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戦国時代の最も重要な戦い   

 

日本の歴史の中で戦国時代は、日本全土に大きな影響を及ぼした時代です。このサイトではそんな興味深い戦国時代にまつわる情報や関連サイトを紹介しています。

 

戦国時代までは地方分権であり、朝廷や幕府は離れた地域にはさほど大きな影響力を持っていませんでした。ところが戦国時代は常に天下統一という目標を掲げる武将たちが互いの領土を奪い合う戦をしていました。この戦いは各地で繰り広げられましたが、その中で最も重要な戦いが「関ヶ原の戦い」です。

 

この戦いの重要人物は西軍の石田光成と、東軍の徳川家康の2名です。西軍は豊臣軍・東軍は徳川軍とも表現され、西軍の大将は豊臣秀吉の長男・秀信ですが当時5歳であったために五大老の老中である石田光成が後見人となって大将補佐の座に就きました。戦は1600年10月21日、美濃国(現岐阜県)の関ヶ原を主戦場として東西計15万5,000人の大軍勢が入り乱れる大戦です。この戦の発端は豊臣秀吉が1594年におこなった朝鮮出兵で、大陸への進行を反対した五大老のひとり・徳川家康による豊臣政権に対する謀反でした。なお、朝鮮出兵を反対したのは家康だけでなく伊達政宗・本間忠勝・前田利家・なども含まれており、彼らが東軍側についています。

 

西軍は上杉景勝・直江兼続・真田幸村・加藤清正は江戸時代になると外様大名となった武将達で、その後の徳川政権下では冷遇されることとなりました。関ヶ原の合戦は当初は西軍が東軍を圧倒しており、東軍側が敗北するかのよう思われていました。ところが西軍の殿(しんがり)、つまり後方を守っていた小早川秀秋・朽木元綱・小川広忠の軍勢計1万人の軍勢が東軍に寝返ったことで戦況は一気に逆転します。1601年4月、約半年間もの間続いた関ヶ原の合戦は東軍が勝利を収めて終わりを迎えました。徳川家康は西軍の武将達に対して寛大な施しをおこない、領地の没収や切腹を命じることはありませんでした。この行動が多くの武将達の支持を受けることになり、1602年3月に豊臣政権に代わって発足する江戸幕府の発足へとつながりました。

 

なお、西軍の大将補佐を務めた石田光成は大阪城へと落ち延びる途中、寝返った小早川秀秋の手によって討たれてその首を関ヶ原の合戦場で指揮を執っていた家康の元に差し出されています。この戦いは「天下分け目の関ヶ原」という言葉と共に語られており、日本史の中でも非常に重要な位置づけをなされています。その後300年近く続くことになる江戸幕府へと時代は移り、天下泰平の世が長らく続くきっかけにもなりました。

⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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かんりにん一言

日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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