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戦国時代のキーパーソン:毛利元就


戦国時代は数多くの武将が登場する歴史好きにはたまらない時代ですが、数ある戦国武将たちのなかでも人気があるのが毛利元就です。三本の矢のエピソードは有名ですが、他にも様々なことを行っていて、戦国時代のキーパーソンの一人と言えます。そこで、今回はこの元就を取り上げて、その生涯や功績などを解説しましょう。

元就が生まれたのは1497年のこと、安芸の国(今で言う中国地方)の領主であった毛利弘元の次男として誕生しました。幼名は松寿丸と言います。10歳のときには母も父も亡くなるという不幸に見舞われ、さらに城から追い出されるというさらなる苦難を味わいます。このとき支えたのが養母である杉大方(すぎのおおかた)です。元就はこの養母に大変に影響を受けて育ったと言います。苦労人だったことからか、彼の性格は非常に温厚で家臣にもよく気を遣う名君だったそうです。

彼は毛利幸松丸の後見人となり、初めて戦場に赴いたのは1517年の20歳のとき。「有田中井手の戦い」が初陣です。ここで勝利をおさめ、のちに傘下に入る大内義興からも評価されます。そして後見人だった毛利幸松丸が死去した1523年に、元就は家督を継いで毛利元就と名乗るようになりました。ここから家督争いが起きますが、それを乗り越えると躍進が始まっていきます。

まず、元就は大内義興の傘下に入り、毛利氏のライバルだった宍戸氏との友好関係の構築に取り組みます。こうして地盤を固めると、吉田郡三城の戦いで尼子氏を撃破。このとき尼子氏の軍は3万を超えていたと言いますが、元就はわずか3千で籠城戦を戦いました。これが中国地方の戦国の雄として認められる象徴的な戦だったと言います。元就は水軍育成に長けており政策手腕も発揮、この頃河内をまとめ上げて毛利水軍の基礎を作り上げました。50歳になると妻と養母の杉大方が死去。そのことが関係してか彼は息子の隆元に家督を継いで表向き隠居しますが、裏では実権を握ります。そして59歳のとき有名な厳島の戦いが起こりました。

大内義隆が陶晴賢により誅殺されたことを発端にした厳島の戦いは、陶晴賢の大内軍が3万、毛利軍が5000弱という圧倒的不利の戦いでしたが、元就は得意の謀略により大内軍の内部崩壊を図ります。内部から弱体化させると陶晴賢を撃破し、大内氏を滅亡に追い込みました。これにより、長門国や周防国を支配して中国地方を掌握することに成功します。晩年は体調を崩すことが多くなりますが、毛利氏の地盤は彼によって盤石なものになったと言えるでしょう。

 
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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