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<-織田信長 戦国時代

織田信長 年表

天文 - 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23
弘治 - 1 2 3
永禄 - 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
元亀 - 1 2 3 4
天正 - 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 死後 補足 上↑ 下↓

織田信長
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年齢
西暦
出来事 [日付は旧暦]         
居所
天皇
室町幕府
将軍
天文3年
  • 5月12日 織田信秀[父]と土田御前[母]の拠る勝幡城[那古野城説も]に二男として誕生、吉法師[きっぽうし]と名付けられる。父 信秀は尾張 下の郡四郡を守る 守護代のひとり織田彦五郎[信友]の家臣[三奉行のひとり]だった?@?A?B
那古野城
第105代 後奈良天皇 12代 足利義晴
4
  • 父 信秀より四人の家老とともに那古野城を与えられる。家老は一番家老 林通勝[秀貞]、二番家老 平手政秀、三番家老 青山与三右衛門、四番家老 内藤勝介の四人。特に御台所賄[おだいどころまかない]を申し付けられた平手政秀は吉法師[信長]の傳役[もりやく]としてその教育に心血を注いだ。
  • 三河 松平清康[家康祖父]が尾張侵攻を開始するが、清康は守山城攻め[城主は信秀の弟 信光]陣中で家臣に暗殺される[守山崩れ]。
  • 12月5日 父 信秀、守山崩れで退却する三河勢を追撃して三河 岡崎城まで侵攻するが城北の大樹寺において敗戦。
5
 
6
  • 2月6日 日吉丸[豊臣秀吉] 尾張中村に生まれる。
7
  • この年、父 信秀が今川勝豊の那古野城を陥れ本拠にし、翌年 信長に那古野城を与えるという説がある。
8
  • 父 信秀 古渡城を築城し移城。
9
  • 父 信秀 三河に侵攻、安祥城を攻め落とし、信長の兄 信広を入れる。
  • 信秀 万松寺を建立。
10
  • 父 信秀、伊勢神宮遷宮のため材木や銭7万疋[7百貫文]を朝廷に献上?@。朝廷はこれに感謝し信秀を三河守に叙任する。
11
  • 斎藤道三 美濃国守護 土岐頼芸[ときよりなり]を追放し美濃を奪う。信秀は土岐頼芸を保護し斎藤道三と戦う。
  • 第一次 小豆坂の合戦[織田方の勝利]?@
  • 松平竹千代[徳川家康] 三河岡崎城に生まれる。
12
  • 中国船が難破し、乗っていたポルトガル人により種子島に鉄砲が伝来する。島主の種子島時堯[ときたか]は鉄砲2挺を大金で購入し島津義久に献上、義久は時の室町幕府 第12代将軍 足利義晴に献上する?@
  • 信秀が内裏の修繕費として朝廷に40万疋[4000貫文]を献上?A
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14
 
15
  • 林佐渡守[通勝、秀貞]、平手中務丞[ひらてなかつかさのじょう、政秀]を伴い古渡城へ赴き元服。三郎信長と名乗る?@?A
〜12代 足利義晴 12月20日

13代 足利義輝 12月20日〜
16
  • 駿河今川氏に人質に行く予定だった松平竹千代[徳川家康 6才]が、護送の任にあたっていた徳川方 戸田康光の裏切りによって、1千貫[500貫?]で織田方に売り払らわれる。
  • 父の織田信秀が美濃に出陣。斎藤道三の稲葉山城下に火を付け撤退する所を追撃される。信長の三番家老 青山与三右衛門の討ち死をはじめ信秀の弟 信康、織田因幡守など織田方5千人が討ち死にした。加納口の戦い
  • 初陣。今川領 駿河より敵が侵入してきたので、三州の内吉良大浜に出陣し、各所に放火して、野陣し、翌日城に帰った?@
13代 足利義輝
17
  • 傳役の平手政秀の功績により、尾張の敵であった隣国 美濃の戦国大名 斎藤道三の娘の帰蝶[濃姫]と政略結婚し美濃との和睦が成立。
  • 第二次 小豆坂の合戦[織田方の敗走]?@
  • 父 信秀が古渡城を廃城し、末盛城[末森城]に移城。
18
  • 11月 熱田八ヶ村中に制札を下し、藤原信長と署名?@
  • 織田方 三河 安祥城が今川義元の軍師 太原雪斎に攻められ、兄の織田信広が捕虜になる。信広と交換に織田方の人質になっていた松平竹千代[徳川家康 8才]が今川義元の人質として駿河 駿府に連行される。
19
  • 4月10日 賀藤左助に買得した座を安堵。
  • 丹羽長秀[五郎左衛門、16才]が仕える。
  • 12月23日 如法院座主に信秀の判形に任せて笠寺別当職を安堵?@
20
  • 前田犬千代[前田利家、14歳]が仕える。
  • 3月3日 父の織田信秀が病死し家督を継ぐ?@
  • 弟 織田信行[勘十郎、信勝] 末盛城を与えられ移城。柴田権六[勝家]も同行。
21
  • 7月11日 尾張 津島社社僧 虚空蔵坊に坊領などを安堵。
  • 7月28日 浅井充親に竹20本の礼状を送り三郎信長と署名。
  • 8月16日 清洲城 坂井大膳らと海津で戦う。
  • 10月12日 知多郡と篠島商人の守山往還の自由を保証。
  • 10月21日 織田玄蕃允秀敏[げんばのじょう]に中村方三郷を安堵。
  • 12月20日 加藤全朔、加藤紀左衛門に徳政、国役を免除。
22
  • 上総介信長を称する。
  • 閏1月19日 傳役の家老 平手政秀が「うつけ者」と呼ばれていた信長を諌めるため諫死。平手政秀が諫死?@
  • 4月17日 鳴海城の山口左馬助が今川義元方に寝返る。
  • 4月 尾張[濃尾国境] 富田 正徳寺[聖徳寺]で妻 濃姫[帰蝶]の父 美濃の斎藤道三と会見
  • 5月20日 津島社禰宜[ねぎ]九郎大夫の借銭を破棄する?A
