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<-織田信長 戦国時代
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織田信長の政治、経済
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兵農分離
説明
楽市楽座
説明
関所の撤廃
信長が関所を撤廃する前、各地を支配する大名、公家、領主、寺社などは自領に独自の関所を設けて、人や物資に関銭[通行税]を課していた。例えば京都大坂間にはなんと600以上もの関所が乱立し、その一つを通るたびに関銭を徴収される事になる。これでは経済など発展するわけが無かった。関所を撤廃した信長に対して、領民から拍手喝采、賞賛の嵐が吹き荒れたのは間違いのない事だろう。
公道の整備
信長は他の大名がそれほど省みて来なかった道路の整備を重要視している。つまり自然発生し成り行きに任せ拡張してきた分国中の道路の幅を決め、河川には橋を架設し、急勾配の道は緩やかにし、さらに松や柳などの街路樹を等間隔に植えさせるなどし美観にも拘った。詳しく言うと本街道は3間2尺[6メートル]、脇道は2間2尺[4メートル]、在所道は1間[2メートル]とした。信長は道路の整備事業は経済発展と軍事的優位性を保つためにも必要不可欠だと見なした初めての為政者であると言う。他の為政者が道路の整備に積極的ではなく、二の足を踏んでいた理由の一つに、道路を整備すると攻められ易くなるという事があった。そんな事も意に介せず道路、橋をガンガン作っていった信長はやはり只者ではない。よほど自身の軍隊に自信があったのだろう。そして自身のため安土城 - 坂本間を高速船で結び、坂本から京都への「志賀越え」の山道を整備し、いつ何時でもすばやく上洛できるようにしたのである。
指出検地、検地
信長は従来のような一ヶ所の土地に複数の所有者が存在する複雑な土地所有関係を改め、所有者を固定一本化するような政策を採った。また、侵略して獲得した新たな領地で指出による検地を行ったが、中国攻めで秀吉が平定した播磨では指出ではない事実上の太閤検地とも言える検地も行われた。
治安維持政策
一文銭を盗むどころか、落ちている一文銭をネコババしただけで死刑にするなどの所謂「一銭斬り」の刑法を布告して習俗を改め、悪事を密告する者に褒美を与えるなどして治安維持に努めた。おかけで尾張国は女性の一人旅でも安心だったと言う。信長に首を斬られる覚悟が無ければ些細な悪事でも働けなかったのだ。
移城と城下への集住政策
説明
能力至上主義
説明
朱印状の活用
説明
茶道具、茶会の開催を褒美に
戦国時代の大名達は武功を立てた家臣たちに恩賞として領土を与えていた。それは織田信長も変わりなかったのだが、ある時期より信長は島国である日本の限りある土地の代わりに茶道具や茶湯開きの権利を与え始めた。
信長は茶の湯を非常に高尚で価値のある物と位置づける事に成功し、茶道具や茶湯開きの権利は土地よりもはるかに高価な物と配下の武将達に認識させる事に成功したのである。
信長自身も不住庵梅雪や堺商人の今井宗及などの影響で茶の湯に夢中になっており、当然、家臣たちもステータスとしての茶の湯に興味を抱く。
しかし勝手に茶会などを開いてはならないとし、許可制にした。これが信長のすごい所でもある。
何処に天下の名物ありと聞けば、所謂「名物狩り」と言われるように半ば強制的に召し上げた。条目まで発布しての事である。
信長も含め当時の武将達にとって如何に茶器の価値が高かったかが分かるエピソードを紹介してみる。
信長が上洛した頃(永禄11年 1568年 9月)、事実上 京都を支配していた大和 松永久秀が「九十九髪茄子」を献上し大和を安堵された。
また久秀が信長に背き信貴山城に篭った時、信長は「平蜘蛛茶釜」を差し出せば命は助けるとしたが、久秀はこれを拒絶し平蜘蛛茶釜に爆薬を仕掛けて爆死した。以前より信長が平蜘蛛茶釜を所望していたと知っての事である。
単に腹や首を切るだけならば、死んだ後に平蜘蛛茶釜を信長にとられてしまう。それならばと火薬を詰めて茶釜もろとも粉々に爆死したのだった。こんな死に方は数ある戦国武将の中でも珍しい事だろう。如何に松永久秀が平蜘蛛茶釜に拘っていて、憎き信長に渡したくなかったのが分かる。 何れも茶器が大和一国や命に同等として扱われているのは驚愕すべき事実だ。
また、甲斐 武田勝頼を倒した時、勝頼を追い詰めたのは滝川一益だった。
一益は出陣前に信長より手柄次第では「珠光小茄子」を下賜される旨の口約束を取り付けていたので、武田勝頼を討ち取ったからには当然「珠光小茄子」を褒美として貰えると思っていたが、信長からは上野国と信濃小県・佐久二郡が与えられ「関東八州の御警固」および「東国の儀御取次を申し付けられた。関東管領のようなものである。
これに対し滝川一益は、喜ぶどころか知人 太郎五郎への書簡でこう嘆いている。
「今度 武田討果し候。自然希もこれ有るかと御尋も候はゞ、小なすびをと申し上ぐべき覚悟に候ところ、さはなく、遠国にをかせられ候条、茶の湯の冥加はつき候」
今回 武田氏を討った。信長公が望は何かとお尋ねになったならば、小茄子の茶入れをいただきたいと申し上げるつもりだった。ところがそれはなく、このような遠国に置かれてしまい、もはや茶の湯の冥加も尽き果てた。
本当に落胆している滝川一益の様子が目に浮かぶ手紙の内容である。
そして、中国遠征で快進撃を続ける羽柴秀吉は天正6年(1578)、信長より茶湯開きの許可を得る。天正9年(1581)には因幡鳥取城を陥れた武功に対し信長から感状を受けて茶道具12種の名物を下賜された。
後に秀吉はこれらの事を回想して、飛び上がらんばかりに喜んだと記している。
また柴田勝家も越前 加賀を平定し、天正9年(1581)2月に京都の馬揃えのため上洛した際、信長に名物の「姥口の釜」を所望したところ、思いがけず下賜され次の歌を詠んでいる。
「馴れ馴れて あかぬなじみの姥口を 人にすはせん事をしぞ思ふ」
名物の茶器ともなると、国を一国切り取らないと貰えなかったのだ。
これらのエピソードを顧みると如何に茶器に高い価値が付加されていたのかが分かる。
それにしても、現代人の感覚からすると国より高価な茶器など到底 想像も付かない事である。
撰銭令
説明
軍団長を頂点とする地方行政
支配する国々に軍団長を派遣し、信長の裁量の下その国の政治経済を任せた。信長は軍団長に与力と呼ばれる直臣を与え援助したが、軍団長は与力に監視され、不穏な動きをしようものなら即信長に報告される事になる。
刀狩、刀駈[かたながり]
柴田勝家が治めた越前などで行われた。
城破り[しろわり]
大和で行われた。
節所を押さえる
琵琶湖の船運の節所である近江の大津、東海道と中山道の中継所である南近江の草津、国際貿易港である和泉の堺、鉄砲の生産地である近江の国友村、銀の名産地 但馬の生野銀山など主要な節所を重点的に次々と押さえて行った。
武器の近代化
長槍と鉄砲の活用。
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