« 織田信長 茶道具、茶会の開催を褒美に | ブログトップ

[] 

戦国時代・歴史ブログならココで探そう







旧本能寺跡 石碑 拡大地図

戦国時代のキーパーソン:豊臣 秀吉


豊臣秀吉(Toyotomi Hideyoshi)は、戦国時代を戦った、歴史に名を残す名将です。今日はその一生と功績について、詳しく紹介していきたいと思います。

秀吉は幼名を日吉丸と言います。出身は決して裕福とは言えない足軽の家でした。足軽とは、戦国時代において戦場で馬に乗らずに戦わなければならなかった下級武士のことをいいます。継父との折り合いが悪く実家を飛び出したのちに木下藤吉郎として織田家に仕官するようになると、寒い日に気を利かせて織田信長の草履を温めておいた、という有名なエピソードを後世に残すことになります。この一件で織田信長に目をかけられるようになり、活躍を見せるようになります。また、この頃、浅井氏の娘であったねねと結婚しています。紛争で数々の功績を挙げた藤吉郎は、柴田勝家・丹羽長秀のような人物になりたいという思いから羽柴秀吉と名乗るようになります。織田政権下で、彼は有力大名・浅井氏がかつて収めていた近江の地に封ぜられ、長浜城を建築しその主となりました。織田信長が「天下布武」を掲げ全国統一を進める中、有力な部下として中国地方平定にかかわるなど大きな功績を挙げたのちに飛び込んできた衝撃のニュースは、信長の死でした。本能寺の変で1534年に信長が命を落とすと、ここから秀吉の快進撃が始まります。信長を死に追いやった明智光秀を討ち、のちに天下統一を果たす徳川家康を破り、関白の地位まで上り詰めてほぼ全国統一を果たしました。また、関白として太閤検地・刀狩を行い、平和な世の構築に力を尽くすことになります。この頃には子供もでき、のちに豊臣秀頼の名で大名となります。日本国内を統一した秀吉の野望は留まることを知らず、1590年代には朝鮮出兵を行いました。しかし、現地で激しい抵抗にあったことから朝鮮出兵は失敗し、秀吉は失意の中病にかかりなくなっていくことになります。秀吉の死後を任されたのは、有力な部下であった五大老でした。しかし、野望渦巻く戦国の世の中、豊臣家による全国統一は長く続かず、徳川家康が全国統一に向けて動き出します。そして、1600年の関ヶ原の戦いを経て、徳川家が江戸から日本を治める安定した体制が築かれていきます。

激動と言える秀吉の人生は、いくつもの伝記に残されています。もっとも有名な戦国武将の一人である豊臣秀吉は、これからも多くの人の記憶の中に残り続けていくこととなるでしょう。

 
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

コメントを投稿

(ブログかんりにんの承認が必要です。承認されるまではコメントは表示されません。)

逆アクセスランキング

スポンサードリンク

カテゴリー

人気記事ランキング

ブックマーク

ブックマーク キタ━━(゚∀゚)━━ッ!!

かんりにん一言

日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

ただ今、相互リンク募集中です。通常相互リンクか戦国時代ランキングにご参加下さい。ただし戦国時代関連のサイトに限らせていただいております。 各記事にリンクする場合は、記事タイトル脇にリンクタグが表示されていますので、それをご利用下さい。リンクしていただくと逆アクセスランキングに自動で参加します。
ブログのフィード : XML | Atom
Copyright © 戦国時代ネット ブログパーツ