  • 10月20日 服部弥六郎に買得の田畠などを安堵。
  • 12月9日 津島社社僧 虚空蔵坊に諸公事を免除。
  • 12月 津島社神主 兵部少輔[しょうゆう、すないすけ]の借銭を破棄し所領を安堵。
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  • 1月20日 今川義元の兵 尾張 村木に砦を築き、織田方の小河城 水野信元を攻める。
  • 同日 美濃 斎藤道三に援軍を求め、道三の家臣 安藤伊賀守と共に出陣。
  • 1月21日 那古野城 ⇒ 熱田 ⇒ 22日 知多郡西岸 ⇒ 小河に着陣。
  • 1月24日 村木砦を攻め落とす。⇒ 25日 帰陣。
  • 10月20日 山口孫八郎の後家と子息に家の再興を許す。
  • 11月16日 祖父江秀重に俵子船一艘の諸役免許状を与え、上総介信長と署名?@
  • 11月20日 安齋院に寺領などの安堵状を与え、上総介信長と署名?@
  • 木下藤吉郎[秀吉]が仕える。
  • 織田彦五郎[信友]とその家臣 坂井大膳が尾張国守護 斯波義統を攻め殺す。
  • 斯波義統の嫡男 義銀[よしかね]を保護する。
  • 2月5日 鳴海城 山口左馬助に与同した星崎、根上の者の所領を没収。
  • 4月20日 叔父の織田信光[孫三郎、父信秀弟]と謀り、尾張 守護代のひとり清洲城の織田彦五郎[信友]を謀殺、清洲城を簒奪し移城?@
  • 叔父 織田信光に那古野城を与える。
  • 6月26日 守山城 織田孫十郎信次の家臣が信長の弟 喜六郎秀孝を誤って射殺[弓]、信次は出奔。信長は守山城を腹違いの弟[兄説も] 織田安房守秀俊[信時 = 信広の弟]に与える。
  • 7月 正法寺に禁制[きんぜい]を下す。
  • 8月 如法院に寺領を安堵する。
  • 11月26日 清洲城奪取に功のあった信光が家臣に殺される?A。那古野城は林通勝[秀貞]に守らせる。
  • 11月28日 坂井文助に知行を宛行う。
清洲城
弘治2年
  • 4月19日 舅 斎藤道三が末子に遺言状を与え、美濃国を婿 信長に譲る旨を認める。その翌日 20日、道三は長良川で嫡子 斎藤義龍と戦い討ち死に。美濃 斎藤道三が死ぬ?@
  • 斎藤道三の弔い合戦のため美濃の大良に出陣。近辺の河原にて斎藤義龍軍と戦う。
  • 道三討ち死にの報を聞き撤退を開始、信長自ら殿を務める。敵陣側に川を渡っていたので全軍が渡り終えるまで、一人で河岸に留まり鉄砲で威嚇、数人の敵を引き止める。最後は鉄砲を射掛けながら残してあった船一艘で危機一髪 川を渡り難を逃れる。
  • 尾張 上の郡四郡を守る 守護代のひとり岩倉城 織田信安が斎藤義龍と結び信長に敵対行動を取るようになる。
  • 信安の兵が下の郷に火を付けて回ったため、下の郡においても大半が信長に反発するようになる。
  • 正眼寺を巡り岩倉城 織田信安と小競り合い。
  • 斯波義銀[よしかね]に尾張一国を譲り国主に据えるとし、清洲城を進呈、北の櫓に退く?A
  • 駿河 今川義元の斡旋で尾張守護 斯波義銀と三河守護 吉良義昭が会見。義銀に随行して三河の上野原に出陣?B
  • 5月26日 弟 安房守秀俊と那古野城に赴いた際、城主 林通勝の弟 美作守[通倶]が信長の謀殺を企てたが失敗。
  • 6月 弟 守山城主 織田安房守秀俊が家臣に殺されたため、信長弟[喜六郎秀孝]誤射事件で出奔中の織田孫十郎信次を赦免し、再び守山城を与える。
  • 8月22日 弟の織田信行[信勝、達成、勘十郎]が?C、那古野城主 林通勝[秀貞]、林通倶 兄弟や柴田権六勝家の支援を得て信長の直轄領 篠木三郷を押領し謀反。24日 名塚 稲生の合戦にてこれを打ち破る。弟 織田信行[勘十郎、信勝]の謀反
  • 8月25日 清洲城帰城
  • 同日 土田御前[母]が信行謀叛の謝罪を述べ、信行らの赦免を求めた。
  • 同日 信行が柴田、林らを伴い清洲城へ赦免御礼に赴く。3人を赦す。
  • 尾張 丹波郡 郡村の富豪 生駒家宗の娘 生駒吉乃を側室とする?D
  • 兄 三郎五郎[織田信広] 美濃の斎藤義竜と謀り清須城攻略を企てる?E
弘治3年
  • 嫡男の奇妙丸[織田信忠]が生まれる。母は側室の生駒吉乃という説が一般的だが不確定。久庵慶珠の説も有力。
  • 4月9日 飯田弥兵衛尉に買得地などを安堵。
  • 11月2日 弟の織田信行が岩倉城 織田信安と謀り、信長の直轄領 篠木三郷の押領を企てるなど再度謀反を起こしたため、信長は病気と偽り信行を清洲城に誘い出すと信長の乳母兄弟の池田恒興、河尻秀隆らがこれを殺害。弟 勘十郎信行[信勝]を殺す?@
  • 11月27日 熱田社領を守護使不入とする?A
〜第105代 後奈良天皇 9月5日

第106代 正親町天皇[おおぎまちてんのう] 10月27日〜
  • 1月27日 加藤紀左衛門尉に田畠、屋敷などを安堵。
  • 三男の三七[織田信孝]が生まれる。母は側室の坂氏。三七の方が茶筅丸より数日前に生まれたが、侍女が出生を伝えるのが遅かった、または坂氏の身分が低かったから三男とされた。
  • 二男の茶筅丸[織田信雄]が生まれる。母は側室の生駒吉乃。
  • 3月7日 今川義元配下 松平家次を尾張 品野城に攻め、敗れる。
  • 7月12日 犬山城 織田信清[十郎左衛門]とともに岩倉城 織田信安を浮野の合戦に破る?@
  • 9月15日 恒川中に所領を宛行う。
  • 9月17日 前野勝右衛門尉に所領を宛行う。
  • 12月 雲興寺、正眼寺に禁制を下す。
第106代 正親町天皇
永禄2年
  • 2月2日 上洛し室町幕府 第13代将軍 足利義輝に拝謁を賜り、美濃攻めが万事滞りなく進んでいることを報告。
  • 3月 岩倉城を攻め、織田信安[上の郡四郡を守る 守護代]に代わり実権を握っていたその嫡男 織田信賢[のぶかた]を追放し、岩倉城を破却。ほぼ尾張を統一する?@
  • 傀儡として新たに尾張守護に擁立していた斯波義銀が信長追討を計画し、今川の軍勢を尾張の海上から引き入れようとしたため、義銀を京都に追放、官職停止処分とする?A
