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■天正8年 [1580年]
夏 - 秀吉、播磨[はりま]を平定した後、但馬[たじま]、因幡[いなば]へと軍を進める。
■天正9年 [1581年]
3月18日 - 吉川経家[きっかわつねいえ]が因幡鳥取城に入城する。
三木城を兵糧攻めにより落とした秀吉は、すぐさま但馬[たじま]から因幡[いなば]へと軍を進め、毛利方の鳥取城攻略を開始する。因幡鳥取城の本来の城主、山名豊国は秀吉の謀略によりあっさりと城を出てしまった。秀吉は山名豊国に「城を明け渡せば因幡一国を与える」と言ったらしい。当然、罠だったのは言うまでも無い。開城に反対する一部の重臣を残したまま、まさに落城もやむなしかという時、城内の重臣の要請により、毛利方から臨時城主として吉川経家が因幡鳥取城に送られた。吉川経家は毛利両川[もうりりょうせん]の一人、毛利元就の次男・吉川元春一門の武将である。
7月12日 - 秀吉2万の軍勢が因幡鳥取城とその支城・丸山城を包囲する。三木の干し殺しと並び、数ある戦国時代の合戦の中で最も壮絶な兵糧攻めと言われる、鳥取の渇え殺し[とっとりのかつえごろし]が始まる。
9月 - 早くも城内の兵糧が底をつきはじめる。吉川経家は愕然とした。
冬になれば雪で秀吉の包囲網が緩くなり、毛利からの兵糧補給が期待できると踏んでいたからだ。しかし、現実は甘くなかった。これは三木の干し殺しで経験を積んだ秀吉の事前工作が功を奏する形となった。秀吉は播磨の三木城攻めと同様に包囲のための付城[つけじろ]を築城し、兵糧の搬入経路を徹底的に遮断した。
しかし、吉川経家が毛利一門だと言うことを考えると、毛利方の兵糧を搬入する援軍の力の入れようは播磨の三木城の時の比では無かったように思われるが、これを阻止した秀吉軍の力は相当な物だったのだろうと容易に想像が付く。
そして極め付けなのが、前もって因幡国中の米を通常の倍の値段で買い占めたと言う話である。鳥取城でもそれが秀吉の謀略だとは思いもよらず、兵糧米まで売ってしまっていたと言うから愚の骨頂としか言いようが無い。
だが、この話は出来すぎなので、もしかしたら創作なのかもしれない。さらに秀吉は鳥取城下の村や町で、兵にいやがらせや乱暴を働かせ、盛んに城中へ人を逃げ込ませていたらしい。人が増えればそれだけ兵糧の消費が早くなると言う巧妙な戦略だった。それにしても秀吉恐るべしである。
そしてついに城内は最悪の状態を迎えることとなる。飢えた人々は当時は肉食の習慣が無かったにもかかわらず馬や家畜を喰らい、虫、草木、食べられるものは全て食べつくしたあと、餓死した死体まで食べ始めたと言う。
吉川経家は決断した。城主切腹、城兵助命である。秀吉は経家が臨時の城主だと知っていたので、経家を城に呼んだ元城主の山名豊国の重臣たちの切腹を命じたが、経家はそれでは吉川一門の名が落ちるとし、切腹して死んだ。
10月25日 - 吉川経家が切腹。最後は子供達に手紙を書き残している。「鳥取の事、夜昼二百日耐えたが、兵糧が尽き果てた。私が一人切腹すれば、城の皆が助かる。これは吉川一門の名を上げる事になる。これで良いのだ。」
吉川経家の他に森下道与、奈佐日本助の二将が切腹している。
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