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■永禄3年 [1560年]
5月 - 今川義元の軍勢が織田信長領の尾張に侵攻。その数2万5千。
5月 - 今川義元、織田方の鳴海城[なるみじょう]を占拠。
5月17日 - 今川義元、沓懸城[くっかけじょう]を落とし、そこに陣を構える。
5月18日 夕刻 - 信長の元に明日19日には今川が攻め寄せて来るのは確実との知らせが入る。伝令:佐久間盛重[丸根山]、織田秀敏[鷲津山]
5月18日 夜 - 信長と家臣たちの間で軍議が持たれたが、作戦に関する話題は一つも出ず、家臣たちは退出の許可が出た後、口々に「運が尽きた時は知恵の鏡が曇ると言うが、今はまさにその時だ」と嘲笑しながら帰ったと言う。[信長公記]
5月19日 明け方 - 信長方の砦、鷲津山、丸根山が今川の攻撃を受けているとの知らせが入る。伝令:佐久間盛重、織田秀敏。
実はこの時、信長方の砦を攻めていたのは、後に信長と堅く友好関係を結び、共に生死を賭けて戦い戦国時代を生き抜いていくことになる徳川家康であった。徳川家康は朱色の武具を付け、今川方の先陣を務めていた。
伝令を聞くと信長は、あの有名な敦盛の舞を舞った。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ物のあるべきか」。
信長はすぐさま鎧をつけ、立ったまま湯漬けをかきこみ、兜をかぶり、単騎で清洲城を飛び出していったという。それに続いたのはわずか6騎だけ。その後、ほら貝の音を聞いた家臣たちは支度を整え、我遅れまいと続々と出陣していった。
5月19日 - 今川義元、沓懸城を出発して大高城[おおだかじょう]を目指す。
5月19日 - 信長、熱田社で戦勝祈願をする。この時点で信長の兵は騎馬6騎、雑兵200。続々と集結している様ではあるが、義元の軍勢2万5千にははるか遠く及ばない。ただ、義元の兵は鳴海城や大高城に分散して展開していたらしいので、信長と桶狭間でぶつかった義元の本隊は推定5千位だったと言われている。
5月19日 - 信長、自陣の善照寺砦[ぜんしょうじとりで]に進み、そのまま、ようやくまとまった兵3千の内、2千を率いて、義元が昼食休憩を取っていた桶狭間を急襲した。この時にわか雨が石か氷を投げつけるように降って来たという。信長は雨の中、今川義元を奇襲したと説明する解説書も多いが、信長公記では、にわか雨が止み空が晴れたのを見て突撃したとある。
義元の軍勢は信長の急襲に恐れをなし、どっと逃げ崩れた。乱戦の中、信長は輿に乗っているであろう義元を集中攻撃させ、服部春安が義元に切りかかり、ついに毛利良勝が義元に組み付き首級を挙げた。
逃げた義元の軍勢も桶狭間の深田にはまり、もがいているところを信長の血気盛んな若武者達に矢で射られ、次々に首を取られていったと言う。
先にも言ったとおり、桶狭間の義元本隊の他に、2万は鳴海城や大高城に分散して展開していたはずなので、やろうと思えば信長の本隊を挟撃できたはずである。出来なかったのはやはりあっけなく義元が討たれてしまって指揮系統が麻痺し戦意喪失したのと、信長の軍勢が善照寺砦に大挙して待ち構えているのではないかという疑心暗鬼がそうさせたのかもしれない。
実は信長が善照寺砦に兵1千を残し、旗、指物もその場に残したのは本隊がそこに留まっているように見せた作戦だったからである。義元軍も、まさか信長の軍勢が3千そこそことは夢にも思わなかったのだろう。
こうして織田信長は海道一の弓取りと呼ばれた名将・今川義元を破り、天下統一への一歩を踏み出すのであった。
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