  • 浮野の合戦と織田信賢を追放した岩倉城攻めに功のあった犬山城 織田信清[十郎左衛門]が信賢の旧領地の分与を巡って信長といさかいを起こす。
  • 前田犬千代[前田利家]が同朋衆の拾阿弥を惨殺、出仕不要とする。
永禄3年
  • 5月 今川義元の軍勢が織田信長領の尾張に侵攻。その数2万5千。
  • 5月 義元、織田方の鳴海城[なるみじょう]を占拠。
  • 5月17日 義元、沓懸城[くっかけじょう]を落とし、そこに陣を構える。
  • 5月18日 夕刻 信長の元に明日19日には今川が攻め寄せて来るのは確実との知らせが入る。伝令:佐久間盛重[丸根山]、織田秀敏[鷲津山]
  • 5月18日 夜 信長と家臣たちの間で軍議が持たれたが、作戦に関する話題は一つも出ず、家臣たちは退出の許可が出た後、口々に「運が尽きた時は知恵の鏡が曇ると言うが、今はまさにその時だ」と嘲笑しながら帰ったと言う。[信長公記]
  • 5月19日 明け方 信長方の砦、鷲津山、丸根山が今川の攻撃を受けているとの知らせが入る。伝令:佐久間盛重、織田秀敏。伝令を聞くと信長は、あの有名な敦盛の舞を舞った。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ物のあるべきか」。信長はすぐさま鎧をつけ、立ったまま湯漬けをかきこみ、兜をかぶり、単騎で清洲城を飛び出していったという。それに続いたのはわずか6騎だけ。その後、ほら貝の音を聞いた家臣たちは支度を整え、我遅れまいと続々と出陣していった。
  • 5月19日 義元、沓懸城を出発して大高城[おおだかじょう]を目指す?@
  • 5月19日 信長、熱田社で戦勝祈願をする?A
  • 5月19日 信長、自陣の善照寺砦[ぜんしょうじとりで]に進み、そのまま、ようやくまとまった兵3千の内、2千を率いて、義元が昼食休憩を取っていた田楽狭間を急襲した。この時にわか雨が石か氷を投げつけるように降って来たという?B
  • 5月19日 田楽狭間にて駿河の守護大名 今川義元を討ち取り、戦国乱世に名を上げる。桶狭間の戦いに勝利?C?D
  • 6月2日 本格的に美濃攻めを開始。度々美濃に侵攻し斎藤道三の嫡男 斎藤義龍と戦う。
  • 9月 生駒家長に馬一疋の関税を免除。
  • 12月 東竜寺に禁制を下す。
永禄4年
  •  松平元康[徳川家康]と和す。
  • 4月 三河 梅ヶ坪城を攻める。
  • 5月14日 斎藤義龍が病死し?@、美濃へ侵攻。森部の合戦[森辺]で斎藤龍興と戦い勝利、墨俣砦を奪取。
  • 前田犬千代[利家]の帰参を許可する?A
  • 5月日 真福寺に禁制を下す。
  • 6月18日 美濃に侵攻。
  • 6月 美濃平野荘神戸市場に禁制を下す。
永禄5年
  • 正月 三河の松平次郎三郎元康[徳川家康]と同盟を結ぶ。清洲同盟?@
  • 2月 鋳物師 水野太郎左衛門に諸役を免除。
  • 3月17日 如法院座主に六十六部経聖の尾張国内通過を許可。
  • 3月22日 正眼寺に寺領を安堵。
  • 犬山城 織田信清[十郎左衛門]が反旗を翻し美濃 斎藤氏と同盟を結ぶ。
  • 織田信清の支城を次々と攻め落とす。
  • 5月3日 美濃 軽海で斎藤龍興と戦う。
  • 7月3日 知多郡の水軍、今川氏から織田氏に寝返る。
  • 7月21日 阿弥陀寺に門家、末寺の支配を認める。
  • 10月28日 正親町天皇が遣わした立入宗継から密勅が手交される。
永禄6年
  • 3月2日 娘の五徳が松平元康[徳川家康]の嫡子 竹千代[信安]と婚約。
  •  美濃 斎藤龍興の稲葉山城を攻め、敗れる。
  • 4月17日 妙興寺に禁制を下す。
  • 6月17日 毛利広盛の忠節を賞し知行宛行いを約す。
  • 10月 曼陀羅寺に禁制を下す。
  • 11月 長田弥右衛門尉、池田勝之助に所領を安堵。
  • 12月 池田恒興に所領を安堵。
  • 12月 円福寺に買得地などを安堵。
  • 12月 瀬戸に制札を下す。
  • 12月28日 三宅孫介に栗毛馬の到着を謝す。
  • 清洲城から小牧山城に移城?@、斎藤竜興と犬山城主の織田信清に備える。移城に伴い家臣に清須から小牧山城下への移住を命じ、初めて兵農分離を図る。
小牧山城
永禄7年
  • 5月 国府宮に定書を下す。
  • 美濃 斎藤龍興の家臣 竹中重治[竹中半兵衛]が色欲と酒に溺れ悪政を行っている龍興を諌めるため、弟 竹中重矩や舅 安藤守就らと龍興の稲葉山城をたった16人で乗っ取る?@。これを聞き、城を明け渡すように要求するが、竹中重治は応ぜず。
  • 犬山城を攻め落とし、犬山城主の織田信清は甲斐に逃亡する?A
  • 6月9日 上杉輝虎[上杉謙信]に関東における勝利を賀す?B
  • 7月2日 西美濃本郷城主 国枝古泰に朝倉義景との連絡を依頼。
  • 9月9日 上杉輝虎に美濃、北伊勢の平定と犬山城の攻略を報告?B
  • 犬山城を拠点に美濃へ侵攻、伊木山城に本陣を置く。鵜沼城、猿啄城[さるばみ]、関城を次々と陥れる。一方、加治田城の佐藤紀伊守忠能だけは信長に内応し、ともに堂洞城[どうぼら]攻め落とす?C
  • 堂洞城攻略中の太田牛一の弓の射掛けを絶賛し、牛一の知行を増やす。
  • 堂洞城から撤退する際、関方面から長井道利、井口から斎藤龍興に攻められ多数の死傷者が出る。
  • 9月28日 正親町天皇が立入宗継を遣わして御料所の回復を命ぜられる。
  • 10月 二之宮野田社家に定書を下す。
  • 11月7日 上杉輝虎に信長の子息を養子に迎える事と鷹を贈られた事を謝す?B
永禄8年
  • 5月19日 三好三人衆[三好長逸、三好政康、岩成友通]と松永久秀によって室町幕府 第13代将軍 足利義輝が殺される。永禄の変
