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日本の歴史:下克上の時代


下剋上は、元々は古代の中国で用いられていた言葉です。階級が下の者が上の者を打倒する言葉として利用されてきました。日本の歴史上で有名となったのは戦国時代のことですが、そのきっかけとなったのは鎌倉から室町にかけての文明の時代のときです。最初に有名となったのが、南北朝時代の身分秩序が改編されてきた時期のことです。

鎌倉から室町という新しい移り変わりのときに、家臣が主君を排除する目的でこの言葉がマイナス面で取り上げられました。特徴的だったのが、単純な守護大名たちを筆頭としたいわゆる秩序を広く守るガーディアン的な要素を持っている人たちだけではなく、一般の百姓が領主支配に抵抗するようになった点です。元々、前時代的な日本の考え方は身分社会であり、生まれたときの階級を自分の力であげて権力を奪取するという考えがそれほどなかったときです。ところが、鎌倉から室町にかけて権威闘争による日本の内乱も激しくなっていきます。昔の日本は、帝の代替として権力を振りかざしていた征夷大将軍が莫大な力を有していました。

鎌倉は、文字通り力で幕府を盛り上げた状態だったのですが、室町に入るとこれが一変して文化人的な側面で文化に大きな影響を与えることになります。この典型的だった将軍が、足利義政という人物です。本来、征夷大将軍の称号を持つ人物は武士としてトップの位に立つ者であり、その点において弱かった足利義政は後継者争いで失敗してしまいます。当然、純粋な力の弱かった人物が選定する者への反逆も根強かったことから、この後継者争いは非常に長い年月を経ることになります。この日本国内の内乱が、応仁の乱と呼ばれるものです。応仁の乱は、典型的な下克上の様相を記した典型的な内乱だったのです。そして、この下克上の内乱を得てから大きく変わったのが、守護大名という存在です。

それまで、現代的な官僚的な役割を有していた秩序を守る守護大名の役割は大きく失われて、武力によって国内を統一する勢力が強いのだという認識が生まれていきました。そうやって生まれたのが、戦国時代を席巻した戦国大名たちです。彼らは、文字通り自分たちの力によって身分を向上させていくことを考えて、各国でバトルを行い、その権力を増大させていくことになりました。国内の政治秩序が大きく変わったのはもちろんですが、豊臣秀吉のような身分の低いものが天下統一を果たすまでになった流れを考慮すると、下克上から始まった流れが日本を大きく変えたといっても過言ではありません。

 
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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