旧本能寺跡 石碑 拡大地図
ザ・下剋上
"下剋上は、ひと昔前までは日本史の教科書内でしか見聞きすることが無い言葉でしたが、近年はテレビやラジオなどでスポーツの話題を扱う際に特に積極的に用いられるようになってきています。その下剋上は、社会的に地位が下の者が上位の者を実力を用いて打倒し地位を手に入れる行為を指す言葉で、6世紀頃に中国の複数の書物にこの言葉が登場していたといわれています。
日本での下剋上は、言葉としては鎌倉時代には既に使われ始めていましたが、社会的な風潮となっていったのは室町時代後期から戦国時代にかけてのことです。戦国時代へと移行していくきっかけになったといわれている応仁の乱とよばれる大乱では、幕府の権威の失墜や荘園制度の崩壊がはじまるとともに、それまでくすぶっていた者が蜂起して実力で支配階級に反抗するケースがあらわれるようになりました。農民が一揆などの実力を行使して支配階級を脅かしたり、家臣が主君を殺害あるいは政治的に放逐して自ら大名になるなどの傾向は戦国時代になるとますます顕著になり、下剋上はこの時代を象徴する言葉の一つになりました。徳川家康が征夷大将軍となって幕府を開いた後は次第に下剋上の風潮は廃れていきますが、主君押込の慣行はそのまま江戸時代末期まで残りました。
もっとも成功した下剋上としてしばしば挙げられるのが、織田信長のケースです。最初は尾張の一地方の領主に過ぎなかった信長は、守護代の撃破や実弟の排除などによって尾張の支配を固めた後、足利義昭の上洛を実現させて将軍に擁立しますが、後に対立をするようになると戦いを挑んで義昭を追放し、室町幕府を有名無実化させました。その後は自ら天下人としての地位を継承して支配を拡大させていきますが、自らもまた本能寺の変で明智光秀率いる軍勢の下剋上にあいました。この明智を討ったのが信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉で、本能寺の変から9年あまりかけて全国を平定して天下統一を成し遂げますが、秀吉の死後に徳川家康によって豊臣宗家は滅亡に追い込まれています。家康はこのとき既に征夷大将軍の地位にあって江戸幕府を開いていて、豊臣氏はいち大名に過ぎませんでしたが、全国を支配下においていた時期があって恩顧の大名が多い豊臣氏は特別な存在で、家康にとっては最晩年まで脅威であり続けていました。このような事情もあって、徳川家康が豊臣氏を滅亡させた一連の動きも下剋上の一種とみなすことができます。"
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板