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戦国時代の医師はどんな人がいたのか、歴史好きとしては気になってしまう人もいることでしょう。医師は当時確固たる職業としては存在せず、僧侶や公家が副業として行っていたりもしていました。そして、まじないの類を行う女性などが薬を調合し、飲ませるといったことも行われていたようです。しかし、そんな中に曲直瀬道三という下級公家の出身でありながら「医聖」と呼ばれるようになった人物がいます。
曲直瀬道三は、近江源治佐々木氏諸流の家に生まれた人物でした。実際は宇田源氏の流れというものの分家であり、生活は貧しかったようです。そのうえ子供の頃に、父母共に他界しています。彼は戦国武将などの存在に比べるとマイナーで地味ですが、伝記を読んでみるといかに日本の医学に貢献したのかがわかる人物でもあるのです。
道三は五山文学の中心地である京都の相国寺に入寺。かつ時期となることによって、詩文や書を学んだといいます。その後関東に下り足利学校に入学。この時に医学に興味を示したそうです。入門して漢方医学を修め、僧侶をやめて還俗し医学に専念する道を選んだといわれています。そして足利義輝の診察し、日本の混乱期であるために記録は散々しているものの恐らく皇室などの診察も行っていただろうと推察されています。名声が高まると、京都に恵迪院という医学校を開設。それまでの観念的な治療を改めて、道三流の医師道を作り文化に貢献しました。その後有力な戦国大名などの武将の診療もしており、松永秀久には性技指南書まで伝授していたといいます。
1560年には宮中に参内し、正親町天皇の脈をとったという記録が残っています。これまでの経歴を買われての出世であることがうかがうことができるのです。この後は中国地方に行き、中国地方にも道三の文化が広めることとなりました。また織田信長の診察も行ったとされ、お礼に明香を贈られています。その後はイエズス会宣教師オルガンティノを診察したことがきっかけで、キリスト教に入信。そしてそれまでの経歴を評価され、橘という名と、今大路という名前を賜っています。そして88歳の時に死去し、葬儀の時は僧侶だけで20名が読経し、生徒たちも結縁のために参列したしました。死後は娘がいて、婿養子を取り現在も今大路家は続いています。今大路家は代々幕府の奥意思を世襲しており、江戸時代末期までは官医として貢献する家となったのでした。現在の医学に応用できる発見もしており、もっと評価されていい人物ではないかと再注目されています。
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