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<-織田信長 戦国時代

織田信長の城

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織田信長の城 居住期間・年齢 解説
勝幡城 [しょばたじょう] 天文3年 [1534年] 〜

天文4年 [1535年] 2才
織田信長が生まれた城。那古野城 誕生説もある。
那古野城 [なごやじょう] 天文4年 [1535年] 2才 〜

弘治元年 [1555年] 22才
織田信長が「うつけ者」と呼ばれていた青春時代を過ごした城。

生まれてまもなく父の信秀より四人の家老とともに与えられた城 [異説あり]。幼少時から清洲城を手に入れる22才までこの城で過ごしたと言う事になり、信長の青春時代の思い出が詰まった城と考えられる。15才で帰蝶[濃姫]と結婚し暮したのもこの城。政略結婚とはいえ新婚時代を楽しんだのだろう。
古渡城 [ふるわたりじょう] 天文15年[1546年] 13才 織田信長が元服した城。

林佐渡守[通勝、秀貞]、平手中務丞[ひらてなかつかさのじょう、政秀]を伴い古渡城へ赴き元服。三郎信長と名乗った。
当時、父の信秀は熱田の近く、この古渡城にいた。
清洲城 [きよすじょう] 弘治元年[1555年] 22才 〜

永禄6年[1563年] 30才
織田信長の尾張統一の拠点となる城。

信長は叔父の織田信光[孫三郎 = 父 信秀弟]と謀り、尾張下の郡四郡を守る 守護代のひとり清洲城城主の織田彦五郎[信友]を謀殺してこの清洲城を手に入れた。
謀反を起こした弟の織田信行[勘十郎 = 信勝]を自分が病気と偽り誘い出して殺したのもこの城だ。
永禄3年[1560年]の桶狭間の戦いもこの城から出陣した。
本能寺の変後、信長の後継者と領土の分配について家臣が会議を行った城でもある。信長の跡取りは羽柴秀吉が推す、信長の孫である三法師[信長 嫡男 信忠の子]に決まった。この会議は清洲会議と言われている。
信長の嫡男 信忠と二男の信雄もこの城で誕生している。
小牧山城 [こまきやまじょう] 永禄6年[1563年] 30才 〜

永禄10年[1567年] 34才
尾張を平定した織田信長は、次なる攻略目標を美濃と定め、尾張と美濃の国境近くのこの城に移城する事になる。
信長は清洲城から小牧山城への移城を決断した際、住み慣れた清洲から、しかもわざわざ敵地に近い場所に行くという、首都機能の移転を嫌う家臣達の大反発を食らうのをあらかじめ予想した。
そこで信長は一策を講じ、まず小牧山より遠くて不便な山中の二ノ宮に移城すると発表した。案の定、家臣達から文句の百弾を食らい、困った様子で、それならばと小牧山で妥協するように見せかけて、まんまと小牧山に移城したのである。
当時の文献から察するに、絶対君主 信長に意見できる人間は皆無であったようなので、この話は作り話なのかもしれない。
岐阜城 [ぎふじょう] 永禄10年[1567年] 34才 〜

天正4年[1576年] 43才
織田信長の悲願であった美濃攻略を実現して移城。

斎藤道三の孫、斎藤龍興を追い出し、龍興の居城だった稲葉山城を岐阜城と改名した。
斎藤道三が息子の義龍に攻め殺される間際に「美濃を織田信長に与える」と書いたと言われる遺言状の通り、ついに信長は美濃を手に入れることができた。いよいよここから天下取りの野望が現実味を帯びてくる。
安土城 [あづちじょう] 天正4年[1576年] 43才 〜

天正10年[1582年] 49才
織田信長が天下布武を実現すべく築いた、人生最後の城。信長の城と言えば安土城という程に認知度は極めて高い。

天正4年[1576年]、総普請奉行に丹羽長秀を、大工総棟梁に岡部又右衛門以言[またえもんもちとき]を据え、足掛け4年の歳月をかけ天正7年[1579年]に竣工した。築城は南近江の戦国大名 佐々木六角氏が築いた観音寺城を参考にしたとされる。

信長公記やルイス・フロイスの日本史など現存する資料から推測すると、南蛮風の天主閣[天守閣]や穴太衆[あのうしゅう]の石垣などは当時の築城技術の粋を結集する最高の建築物であり、天下の名城と名高いが、本能寺の変後に炎上したため、すべてが灰になった幻の城でもある。

外観だけでなく、城内には狩野永徳の障壁画を始め、当時の最高レベルの芸術家達が、金銀の贅を尽くし、技を競いあい内装を作り上げた。また南蛮好きの信長が世界各地から取り寄せた逸品が所狭しと並んでいたという。

安土という場所は京都へも岐阜へも近く、東西への交通の要衝であり、近くに琵琶湖を控えた戦略的にも重要な要害の地。また築城当時最大の敵であった上杉謙信の南下を阻止するのに極めて重要な位置でもあった。

▼安土城といえば、かんりにんオススメの本があります。

火天の城 [かてんのしろ] - 山本兼一

一言で言うと安土城の天主閣を作事した大工の話です。

「あの山の頂に、天下に並び無き天主を建てよ!!」
「万端承知つかまつった。」

安土城 大工総棟梁の岡部又右衛門以言[またえもんもちとき]が、信長の無謀とも言える無理難題に崖っぷちまで追い込まれ、それに腕と気骨で応えながら、何万人という番匠衆[ばんじょう]、石工衆[いしく]、杣人衆[そまにん]、木挽衆[こびき]たちを纏めあげ、同時に普請現場に紛れ込んだ乱波[らっぱ]と戦いながら安土城を築城していく姿が活き活きと描かれた本です。信長が天下統一のために戦をするように、大工総棟梁の岡部又右衛門にとって安土城の作事はまさに合戦そのものだ。

杣人衆が天主を支えるための親柱である八間檜[はっけんひのき]を川に流す場面に度肝を抜かれ、杣人棟梁の気骨に涙します。そして圧巻なのが、山や谷をも動かすほどの大仕事で、その作業中に何百人が死ぬという大事故が起きたと信長公記やルイス・フロイスの日本史にも描かれている巨石の運搬作業の描写です。

もう迫力満点!! 数万人の人夫達がこの超巨大な「蛇石」を安土山に引き上げる作業を手に汗を握りながら読みました。

運搬作業も終盤に差し掛かり、人夫数万人の汗と血を吸い込んで膨張した巨石がある事を切欠に山の斜面を滑り出します。一旦滑り出したら、誰にも止められません。

何百人が圧死したというあの蛇石の大事故の原因の真相がまさかああだったとは・・・ありえなくも無いな。

そして、数々の苦難を乗り越えてようやく城の竣工も間近という時に、又右衛門も含め誰もが予想できなかった大異変が城に起こります。今までの苦労と時間と予算が全て無になるほどのトラブルです。このトラブルに岡部一門が全力でぶつかります。流石にこれには大工魂を見せつけられました。

これだけの手間と時間を掛けて普請した城ですが、本能寺の変 直後に燃え上がります。本当に涙が出るほど切ないですね。たぶん、安土城という城は信長以外が住んではいけない魔城だったのでしょう。この作品で安土城に火を放ったのは、やはりあの人でした。

又右衛門以言と息子の又兵衛以俊[またべえもちとし]の父子の葛藤も必見です。いつまでたっても頼りない倅[せがれ]だと思っている父と、一人前になったつもりの息子。飯炊き女と乳繰り合っているのも父にはお見通しです。これは大工の親父と息子の成長を描いた心温まる話でもあります。面白いので一気に読める本です。これはオススメ!!



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