« 秀吉の兵糧攻め 鳥取の渇え殺し 鳥取城 | ブログトップ | 朝倉氏・浅井氏滅亡 »
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
■元亀元年 [1570年]
4月 - 織田信長、徳川家康を従え、朝倉義景[あさくらよしかげ]を討伐せんと越前へ侵攻を開始
4月 - 信長軍、敦賀[つるが]の城をはじめ朝倉方の支城を次々と落とし、朝倉の本城 一乗谷城も目前となった今、信長の妹・お市の夫・浅井長政[あざいながまさ]が朝倉方につき、突如挙兵する。浅井の領国を抜けて進軍してきた信長は退路を断たれたと言うことになる。信長は前方の朝倉との挟撃を恐れ、已む無く全軍撤退の命を下す。朝倉・浅井の追撃があったが、殿軍の木下秀吉軍の活躍で信長自身も命からがら京へ撤退[金ヶ崎退き口]。
6月20日 - 体勢を立て直した信長の軍勢が、北近江、浅井長政の本城 小谷城近くの虎姫山に布陣。
6月23日 - 織田信長、海抜500mの要害堅固な小谷城攻めは無益とし、いったん兵を引き琵琶湖へ注ぐ姉川を越え、竜ヶ鼻へ本陣を移動。
徳川家康着陣。
織田信長・徳川家康の連合軍と朝倉義景・浅井長政連合軍が姉川を挟み対峙する。
6月28日 - 早朝、姉川の河原で姉川の戦い[あねがわのたたかい]が始まる。朝倉・浅井は善戦したが、織田・徳川連合軍が勝利。浅井長政は小谷城に敗走。思うところあってか信長は追わず。
織田信長、小谷城と向き合う二里先の横山城を落とし、木下秀吉に守らせ岐阜へ戻る。
Copyright © 戦国時代ネット |