  • 永禄の変で足利義輝の弟で奈良 興福寺一乗院の覚慶[足利義昭]は幽閉されたが、義輝の側近 細川藤孝、和田惟政らに救出された。その後、義昭は近江の佐々木六角氏、若狭の武田氏などに保護を求め、最終的には越前の朝倉氏の保護を受け上洛と将軍家再興の機会を窺うことになる。
  • 7月10日 美濃 佐藤右近衛門に美濃三郡における反銭、夫銭の徴収を許可。
  • 9月3日 坪内利定に分国内での狩猟を許可。
  • 9月 寂光院に寺領を安堵し、諸役を免除。
  • 11月1日 斎藤新五に知行を宛行う。
  • 11月3日 坪内一族に知行を宛行う。
  • 11月13日 武田晴信[信玄]の嫡子 武田勝頼に養女[遠山婦人]を嫁がせる?@
  • 12月 坪内惣兵衛に所領を宛行う。
〜13代 足利義輝 5月19日
永禄9年
  • 2月 薬師寺別当蔵南坊に寺領を寄進。
  • 4月11日 朝廷に物を献上。
  • 5月13日 信忠、信雄の母でもあり、最愛の女性 側室の生駒吉乃が病死?@
  • 7月 日比野孫一に知行を安堵し、国役を免除。
  • 8月29日 濃尾堺に出陣。
  • 閏8月8日 美濃の河野島に侵入するが斉藤龍興に敗れる。
  • 9月24日 木下秀吉が美濃の墨俣に一夜城を築城し、龍興の兵を撃破。
  • 11月 兼松又四郎に所領を宛行い、服部小藤太に新儀の諸役を免除。
  • 12月 浅井四郎左衛門に知行を宛行う。
不在
永禄10年
  •  滝川一益に命じ、北伊勢に侵攻。
  • 5月27日 娘 五徳が徳川家康の嫡男 信康に輿入れする。
  • 8月15日 美濃三人衆の内応により斉藤龍興の稲葉山城を攻め落とす?@。龍興は伊勢長島に敗走。美濃を平定する。
  • 同日 美濃 稲葉山城を岐阜城と改め小牧山城から移城。城下町の井ノ口も岐阜とした?A
  • 8月 北伊勢に侵攻。
  • 9月 美濃 郡上八幡城主 遠藤慶隆に本領を安堵。
  • 9月 北加納の百姓還住を命じ、崇福寺、多芸荘椿井郷などに禁制を下す。
  • 10月 岐阜城下 加納寺内[円徳寺門前]に楽市令を下す
  • 10月 美江寺、十弐坊寺に禁制を下す。
  • 北近江の戦国大名 浅井長政に妹のお市を嫁がせ、織田氏は浅井氏と同盟を結ぶ。
  • 11月9日 正親町天皇の命で尾張、美濃の御料所を回復。
  • 11月 坂井文助、兼松正吉らに知行を宛行い、初めて天下布武の朱印状を発行する。朱印状の初見?B
  • 11月 高木貞久に当知行を安堵。
  • 11月 多芸丸毛不心斎に禁制を下す。
  • 12月 阿願寺に寺領を安堵。
  • 足利義昭は一向に上洛しようとしない朝倉義景を見限り、義景の家臣 明智光秀の仲介で信長に頼る。
  • 嫡男 信忠[11才]と武田信玄 6女 松姫[7才]の婚約を成立させる?C
岐阜城
永禄11年
  • 2月8日 上杉輝虎[謙信]の家臣 直江景綱に物を贈る。
  • 2月 北伊勢を攻略、三男の三七[信孝]を神戸友盛の嗣子[しし、後継]とする。
  • 弟 信包[のぶかね]を伊勢 長野工藤氏の嗣子とし上野城の城主にする?@
  • 2月 藤八に名田を安堵。
  • 4月8日 近江 甲賀の諸侍の音信に返答。
  • 4月27日 近江 甲賀の佐治為次に所領を安堵。
  • 同日 近江 佐々木六角氏の家臣 永原重康と盟約する。
  • 7月25日 足利義昭を美濃 立政寺に迎え、会見する。
  • 8月21日 大和の柳生宗厳と交誼を通じる。
  • 8月 美濃 瑞竜寺、近江 多賀社などに禁制を下す。
  • 9月7日 足利将軍家再興、足利義昭を将軍職に据える事を大義名分に掲げ、尾張、美濃、北近江[浅井長政]、三河[徳川家康]、北伊勢[神戸信孝、長野信包]、その他を合わせ6万余の軍勢を率い上洛を開始する。
  • 上洛経路の近江の六角義賢[承禎]は信長に抵抗の姿勢を見せる。
  • 9月7日 美濃平尾村に着陣し佐々木六角氏の本拠、観音寺城攻めの拠点とする。
  • 9月8日 近江 高宮に移陣。⇒ 11日 愛智川近辺に野陣。
  • 9月12日 丹羽長秀、木下藤吉郎に命じ、近江 佐々木六角氏配下 箕作城を攻略。13日 これを聞き本城 観音寺城の佐々木六角義賢[承禎]は伊賀に敗走。
  • 9月14日 正親町天皇の綸旨[りんじ]により禁中を警固する。
  • 9月21日 上杉輝虎に足利義昭を奉じ上洛する旨を報告。
  • 9月22日 足利義昭を近江 桑実寺に迎える。
  • 同日 近江 百済寺に条規を下す。
  • 9月26日 足利義昭と共に入京、東寺に陣取る?A
  • 9月29日 配下の兵、山城 勝竜寺を陥れ摂津に侵攻。
  • 9月 美濃 加納市場に再度 制札を下す。
  • 9月 摂津、山城、近江の諸社寺などに禁制を下す。
  • 10月2日 摂津、和泉に矢銭を課し、堺南北庄に2万貫を要求する。
  • 10月6日 大和 法隆寺に矢銭を課す。
  • 10月8日 朝廷に銭万疋[100貫文]を献上?B
  • 10月9日 義昭の下知に任せ山城 仁和寺に門跡領を安堵。
  • 10月14日 摂津より京都に戻る。
  • 10月18日 足利義昭 朝廷より将軍宣下を受け第15代将軍に就任
  • 10月21日 朝廷に雁を献上する。
  • 10月23日 義昭に招かれ能楽を見物。副将軍、管領職を勧められるが、これを断る。
  • 10月24日 義昭より「御父織田弾正忠殿」と宛名された感状を受け、再度 副将軍などを勧められるが、再度これを断り、足利氏の桐紋、二両引の家紋と堺、大津、草津の街を授かる。
  • 10月26日 京都を出立し、28日 岐阜城に戻る。
  • お鍋の方を側室とする?C
  • 10月 分国中の関所を撤廃する?D
  • 10月 大和 法隆寺、河内 志紀長吉社に禁制を下す。
  • 11月20日 山城 西芳寺に寺領を安堵。
  • 11月24日 近江 長命寺に本年の年貢収納を認める。
  • 11月 左高香禅坊に結園荘の代官坊、被官人を安堵。
  • 12月16日 義昭の下知に任せ、義昭の側近 一色藤長の知行と山城 大覚寺門跡領を安堵
  • 同日 近江 沢与助に知行を宛行う。
