - 信長の命を受けた武田征伐軍はぞくぞくと甲斐へ出陣。この一連の動きは武田征伐とも武田崩れとも言われる。信忠が伊奈方面より、徳川家康が駿河より、金森長近が飛騨より、北条氏直が関東と伊豆より武田領に侵攻した。北条氏政の嫡子・氏直が出陣した理由は次の通り。上杉謙信死後の関東管領・上杉家の家督相続争いである御館の乱[おたてのらん]が起きた際に、北条氏康の次男・氏政の弟の七男・上杉景虎[北条氏秀]を勝頼が見捨て、上杉景勝側[謙信の甥]に付いたことによる。勝頼の継室は氏康の娘で、天目山の戦いで勝頼と共に自刃した北条夫人。御館の乱の結果、上杉景虎は家督相続争いに破れ自刃している。ちなみに景勝は勝頼を味方に付ける為、東上野[ひがしこうずけ]の割譲と黄金一万両[二万両とも]を送る事を約束したとされる。財政難に喘ぐ勝頼は金に目が眩み、北条家まで敵に回してしまった。この時点でのみ言うなら勝頼の失策としか言いようが無い。
    • 2月18日 - 徳川家康が浜松城を出陣
    • 2月28日 - 武田勝頼、諏訪から新府城[未完成]に逃亡
    • 3月1日 - 織田信忠、武田勝頼の弟・仁科盛信[にしなもりのぶ]の籠城する高遠城を包囲、地元の僧侶を使者として開城を迫った。仁科盛信は「我らは不義の臆病者ではない、早々に攻めて来られるがよろしかろう」と使者の僧侶は耳と鼻を削がれ送り返される。
    • 3月2日 - 織田信忠に攻められ高遠城が落ちる。仁科盛信は奮戦したものの、力尽きた。盛信の最後は満身創痍、甲冑を脱ぎ捨て、脇腹に短刀を突き刺して腸を引っ張り出し、壁に叩きつけての絶命だったと言う。最後の武田武士は仁科五郎盛信だったのかもしれない。
    • 3月3日 - 武田勝頼、新府城に火を放ち、祖父・武田信虎以来の武田家の重鎮を務めてきた小山田家・小山田信茂の岩殿城に向け出発
    • 3月5日 - 織田信長、安土城を出陣
    • 3月9日 - 武田勝頼と嫡男の信勝の軍勢は岩殿城の手前で小山田信茂の軍勢より攻撃を受ける[小山田信茂の裏切り]。勝頼父子は天目山へ逃げる。
    • 3月11日 - 天目山の戦い。武田勝頼は滝川一益の軍勢に最後の戦いを挑むものの、追い詰められ、勝頼、信勝、北条夫人は自刃し、甲斐源氏・武田家が滅亡する。
    • 3月14日 - 進軍中の信長の元へ勝頼の首級が届けられる。信長は勝頼の首級を杖で突き、足蹴にしたという[常山紀談:じょうざんきだん]。信玄以来、積もりに積もった積年の恨み晴らしたりと言うわけだ。
    • 3月21日 - 織田信長、諏訪に到着
    • 4月1日 - 信長、甲斐へ向かう、途中生涯初となる富士山を見る。
    • 4月3日 - 信長、武田の本拠地であった躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]の焼け跡に到着
    • 4月10日 - 信長、東海道遊覧に向かい、帰路につく
    • 4月21日 - 信長、安土城に凱旋する
    • 6月2日 - 本能寺の変、織田信長 自刃
    • 6月13日 - 山崎の戦い[やまざきのたたかい]が起きる。織田信長に謀反を起した明智光秀に対する、羽柴秀吉らの弔い合戦。明智光秀軍は破れて敗走。光秀は落ち延びる途中、小栗栖[おぐるす]で落ち武者狩りを生業とする土民・長兵衛に殺される。
    • 6月27日 - 織田信長の後継者と領地分配を決定する清洲会議が開かれる。後継者は次男の信雄[のぶかつ]でもなく、織田家重臣筆頭の柴田勝家の推す三男の信孝でもなく、本能寺の変で討ち死にした信長嫡男・信忠の息子「三法師:さんぽうし」に決定する。三法師を推し、その後見人になった秀吉の影響力は高まり、逆に柴田勝家の力は弱まる結果になった。
  • 天正11年 [1583年]
    • 正月 - 羽柴秀吉に対し、伊勢の滝川一益[たきがわかずます]が柴田勝家に与し挙兵。
    • 2月末 - 柴田勝家、秀吉と戦うため近江に向けて出陣
    • 3月〜4月中旬 - 賤ヶ岳の戦い[しずがたけの戦い]
  • 天正12年 [1584年]
    • 3月 - 小牧・長久手の戦い[こまき・ながくてのたたかい]。羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が戦った。
第106代 正親町天皇[〜天正14年 11月7日 1586年]

