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信長の庭園か、遺構発見 岐阜公園で市教委

多数の河原石が見つかり、庭園と裏付けるために岐阜市教育委員会が調査している信長居館跡の発掘現場=岐阜市の岐阜公園で


 戦国武将、織田信長の居館跡発掘調査を岐阜市の岐阜公園で実施している市教育委員会は十一日、信長が治めた十六世紀後半の地層で約六十個の河原石が敷き詰められているのが見つかったと発表した。石は粘土に埋め込まれるなどの特徴から、庭園の可能性が高いとみて調査している。

◆「州浜」に類似
 現場は金華山へのロープウエー乗り場と三重塔の間の平らな場所。地中約五十センチまで掘り進めたところ、帯状に長さ約六メートルの範囲で、所々でこぶし大の石が密集して埋まっているのを発見した。石は平らで、丸みを帯び、河原石の特徴と一致する。市教委によると、当時の庭園は水際に河原石を敷いて「州浜(すはま)」に仕立てたのが一般的。今回出土した遺構は構造が似ているため、庭園の可能性が高いと判断した。

 角のある石を五個立てて並べた石列(いしれつ)も見つかり、石列は河原石が崩れないように固定する州浜のすそ止めだった可能性がある。現場の東十数メートルにはわき水が出ていて、そこから水を引いたとの見方もある。

 地層は、出土した陶器の破片や火災の痕跡などから十六世紀後半とみられるという。この時代の大名の庭園は、福井県の朝倉氏や大分県の大友氏などの遺跡で見つかっている。今回、確認されれば、信長にまつわる遺跡では初めて。

 当時、信長の居館を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書にも「(池の)底には入念に選ばれた清らかな小石や目にも眩(まぶ)しい白砂があり…」との記述がある。市教委はこの遺構が庭園であることを裏付けるため、専門家の意見を聞きながら、〇八年度以降も範囲を広げて州浜を探す。河原石がどこで産出したかも調査している。

 京都造形芸術大の仲隆裕教授(庭園史)は「石列の南側には水が流れていたか、池であったと考えられる。部分的に石が集まっている場所は、趣を添えるために配置した景石(けいせき)や手洗いの水を入れる手水鉢(ちょうずばち)の可能性がある」とコメントした。<br