岐阜城

京都
14代 足利義栄[よしひで] 2月8日〜9月

15代 足利義昭[よしあき] 10月18日〜
永禄12年
  • 1月5日 三好三人衆が本圀寺の足利義昭を包囲。10日 この変報を聞き、単身で大雪中を上洛。
  • 1月15日 本願寺顕如光佐 上洛を祝い、物を献上。
  • 1月16日 幕府の殿中掟を定める。
  • 1月19日 近江 堅田中に条規を下し、諸公事などを免除。
  • 1月22日 義昭の下知に任せ権大納言 烏丸光康の知行を安堵。
  • 1月26日 義昭の第新造のため、山城 真如堂に替地を与える。
  • 2月2日 室町 勘解由小路[かでのこうじ] 真如堂跡に義昭の新第を造営し、自ら奉行する。
  • 2月16日 義昭の下知に任せ摂津 忍頂寺領を安堵。
  • 2月28日 配下の兵 摂津 尼崎に火を放つ。
  • 2月 山城 相国寺宜竹軒の寺領を安堵。
  • 足利義昭の住居である建築中の二条城の工事現場でポルトガル人 宣教師 ルイス・フロイスを初めて引見する?@
  • 3月1日 撰銭令を頒つ[えりぜにれい-あかつ]。16日 追加の条目を下す。
  • 3月2日 正親町天皇[おおぎまちてんのう]、信長に副将軍就任を勧めるが、これを断る。
  • 3月3日 廷臣の所領回復のため、その記録を徴す。
  • 3月5日 山城 本能寺が屏風を献上。これを謝す。
  • 3月16日 朝廷に鯛、串柿を献上する。
  • 3月 山城 誓願寺に参銭以下当知行分を安堵。
  • 3月 播磨 鶴林寺、近江 伊香立に禁制を下す。
  • 4月5日 山城 八瀬童子中に諸商売を安堵。
  • 4月7日 若狭 本郷信富に所領を安堵。
  • 4月8日 ルイス・フロイスに朱印状を与え、京都在住とキリスト教の布教を許可。
  • 4月10日 山城 北野社の地頭職を安堵。
  • 4月13日 朝廷に砂糖、柿を献上。
  • 同日 妙覚寺に移動。
  • 4月16日 朝廷に内裏修繕の費用を献上する。
  • 4月19日 義昭の下知に任せ権大納言 烏丸光康に摂津 上牧の地を安堵。同じく山城 大原野神社に社領を安堵。
  • 4月20日 義昭の下知に任せ山城 妙顕寺の寄宿を免除。同じく山城 雲華院に大住荘を直務させ、同院領 摂津 潮江荘と難波村の年貢を代官伊丹親興に催促させる。
  • 4月21日 義昭に栗田口まで見送られ出京、⇒ 23日 岐阜城帰陣。
  • 同日 山城 東寺に寺領を安堵。
  • 4月 山城 清和院に寺領などを安堵。近江 猪飼野佐度守などに牧材木場役を安堵。
  • 閏5月23日 山城 東寺に新儀の課役を免除。
  • 6月2日 今枝六蔵に所領を宛行う。
  • 6月7日 稲葉貞通[さだみち]に所領を安堵?A
  • 同日 稲葉貞通、氏家卜全[直元]、安藤守就に美濃 河西の諸段銭、夫銭を安堵。
  • 7月20日 中井忠蔵に知行を宛行う。
  • 木下秀吉に2万の兵を与え但馬を攻略させる。10日間で生野城[生野銀山城]から此隅山城までの18城を落とすという快進撃。
  • 8月20日 兵8万を率い北伊勢に侵攻。桑名 ⇒ 22日 白子観音寺 ⇒ 26日 阿坂城を攻略
  • 8月 伊勢 朝熊三村に禁制を下す。
  • 8月28日 伊勢国司 北畠具教、具房父子[とものり、ともふさ]の拠る大河内城を包囲。
  • 9月8日 稲葉貞通ら大河内城を夜襲。
  • 9月9日 北畠氏は信長二男の茶筅丸[ちゃせんまる = 信雄]に家督を譲ることを約束し大河内城を明け渡す。伊勢平定
  • 10月4日 滝川一益、津田一安 大河内城を受け取る。
  • 10月5日 伊勢神宮に参拝。⇒ 8日 伊賀 上野に移陣 ⇒ 従軍の将を諸国に帰す。⇒ 9日 千草 ⇒ 10日 近江 永原。
  • 10月11日 馬廻衆を率いて上洛、伊勢平定を義昭に報告。
  • 10月13日 参内し物を献上する。
  • 10月15日 義昭の下知に任せ政所執事職 伊勢貞倍に所領を安堵。
  • 10月17日 急遽 岐阜に帰る。正親町天皇に理由を質され、義昭と不和のためと答える。⇒ 19日 岐阜城帰陣。
  • 10月22日 朝廷に物を献上する。
  • 同日 上杉輝虎に鷹の礼をする。
  • 11月16日 津田一安に知行を宛行う。
  • 11月 義昭の下知に任せ山城 大沢橘大夫に徳政を免除。
  • 12月 山城 相国寺塔頭 宜竹軒領 六角高倉四町 町地子銭を安堵?B
15代 足利義昭
  • 1月7日 本願寺光佐顕如から歳首の贈り物を受ける。
  • 1月9日 朝廷に鯨肉を献上する。
  • 1月13日 朝廷に鵠[こく、くぐい、白鳥]を献上する。
  • 1月23日 室町幕府 第15代将軍 足利義昭に五箇条の覚書を送り諌める。御内書の乱発を禁止する。今まで出した義昭の命令は破棄せよ。天下は信長に任せられよ。
  • 2月13日 小早川隆景に太刀を進上された事を謝す。
  • 2月25日 岐阜城を出立。⇒ 近江赤坂 ⇒ 26日 常楽寺
  • 2月30日 申刻 入京し、廷臣や町衆に出迎えられる。
  • 3月1日 参内し物を献上。
  • 同日 足利義昭に参賀。
  • 3月3日 近江 常楽寺で相撲を興行。
  • 3月5日 誠仁親王に酒を献上する?@
  • 同日 義昭と放鷹する。
  • 3月6日 廷臣の家領を注進させる。
  • 3月16日 朝廷に鱒を献上する。
  • 同日 皇居の修理を視察。
  • 3月18日 毛利元就から播磨出兵の要請を受け、後日、出兵の期日を伝えることを述べる。
  • 3月22日 山城 雲華院に院領大住荘を安堵。天下布武 馬蹄形朱印状の初見
  • 3月29日 朝廷、誠仁親王に鵠、鮭などを献上。
  • 3月 丹波 蘆田忠家[あしだ]に丹波奥三郡の所領を安堵。
  • 4月1日 義昭の新第竣工祝いの能楽を見物、官位の昇叙を勧められるが辞退。
  • 同日 堺商人 今井宗久が松島壺、菓子の絵を献上。
  • 4月3日 朝廷に筍と米50袋を献上。
