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応仁の乱は1467年から1478年にかけての11年間、長期にわたって発生した内乱です。この内乱がきっかけとなり、室町時代から戦国時代へ移行の原因になったと考えられています。発端となったのは室町幕府において管領を務める有力者である山名宗全と細川勝元による権力争いでした。室町時代における公的な最高権力者は足利尊氏によって開かれた室町幕府の将軍です。
この将軍は足利家による世襲によって成り立っていましたが、当時の将軍であった足利義政には子供がいませんでした。やむなく義政は自分の弟である義視を次の将軍に指名しますが、何と指名の後に子供が生まれてしまいます。親であれば誰しも子供に自分の地位を譲り渡したいと考えるもの、しかし弟の側からしてみればきちんと約束を守ってもらわなければ困ります。こうして次の将軍の座をめぐる争いが始まりました。
なぜ将軍家の争いなのに、先にあげた山名宗全と細川勝元の権力争いという説明になるのか。それはこの時代、相次ぐ戦乱によって将軍家の力が低下し、三管領と呼ばれる有力者たちが将軍に勝る力を持ち始めていたことが背景にあります。彼らにとって将軍家の後継者問題は、ライバルを倒し日本の実質的な権力者となるための格好の大義名分だったのです。山名宗全は足利義尚を、細川勝元は足利義視の応援に回りました。
応仁の乱は初期段階においては朝廷にライバルの追放令を出させようとする、都に軍勢を呼び込み圧力をかけるなどの形で行われていましたが、1467年に入ると本戦と呼ばれる本格的な武力衝突が始まります。応仁の乱の特徴は戦国時代の関が原の戦いのように、有力な武将が一同に揃って短期決戦を行う形ではなく、日本各地で長期にわたり小競り合いのような戦いが発生したという点です。そのため長引く戦乱により国土は荒廃し幕府の権力基盤は脆弱化していきます。さて応仁の乱は11年にもわたる長期戦となりましたが、はたして勝者となったのはどちらでしょうか?答えは「どちらも勝者にはなれなかった」です。
戦いを始めた山名宗全と細川勝元は乱の最中に病死してしまったのです。二人の後継者となった山名政豊と細川政元は和睦交渉を開始し、紆余曲折はありましたが和睦を成立させます。しかし戦いは終結したものの、内乱によって力を失った幕府には既に各地で台頭し始めた大名たちを抑えつけるだけの力はありませんでした。かくして時代の主役は将軍家から戦国大名へと移っていくのです。
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