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下剋上の成功者として名を残した「北条早雲」


北条早雲の生まれは不明な部分が多く、1432年とも1519年とも言われています。戦国時代の黎明期に活躍したことから「最初の戦国大名」と呼ばれており、一介の浪人から大名までに成りあがったその成功者としての生きざまは、後の戦国武将たちに大きな影響を与えました。早雲は室町幕府の実権を握っていた足利氏の家臣「伊勢盛定」の二男として誕生し、成長後は父と同じ足利家の家臣として働いていました。しかし、1467年に足利家の家督争いが火種となって全国の武将が東軍と西軍に分かれて戦った「応仁の乱」によって、その人生は大きく変化します。

 

 

京の町が戦場となってしまったことにより、足利家の要人であった「足利義視」と共に伊勢の国に逃れますが、その翌年に足利義視は京に戻ると北条早雲はそれに同行せずに浪人になる道を選びます。そして、10年近く続く応仁の乱により室町幕府がその実権を失うと、武将たちは幕府に背き領地を奪い合う戦国時代に突入しました。北条早雲は駿河を治める「今川義忠」を頼り駿河の国に移り住みますが、1476年に今川義忠が戦で討ち死にしてしまいます。

 

当主の座は実子の「今川氏親」が継ぐことになる予定でしたが、「氏親はまだ幼く今川家を率いていくことは困難である」と今川義忠の従兄弟の「小鹿範満」が主張します。そこで早雲は両者の間に入り、氏親が元服するまで小鹿範満が今川家の当主代理を務めることを取り決めますが、小鹿範満は氏親した後も家督を譲ることはしませんでした。そこで早雲は挙兵し、約束を守らなかった小鹿範満を討ち果たし氏親を当主に据えることに成功すると、褒美に駿河東部に領地を与えられました。

 

その後しばらくは平穏な時代が過ぎましたが、1491年に将軍家の血を引く「足利茶々丸」が伊豆で謀反を起こすと、幕府は早雲に茶々丸討伐の命を出します。約5年の戦いの後に茶々丸を倒し伊豆を平定しましたが、大名家の生まれでもない早雲が将軍家の血を引く武将を倒して領地を手に入れたことが、戦国時代の下剋上の先駆けとして歴史に名を刻むこととなりました。

 

伊豆を手に入れた早雲は、関東も手に入れるべく行動を起こし小田原城を陥落させ小田原城を新たな拠点として関東平定を狙いますが、既に老齢となっていたため実子である「北条氏綱」に家督を譲り、自身の人生で培った武士としての心得を21ヶ条にも及ぶ家訓にして1519年、87歳でその生涯を閉じました。なお、早雲の夢であった関東平定は、氏綱の実子「北条氏康」によって実現されています。

⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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