  • 4月5日 皇居の修理を視察。義昭と桜馬塚に調馬を見物。
  • 4月19日 但馬守護 山名韶熙[あきひろ、韶凞]に信長の直轄地 但馬生野銀山の横領を叱責、今井宗久らを派遣。
  • 同日 正親町天皇より薫香を下賜される。
  • 4月20日 朝倉義景征伐のため坂本を出陣、近江 和禰[かずね]に着陣?A
  • 21日 田中城 ⇒ 22日 若狭熊河 ⇒ 23日 佐柿 国吉城に着陣し軍議。
  • 4月23日 山城 革島一宣の戦功を賞し所領を還付。
  • 4月24日 徳川家康や若狭衆などの諸将を率い越前 朝倉攻めを開始。
  • 4月25日 越前 敦賀 妙顕寺に陣を取り、手筒山城を陥れ千三百の首を討ち取る。
  • 4月26日 金ヶ崎城を攻め落とし、一乗谷に迫る。
  • 4月30日 妹のお市を嫁がせた近江 浅井長政の寝返りが発覚?B。挟撃を恐れて越前 金ヶ崎城より近江 朽木越えで京に撤退。金ヶ崎の退き口?C?D
  • 5月1日 皇居の工事を視察。
  • 5月3日 朝廷に白瓜を献上。
  • 5月8日 近江 永原飛騨守の戦功を賞す。
  • 5月9日 軍勢2万を率い出京、近江に下る。
  • 同日 勅使 山科言継に皇居の工事を等閑しない事を約す。
  • 同日 滋賀城 ⇒ 12日 勢多城 ⇒ 13日 永原城。
  • 5月15日 蒲生堅秀、賦秀[氏郷]父子に当知行分を安堵し新知行を与える。
  • 5月17日 近江 永田景弘に所領を安堵。
  • 5月19日 千草山中で佐々木六角承禎の放った刺客 杉谷善住坊に狙撃されるが、弾は当たらず?E
  • 5月21日 岐阜城に帰る。
  • 5月25日 美濃 郡上八幡城[ぐじょうはちまん] 遠藤慶隆[よしたか]に、北近江出陣に備えるため、6月28日までの岐阜城参陣を命ずる。
  • 6月4日 柴田勝家、佐久間信盛らを南近江に派兵、六角承禎父子を破る。
  • 6月6日 若狭 武田信方に北近江出陣に備え、6月28日までの参陣を促す?F
  • 6月17日 祖父江秀重[そぶえ]に尾張に所領を宛行う。
  • 6月19日 戦力が整い、北近江に向け岐阜城を出陣。
  • 6月20日 近江菅浦に禁制を下す。
  • 6月21日 浅井長政、久政の小谷城を攻め、江北に火を放ち、虎御前山に陣取る。
  • 6月24日 徳川家康と竜ヶ崎に陣取る。
  • 6月26日 近江 久徳左近兵衛に所領を安堵。
  • 6月28日 徳川家康とともに姉川で浅井長政、朝倉景建 両軍と戦い勝利。姉川の戦い
  • 7月4日 馬廻衆30人を引き連れ上洛。義昭に江北での勝利を報告。
  • 7月7日 丑刻 出京する。
  • 7月8日 岐阜城に帰る。
  • 7月10日 毛利元就に音信し、姉川の合戦の勝利と畿内近国の情勢を報告。
  • 7月 土肥次郎、佐々弥三郎に知行を宛行う。
  • 8月20日 三好三人衆らを討伐するため岐阜城を出陣。⇒ 近江 横山城 ⇒ 22日 日長光寺城 ⇒ 23日 夕刻 本能寺に到着。
  • 8月25日 出京し淀川を越え、枚方[ひらかた]敬応寺に陣を取る。
  • 8月26日 天王寺に移陣し野田城、福嶋城を攻囲する。
  • 同日 大坂、堺、兵庫などの人々が異国の珍品を献上する。
  • 9月9日 大坂 天満に移陣。
  • 9月12日 本願寺顕如光佐率いる石山本願寺が挙兵?G、本願寺宗徒が信長の陣所を襲撃。以後、11年に及ぶ石山合戦が始まる
  • 9月16日 浅井長政、朝倉義景ら石山本願寺の挙兵に呼応し出兵。⇒ 20日 近江 宇佐山城を陥れる。城を護っていた弟 織田九郎信治、森可成[よしなり]?H、青地茂綱[あおぢしげつな]らが討ち死に。
  • 9月20日 三好為三に摂津 豊島郡を宛行う。
  • 9月23日 子刻 浅井、朝倉の挙兵を聞き、野田城と福嶋城の攻囲を解き上洛。
  • 9月24日 辰刻 近江 坂本に下向。
  • 9月25日 比叡山延暦寺を包囲、谷々に火を放つ。
  • 10月6日 青地茂綱の嫡男 千世寿[四郎左衛門、青地元珍]に父の跡職[あとしき]を宛行う。
  • 10月20日 朝倉義景に決戦を申し渡しその期日を問うが、義景応答せず。
  • 10月 摂津 平野荘に徳政を免除する。
  • 11月13日 朝廷に鵠を献上する。
  • 同日 尾張 聖徳寺の一向一揆不参加を賞する。
  • 11月21日 佐々木六角義賢[承禎]と和睦し近江の志賀で会見。
  • 同日 伊勢長島一向一揆衆が尾張 小木江城を攻囲、弟 織田彦七信興[のぶおき]が自刃し落城。
  • 11月29日 馬場喜讃に徳政を免除する。
  • 11月 山城 大徳寺と賀茂郷に徳政を免除する。
  • 12月14日 正親町天皇の勅命により、浅井朝倉と和睦し人質を交換する。
  • 12月15日 近江 山岡景佐に所領を安堵する。
  • 12月16日 近江 永原より佐和山城に移陣する。
  • 12月17日 岐阜城に戻る。
  • 12月 山城 本能寺に禁制を下す。
元亀2年
  • 1月1日 将士、岐阜城に伺候し歳首を賀す。
  • 1月2日 近江 横山城 木下秀吉に姉川と朝妻間の通行禁止を命ずる。
  • 同日 堀次郎、久徳左近兵衛尉に戦功を賞す。
  • 1月23日 上杉謙信に陸奥へ派遣する鷹師の道中警固と過書を依頼?@
  • 1月 伊勢 神戸城 神戸具盛が養子の三七郎[信孝]を疎んじたので具盛を近江 日野城に幽閉する。
  • 1月2日 誠仁親王に白鳥を献上する。
  • 2月24日 近江 佐和山城 磯野員昌を招降し、佐和山城を丹羽長秀に守らせる。
  • 3月4日 朝廷に柿を献上する。
  • 5月12日 伊勢長島一向一揆討伐のため尾張津島に出陣。
  • 5月16日 諸所に火を放ち撤退。殿軍を勤めた柴田勝家らが一揆衆に追撃され負傷、美濃三人衆の一人、氏家卜全[直元]が 討ち死に。
  • 同日 幕府内談衆大館上総介に音信し、戦況と一揆衆の詫び言を聞き入れて赦免した旨を伝える。
