■戦国時代に来日した宣教師は100名以上いるが、織田信長に謁見を許されたのはその内の4人だけだと言う。ルイス・フロイス、フランシスコ・カブラル、ニェッキ・ソルド・オルガンチーノ、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ。
その中で、最も数多く信長に会ったと言われるポルトガル人宣教師のルイス・フロイスは布教活動や当時の日本の習慣や町の様子、今では幻となってしまった安土山に聳え立つ安土城の絢爛豪華な佇まいと豪奢な内装などをその著書「日本史」で微に入り細に入り描写しており、信長の祐筆であった太田牛一の著した信長公記にも書かれていない尾張国の王 織田信長の実態や容姿、性格にまで詳しく言及している。
これはもはや文章の肖像画と言っても過言ではないくらい丁寧な記述で、信長の容姿と実態が鮮明に脳内に浮かんでくる。
ルイス・フロイスが信長に初めて謁見を許されたのは永禄12年[1569年]、信長が36才の時だったので、これは36才以降の信長の様子である。 ルイス・フロイスの描写が中心だが、それ以外の信長の素顔も所々に混ざっているのであしからず。
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- 身長
- 中くらいの背丈で、華奢な体躯である。
中くらいの意味が良く分からない。戦国時代の平均身長の中で中くらいなのか? 当時のフロイスの故郷ヨーロッパの平均からすると中くらいなのか?
ルイス・フロイスは日本史とは別に書簡で日本の様子や布教活動について本部に伝えているが、そこには信長について「長身痩躯」とも書いている。つまり長身で痩せていた。日本史は後の回想録であり書簡はその時の様子なので書簡のほうが正確なのかも知れない。
- また、当時実物大として作られた大徳寺総見院 木像 織田信長坐像や、信長所用と伝わる甲冑などから推測すると165cm〜170cm程度でなかろうかと推定される。
- 体重
- 同じく木像の体積や所用の甲冑から体重を推測すると60kg程度と推定される。165cmで60kgだとちょっと小太りか、筋肉質かなと思われ、ルイス・フロイスが言っている華奢とは違うような気もする。170cm位なら華奢または長身痩躯と言えるかもしれない。
- 人相
- 声
- 声が甚だよく通り、甲高い。5町先(約545m先、1町=109m)からも声が聞こえた。
- 血液型
- 鑑定した検体が信長の物に間違いないのであればだが、血痕や遺髪から信長の血液型はA型と判明している。
- 酒と食
- 酒は飲まない。家臣に盃を与えるようなこともしない。
- 食を節する。
- 京風の薄い味付けより、田舎風の濃い味付けを好む。
三好義継を攻めた際、彼の料理人を捕虜にした。料理がうまければ召抱え、さもなければ処刑するとした。坪内という料理人は命を賭して料理を拵えたが、信長に「水っぽくて食えるものではない」と一蹴された。坪内は料理を作り直すことを懇願し田舎風の濃い味に作り直した。今度は信長の口に合い赦免されたという。最初に作ったものは京風の薄い味付けで公家達が好む料理だった。
- 性格
- 極度に戦を好み、非常に勇敢。
- 常に軍事修練に励んでいる。
- 正義や慈悲を重んじる。
- 非常に正義感が強く尊大。
- 名誉欲が異常なまでに強い。
- 侮辱を受けると厳罰を持って臨む。
- 人情味と慈愛を示す事もある。
- 物事を秘密裏に決断する。
- 睡眠時間は短く早朝に起床した。
- 平素はそうでもないが、非常に性急な面があり激昂する。
- 戦術や戦略に極めて老練で抜け目がない。
- 規律や家臣の進言には僅かか、殆どまったく従わない。
- 家臣や諸人からは極めて畏敬されている。
- 家臣の待遇については極めて厳格。
- 自分を遜ることは殆ど皆無で、日本のすべての国王や領主を軽蔑し、自分の家臣であるかのように肩の上から話をする。
- 信長に接するすべての者が絶対君主に対するがごとく平伏している。
- 信長は戦運が失せても心気広闊にして不撓不屈の精神の持ち主で極めて忍耐強い。
- 優れた理性と明晰な判断力があり、神および仏の礼拝や尊崇、あらゆる異教的占いや迷信を軽蔑している。
- 見かけ法華宗に属しているような態度を示し、顕位昇叙の後は偶像を見下し、禅宗の見解に従う事もあるが、宇宙の創造者や霊魂の不滅、死後や来世の賞罰などは無いと公言している。
- 非常に潔癖症である。
- 自身の事業の指図采配とその計画の完璧さに対して思慮深い。
- 面談の際には、冗漫な前置きや遷延な話を嫌い、他の国王や領主であれ、何人も信長の面前で刀を携えることは許されなかった。
- 常に二千名以上の小姓と馬廻りを引き連れ、身分が極めて低い者にでも親しく話しかけ、冗談を言った。
- 信長が嗜好したのは放鷹、名馬、茶の湯の道具、囲碁、幸若舞、刀剣の類であり、特に身分の上下に依らない組み合わせで、万人に相撲を取らせるのを好んだ。
- 時に信長は憂鬱な面影を見せ、困難な作戦を遂行する際には極めて大胆不敵に行動し、万事において家臣たちは信長の言葉に従った。
- 強欲さを見せず、思慮深い面があった。つまり、さらに美味しい物が後で出てくると分かれば、目先のご馳走に飛びつかなかったという事。例えば足利義昭を将軍に据えた時、義昭は信長に副将軍や管領職をすすめ、近江、山城、河内、摂津、和泉などを与えようとしたが、信長はそれを受け取らず、足利氏の桐紋と二両引きの紋と堺、大津、草津の街だけ受け取った。またフロイスなどの外国人宣教師が献上しようとした物を全部とらず中から一点もしくはほんの数点選んでとった。中には非常に精密で高価な細工時計などがあったが、自分の手元にあったのではいずれ壊してしまうという理由で受け取らなかった。外国人宣教師達に隙を与えなかった証拠であろう。
- 女性の趣味
- 人妻が好みらしい。正室の濃姫[帰蝶]は政略結婚だから仕方ないが、側室の生駒吉乃、坂氏?、お鍋の方[高畑氏]などは未亡人だった。
- 男色
- 好んで行ったかどうかは不明?だが、当時の戦国武将の嗜みの一つで、むしろ当たり前だった男色も行った。男色の相手には当時の小姓の前田利家、堀秀政、森蘭丸らが挙げられている。
- 戦以外の残酷性
- 果物のカスを捨てなかった侍女を切り殺した。
- 竹生島に参詣に行っている間に安土城から抜け出していた侍女たちを皆殺しにした。
- 茶坊主に不手際があり、棚の下に逃げ込んだ茶坊主を棚ごと切り殺した。
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