第107代 後陽成天皇 ごようぜいてんのう[天正14年 11月7日 1586年〜]
  6年 3月13日 1578年 上杉謙信[死]

10年 6月2日 1582年 織田信長[死]
織豊・安土桃山時代
1573年〜1603年
文禄 ぶんろく 1592年〜1596年   第107代 後陽成天皇    
慶長 けいちょう 1596年〜1615年   第107代 後陽成天皇[〜慶長16年 3月27日 1611年]

第108代 後水尾天皇 ごみずのおてんのう[慶長16年 3月27日 1611年〜]
第1代 徳川家康[慶長8年 2月12日 1603年〜慶長10年 5月1日 1605年]

第2代 徳川秀忠[慶長10年 5月1日 1605年〜]
2年 8月28日 1597年 足利義昭[死]

3年 8月18日 1598年 豊臣秀吉[死]

9年 7月17日 1604年 徳川家光[生]
江戸時代
1603年〜1868年
元和 げんな 1615年〜1623年   第108代 後水尾天皇 徳川秀忠[〜元和9年 7月27日 1623年]

第3代 徳川家光[元和9年 7月27日 1623年〜]
2年 4月17日 1616年 徳川家康[死]
寛永 かんえい 1624年〜1643年 甲子改元 第108代 後水尾天皇[〜寛永6年 11月8日 1629年]

第109代 明正天皇 めいしょうてんのう[寛永6年 11月8日 1629年〜寛永20年 10月3日 1643年]

第110代 後光明天皇 ごこうみょうてんのう[寛永 20年 10月3日〜]
第3代 徳川家光 9年 1632年 1月24日 徳川秀忠[死]
正保 しょうほう 1644年〜1647年   第110代 後光明天皇 ごこうみょうてんのう 第3代 徳川家光  
慶安 けいあん 1648年〜1651年   第110代 後光明天皇 第3代 徳川家光[〜慶安4年 4月20日 1651年] 4年 4月20日 1651年 徳川家光[死]
承応 じょうおう 1652年〜1654年   第110代 後光明天皇[〜承応3年 4月20日 1654年]

第111代 後西天皇 ごさいてんのう[承応3年 11月28日 1655年〜]
   
明暦 めいれき 1655年〜1657年        
万治 まんじ 1658年〜1660年        
寛文 かんぶん 1661年〜1672年        
延宝 えんぽう 1673年〜1680年        
天和 てんな 1681年〜1683年        
貞享 じょうきょう 1684年〜1687年 甲子改元      
元禄 げんろく 1688年〜1703年        
宝永 ほうえい 1704年〜1710年        
正徳 しょうとく 1711年〜1715年        
享保 きょうほう 1716年〜1735年        
元文 げんぶん 1736年〜1740年        
寛保 かんぽう 1741年〜1743年        
延享 えんきょう 1744年〜1747年 甲子改元      
寛延 かんえん 1748年〜1750年        
宝暦 ほうれき 1751年〜1763年        
明和 めいわ 1764年〜1771年        
安永 あんえい 1772年〜1780年        
天明 てんめい 1781年〜1788年        
寛政 かんせい 1789年〜1800年        
享和 きょうわ 1801年〜1803年        
文化 ぶんか 1804年〜1817年        
文政 ぶんせい 1818年〜1829年        
天保 てんぽう 1830年〜1843年        
弘化 こうか 1844年〜1847年        
嘉永 かえい 1848年〜1853年        
安政 あんせい 1854年〜1859年        
万延 まんえい 1860年        
文久 ぶんきゅう 1861年〜1863年        
元治 げんじ 1864年        
慶応 けいおう 1865年〜1867年        
明治時代
1868年〜1912年
明治 めいじ 1868年〜1912年 ※明治から一世一元となった      

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