  • 6月13日 猪子平介に一向宗徒の探索を命じる。
  • 6月20日 尾張瑞泉寺の再興を許す。
  • 6月23日 鋳物師 水野太郎左衛門に鉄屋大工職を安堵する。
  • 6月 越前 白山別山大行事権現に鰐口を寄進し、平信長と刻字。
  • 7月5日 近江 朽木元綱に同国須戸荘を安堵。
  • 7月 美濃の刀工 関兼常に鍛冶職などを安堵。
  • 8月7日 尾張 意足軒に熱田神宮の末社高倉宮遷宮の費用を寄付。
  • 8月10日 朝廷に黄金10枚を献上。
  • 8月16日 美濃 西尾光教に多芸郡役を安堵。
  • 8月18日 近江に出陣、横山城に着陣。⇒ 26日 小谷城に浅井長政を攻める。 ⇒ 木本、余呉に火を放つ。⇒ 27日 横山城 ⇒ 28日 佐和山城に移陣。
  • 8月 尾張 祖父江秀重に知行を安堵。
  • 9月1日 志村城、小川城を陥れる。
  • 9月3日 日常楽寺へ移陣し、一向一揆が立て篭もる金ヶ森城を陥れる。
  • 9月12日 延暦寺宗徒が朝倉義景に与同。延暦寺根本中堂、山王21社を焼き払い、僧俗3-4千人を鏖殺[おうさつ]。比叡山延暦寺を焼き払う?A
  • 9月13日 巳刻 小姓衆、馬廻衆を連れて上洛。妙覚寺に寄宿。
  • 9月17日 権大納言烏丸光康に所領 摂津国 上牧を安堵。
  • 同日 安芸 毛利元就が病死、享年75?B。小早川隆景に使僧を派遣し毛利元就の弔意を表明。
  • 9月18日 近江永原に下向、足利義昭の命により正三位 竹内秀治を殺害。
  • 9月20日 岐阜城に帰陣。
  • 9月25日 上杉謙信に音信。鷹進上の謝礼をし畿内の状況を報告。
  • 9月27日 山城 石清水八幡宮社務 田中長清に同宮領の狭山郷を安堵。
  • 9月30日 朝廷、幕府用途のため、洛中洛外の全ての田畠に一段一升の段別米[たんべつまい]を課し、10月15日から20日までに妙顕寺まで運上する事を命ずる。
  • 9月 尾張 府中 府宮市場に定書を下し、諸役などを免除。
  • 10月14日 細川藤孝[幽斎]に山城 勝竜寺城の修理を命ずる。
  • 10月15日 洛中洛外からの運上米520石を上京下京に貸付け、その利米を朝廷の費用に充てる。
  • 10月 尾張 津島社神主の借銭返済を10年とし、同社神官 真野善二郎に父の跡職を安堵。
  • 12月14日 尾張で放鷹。
  • 12月28日 尾張より岐阜城に帰陣。
  • 12月 佐久間信盛に知行を宛行い、進藤寺、青地寺、山岡寺を与力とす。
  • 天下の語を使い始める
元亀3年
  • 1月23日 南近江の一向宗徒と地侍の長に六角義賢[承禎]と誼を通じる事を禁止し誓書を提出させる。
  • 1月 奇妙丸[信忠]、茶筅丸[信雄]、三七丸[信孝]が岐阜城で元服
  • 閏1月9日 朝廷に枝柿を献上する。
  • 3月3日 近江 永田景弘に3月9日の小谷城攻撃に備え、付城の築城を命ずる。
  • 3月5日 北近江赤坂に着陣。⇒ 6日 横山に移陣。
  • 3月7日 小谷と山本山の中間に陣を取り、近辺に火を放つ。
  • 3月9日 横山に帰陣。⇒ 10日 常楽寺に寄宿。 ⇒ 11日 和邇[わに]に移陣。
  • 3月12日 未刻 兵7百を率い上洛、妙覚寺に寄宿。
  • 3月17日 朝廷に串柿を献上。
  • 3月21日 将軍足利義昭、権大納言 徳大寺公継[きんつぐ]の武者小路の邸宅[空き地]を収めて信長に与え、居館[京都信長邸]を造らせる?@27日普請始め。普請奉行は村井貞勝と島田秀満、大工棟梁は池上五郎右衛門。
  • 3月27日 御牧摂津守に石清水八幡宮領山城狭山郷における不法を禁止させる。
  • 3月 摂津長遠寺建立にあたり禁制を下す。
  • 4月4日 信長の下知により、滝川一益、柴田勝家、明智光秀らが連署で奉書し、片岡弥太郎に4月14日の信長の出兵に合わせ必ず河内に出兵する事を下達。
  • 4月5日 小早川隆景に鷹の返礼をする。
  • 4月8日 朝廷に鵠を献上する。
  • 三好義継が松永久秀、久通父子らと謀反を企て、河内の畠山昭高[政頼]を攻め出す?A。昭高は信長の妹を妻としている?B
  • 松永久秀が畠山昭高の家臣 交野城[かたのじょう]の安見新七郎[やすみ]を攻め始め、砦を築く?C
  • 4月16日 柴田勝家、佐久間信盛、森長可らに安見新七郎を授け、三好義継、松永久秀らを討たせる。足利義昭も畿内の武将を招集し織田方の後備えに当たる。
  • 織田方は鹿垣[ししがき]で砦を囲んだが、風雨に乗じた三好義継、松永久秀らを取り逃がす。義継は若江城に、久秀は大和 信貴山城、久通は奈良 多聞山城にそれぞれ篭城した。
  • 4月25日 山城 大徳寺に寺領を安堵。
  • 4月 山城 長福寺に条規を下す。
  • 5月2日 朝倉義景が三好義継に遣わした使者を2人捕らえ、二条戻り橋で焼き殺す。
  • 同日 豊後の大友宗麟より音信があり、上洛する旨を伝えられる。すぐさま小早川隆景に音信し、同意を求む。
  • 5月5日 賀茂競馬を観覧する。
  • 5月14日 京を出立、19日 岐阜城に帰る。
  • 6月23日 山城 大徳寺から銀子百両が献上されたのを謝す。
  • 6月 山城 阿弥陀寺住職の清玉上人[玉誉清玉]に?D、東大寺大仏殿再興の費用を分国中に勧進[かんじん]させる?E
  • 7月3日 山城 勝竜寺城の細川藤孝に大坂往還の者を厳重に改めさせる。
  • 7月13日 分国内の一向宗徒の大坂往還を禁ずる。
  • 7月19日 嫡男 奇妙[信忠]の初陣。北近江に浅井長政を攻めるべく、父子揃って岐阜城を出陣。⇒ 赤坂に陣取る。⇒ 20日 横山城に移陣
  • 7月21日 小谷城を攻め、城下の町家を打ち壊し、焼き払う。
  • 7月22日 木下藤吉郎に命じ、長政の家臣 阿閉貞征[あつじさだゆき 阿閉淡路守]の拠る山本山城の城下に火を放つ。
  • 7月23日 越前堺の与語[余呉]一帯や木本の地蔵坊などの諸寺、堂塔伽藍、名所、旧跡を残らず焼き払う。
