安土桃山末期の強固な石垣 岡崎城(愛知)で発見、国内4番目の規模
中日新聞
徳川家康が誕生した愛知県岡崎市の岡崎城の「大林寺郭(くるわ)堀」跡で、安土桃山時代末期に築かれたとみられる二段になった防御用の強固な石垣が見つかった。関ケ原の戦い(一六〇〇年)以前の城郭では高さと長さでは類を見ない総石垣造りの上、石垣は天守から五百メートルも離れており、日本の城としては江戸城、豊臣政権下の大坂城、拡張を繰り返した幕末の姫路城に次いで四番目に巨大な城だったことが証明された。三日に現地を視察した城郭研究の第一人者である広島大大学院の三浦正幸教授(53)=文化財学=は「近年まれにみる大発見」と注視している。
見つかったのは、岡崎市材木町のマンション建設予定地。民有地で、開発に伴い市教育委員会が今年二月の試掘で石垣を確認。九月下旬から本格的な発掘調査を進めている。
石垣は地表のすぐ下で見つかり、全長約三十メートルに及ぶ。総堀の内側にあった外堀の「大林寺郭堀」で、上段と下段の間に幅一-二メートルの「犬走り」と呼ばれる通路がある。高さは約七メートルあり、自然石をそのまま積み上げる「野面(のづら)の乱積み」と呼ばれる築造方法だった。
市教委は、石垣周辺で見つかった道の遺構などとともに石垣の埋蔵状況を写真撮影して記録。調査は今週半ばまでの予定のため、既に上段の石垣は長さの三分の二程度が解体されている。
三浦教授によると、野面の乱積みによる犬走りの構造は、城造りのピークを迎えていた一六〇八(慶長十三)年以前の形式。当時の築造技術では高い石垣が造れず、築かれた場所は低湿地など地盤が軟弱な土地だったことから、犬走りを設けて二段にして補強した。「関ケ原以前の城郭では二の丸の外側にこのような石垣は造っておらず、大変貴重」という。
この石垣は天下を取った豊臣秀吉の命で、一五九〇(天正十八)年に岡崎城主となった田中吉政(一五四八-一六〇九年)が築いたと推定。この年、関東に移封された家康のかつての本拠地で、豊臣政権が権勢を誇示し、政略、戦略的に重要な位置を占める狙いがあったのではないかという。
岡崎市教委は江戸時代の城絵図や文献などから、この石垣は一六〇一(慶長六)年に岡崎城主となった本多康重(一五五四-一六一一年)が主君家康の命で整備した堀の一部とみていた。これまで岡崎城の外堀などの本格的な石垣は見つかっていない。
三浦教授は「国や市の文化財指定も受けておらず、民間の開発を止める法律はない。解体されるのは大変惜しまれる」と話している。
■岡崎市教委文化財班の話 民有地なので現時点では保存は難しいと思う。中世城郭の専門の学芸員はいなく、専門家の判断を仰ぎたい。
【岡崎城】1452(享徳元)年ごろ、三河守護代の西郷頼嗣(よりつぐ)が築城。1531(享禄4)年、徳川家康の祖父松平清康が城主となり、本格的な城郭を持つ城に改修。1542(天文11)年、家康が城内で誕生し、幼少期に人質として駿河で過ごした後、1570(元亀元)年まで岡崎城に居城、天下統一への基礎を固めた。江戸時代には「神君出生の城」として重要視されたが、明治維新後、城郭の大部分が取り壊された。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2007110402061658.html
岡崎城 巨大規模だった 家康の生誕地 強固な二段式石垣発見
東京新聞
発見された安土桃山時代末期の岡崎城の中堀の2段の石垣(石垣と石垣の間は犬走りと呼ばれる)=愛知県岡崎市材木町で(写真解説文)
徳川家康が誕生した愛知県岡崎市の岡崎城の「大林寺郭(くるわ)堀」跡で、安土桃山時代末期に築かれたとみられる2段になった防御用の強固な石垣が見つかった。関ケ原の戦い(1600年)以前の城郭では高さと長さで類を見ない総石垣造りの上、石垣は天守から500メートルも離れ、日本の城としては江戸城、大坂城、姫路城に次ぐ4番目に巨大な城だったことが証明された。3日に現地を視察した城郭研究の第一人者で広島大大学院の三浦正幸教授(53)=文化財学=は「近年まれにみる大発見」と注視している。
見つかったのは、岡崎市材木町のマンション建設予定地。開発に伴い市教育委員会が試掘で石垣を確認し、九月下旬から本格調査を進めている。
石垣は地表のすぐ下で見つかり、全長約三十メートル。総堀の内側にあった外堀の「大林寺郭堀」で、上段と下段の間に幅一-二メートルの「犬走り」と呼ばれる通路がある。高さは約七メートルあり、自然石をそのまま積み上げる「野面(のづら)の乱積み」と呼ばれる築造方法だった。
三浦教授によると、野面の乱積みによる犬走りの構造は、城造りのピークを迎えていた一六〇八(慶長十三)年以前の形式。当時の築造技術では高い石垣が造れず、低湿地など地盤が軟弱な土地に犬走りを設け、二段にして補強した。「関ケ原以前の城郭では二の丸の外側にこのような石垣は造っておらず、大変貴重」という。
この石垣は豊臣秀吉の命で、一五九〇(天正十八)年に岡崎城主となった田中吉政(一五四八-一六〇九年)が築いたと推定。この年、関東に移封された家康のかつての本拠地で、豊臣政権が権勢を誇示し、政略、戦略的に重要な位置を占める狙いがあったのではないかという。
岡崎市教委は江戸時代の城絵図や文献などから、この石垣は一六〇一(慶長六)年に岡崎城主となった本多康重(一五五四-一六一一年)が主君家康の命で整備した堀の一部とみていた。これまで岡崎城の外堀など本格的な石垣は見つかっていない。
三浦教授は「国や市の文化財指定も受けておらず、民間の開発を止める法律はない。解体されるのは大変惜しまれる」と話している。
保存は難しい
岡崎市教委文化財班の話 民有地なので現時点では保存は難しいと思う。中世城郭を専門とする学芸員はおらず、専門家の判断を仰ぎたい。
<メモ>岡崎城 1452(享徳元)年ごろ、三河守護代の西郷頼嗣(よりつぐ)が築城。1531(享禄4)年、徳川家康の祖父松平清康が城主となり、本格的な城郭を持つ城に改修。42(天文11)年、家康が城内で誕生し、幼少期に人質として駿河で過ごした後、70(元亀元)年まで岡崎城に居城、天下統一への基礎を固めた。江戸時代は「神君出生の城」として重要視されたが、明治維新後、城郭の大部分が取り壊された。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2007110502062051.html
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⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板