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戦国時代はどういう時代?


日本の戦国時代は、15世紀の後半から16世紀の終わりごろまで続きました。日本の戦国時代の始まりのきっかけとなったのは、応仁の乱という15世紀後半に起こった争いです。

応仁の乱は当時日本を支配していた足利将軍家の後継者争いが原因で起こった戦争で、8代将軍の子供と弟が、次の将軍の座をめぐって東軍と西軍に分かれ争いました。この戦いの大きな特徴は、日本中の多くの武士が東軍か西軍に分かれて戦ったことです。それぞれの陣営の中心となっていたのは足利家でも特に有力な武将です。同じ家の武将が違う軍に入ることもあり、これは各武家で起こっていた家督相続争いとも大きく関係しています。

この戦争は10年以上にわたっておこなわれ、足利幕府があった京都だけでなく、地方でも多くの戦争がおこなわれ、多くの人の命が失われました。争いが終結して、8代将軍の実子が9代将軍に就任しても、戦争によって落ちた将軍家の権威は回復することはなく、以降日本各地で独自に活躍をする武将が増えていきました。応仁の乱以降に起こったさまざまな歴史上の出来事を説明するために使用できるのが、下克上というキーワードです。これは、実力があれば身分が下の人でも、上の身分の人に変わって支配者になれるという考え方です。このような考え方が日本全国に広まった結果として、多くの地で誕生したのが戦国大名です。戦国大名はそれまで守護大名が支配していた土地の新たな支配者となりました。

戦国大名の中にはもともと守護大名の部下であった人間も多く、主人であった守護大名の能力が低かったために、下克上によって守護大名を滅ぼしたり追放したりして、自分が新たな大名になりました。守護代という身分の人間が、守護大名に変わり支配者となることが多かったのが、この時代の特徴です。守護代とは、守護大名の下に置かれた役職のことで、有力な守護大名は中央の政治に関わらなければいけないことも多かったために、大名の不在中は守護代が代わりに必要な政務をおこなっていました。こうした守護代は、主人の守護大名よりも自分の家や支配地域のことを詳しく知っていたことが多かったため、下克上のための争いも容易に起こすことができました。日本の各地で古くからの守護大名が滅ばされ、新しい大名が台頭するようになり、こうした大名は自分のもともとの土地だけでなく、やがて自分の周囲にある国の支配にも関心を持つようになります。新興の大名同士の争いも増えて、国どうしの争いにより、ますます多くの人が失われました。

 
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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