  • 7月24日 草野の谷に放火し、木下藤吉郎、丹羽長秀らが近隣住民などが立て篭もっていた大吉寺を夜襲し陥れ、一揆勢の僧俗多数を討ち取る。
  • 同日 明智光秀ら、囲い舟で竹生島の岸に着け、火矢、大砲、鉄砲で攻め、各入り江の家々を焼き払う。
  • 7月27日 虎御前山に砦を築く。
  • 7月30日 朝倉義景、浅井長政の援軍要請で小谷に着陣。信長と対峙。
  • 同日 上杉謙信に音信、武田信玄との和睦を勧める。
  • 8月6日 陸奥 大祥院に熊野参詣の檀那[檀家]を連れての上洛を許可する。
  • 8月8日 越前 前波九郎兵衛ら、信長の陣に投降して来たので褒美を取らす。
  • 同日 虎御前山の砦が完成し移陣。見事な出来栄えだったので賞賛する。
  • 9月3日 山城 革島一宣を再度 細川藤孝の与力とする。
  • 9月16日 朝倉義景に決戦を求めるが、義景は応ぜず。
  • 同日 虎御前山砦を木下藤吉郎に守らせ、横山城に戻る。
  • 9月19日 山城 天竜寺塔頭 妙智院に同院領 山城 安弘名の年貢を直務させる。
  • 9月26日 上杉謙信に音信、小谷城攻めの状況を報告。
  • 9月 足利義昭に十七ヶ条の異見書を出して失政を叱責し厳しく諌める。義昭に十七ヶ条の異見書を提出
  • 9月 近江 金森市場に定書を下し、諸役などを免除。
  • 10月7日 山城 妙心寺に寺領と塔頭領を安堵。
  • 10月 近江 永明寺に禁制を下す。
  • 11月13日 薬師寺弥太郎の一雲と小次郎への借銭を破棄し、小次郎の時に売却した田地を早々に取り戻して領知として安堵。
  • 11月14日 武田信玄の家臣 秋山信友が美濃の岩村城を陥れ、岩村城主 遠山氏 猶子の御坊[信長の末子、勝長]が信玄の人質となる
  • 11月15日 延友佐渡守の戦功を賞し所領を宛行う。
  • 11月24日尾張 西御堂に半銭を徴す。
  • 11月山城 狛秀綱に所領と家来を安堵。
  • 11月下旬 武田信玄が徳川家康の遠州に侵攻、佐久間信盛らを援軍に派遣する。
  • 12月2日 伊藤惣十郎を尾張、美濃の商人司に任ずる。
  • 12月6日 成田義金に所領を与える。
  • 12月22日 遠江 三方ヶ原において徳川家康、織田連合軍が武田信玄の軍勢に大敗する。家康は脱糞しながら敗走。三方ヶ原の戦い
元亀4年
  • 1月15日 山城 狛左馬進に歳首の贈り物を謝す。
  • 2月20日 柴田勝家らが岐阜城を出陣 ⇒ 24日 近江勢田を渡海 ⇒ 26日 石山城を攻め落とす ⇒ 29日 辰刻 今堅田を陥れる。
  • 2月23日 将軍足利義昭の側近 細川藤孝より音信があり、義昭が朝倉義景 浅井長政 武田信玄 本願寺顕如らと密約を交わしたと密告。
  • 同日 細川藤孝に返信し、指示を与える。
  • 2月24日 山城 大徳寺に銀子10両の返礼をし、近日中に上洛することを告げる。
  • 2月26日 実子を人質として義昭の元に送り、和平を求める。
  • 3月7日 義昭 信長の送った人質を斥けて信長と対決姿勢を見せる。受けて立ち、将軍 足利義昭と絶交する?@
  • 3月25日 岐阜城を出陣し、29日 近江 逢坂で細川藤孝、荒木村重らに迎えられる。
  • 同日 夕刻 上洛し東山 知恩院に着陣。
  • 3月 山城 大山崎惣庄中に禁制を下す。
  • 4月4日 洛外に火を放ち義昭に和睦を求めるものの義昭は応ぜず。次に二条より上京に放火し義昭の二条城を包囲。
  • 4月5日 正親町天皇 信長に勅使を遣わし義昭との和睦を勧める。信長これに応じる?@
  • 4月6日 徳川家康に京都の状況を音信し、義昭と和睦することを伝える。
  • 4月7日 名代として庶兄 織田三郎五郎信広らを二条城に派遣。義昭に和平の礼を述べる。
  • 4月8日 巳刻 出京、11日 近江 百済寺などを焼き、岐阜城に帰城。
  • 4月12日 甲斐 武田信玄が死ぬ?A
  • 嫡男 信忠と松姫[武田信玄 6女]の婚約解消。
  • 4月19日 十河存保[そごうまさやす]に音信、若江城を落せば河内半国を宛行うと約す。
  • 4月27日 義昭の側近と信長の宿老が起請文を交わし、義昭と和睦する?@
  • 5月15日 岐阜城を発し佐和山城へ。
  • 同日 近江にて長さ30間の大船の作成を命じる。7月5日に完成。
  • 6月5日 山城 大徳寺に佐和山在城の陣中見舞いとして物を贈られた事を謝す。
  • 6月18日 乳母 池田恒興の母[池田恒利室]に所領を与える。
  • 7月1日 近江 竹生島の宝厳寺に坊舎と寺領を安堵。
  • 7月3日 将軍足利義昭 二条城を側近の三淵藤英らに守らせ、真木島城[槇島城]に立て篭もり篭城。義昭 再度挙兵?@
  • 7月6日 近江で作らせた大船に乗り、7日 午刻に坂本へ着岸。
  • 7月9日 上洛し妙覚寺へ着陣。
  • 7月10日 義昭の側近の篭る二条城を攻める。三淵藤英の兵らが投降。
  • 7月12日 三淵藤英が投降し、二条城を破却する。
  • 同日 義昭との対立における細川藤孝の功を賞し、山城西岡の地を与える。
  • 7月16日 義昭の拠る真木島城[槇島城]に派兵し、自らは翌日17日に京を出立し五ヶ庄に陣を張る。
  • 7月18日 真木島城[槇島城]を攻める。
  • 同日 義昭は子の義尋を人質とし投降。義昭を河内 若江城に追放。室町幕府滅亡?@
  • 7月21日 帰京し、村井貞勝を京都所司代に任ずる。
  • 同日 上京の地子銭を免除する?B
  • 同日 朝廷に改元を奏請[そうせい]、28日 朝廷はこれを認め年号が天正に改元。
  • 7月22日 夜、禁中を巡視する。
  • 7月 山城 長福寺と大徳寺に寺領などを安堵。
  • 7月 大和 薬師寺に禁制を下す。
  • 7月27日 京を出立し近江 高島に出陣。水戸城、田中城を陥れる。
〜15代 足利義昭 7月
室町幕府滅亡
  • 7月28日 年号が天正に改元される?C
  • 8月4日 岐阜城に帰陣。
  • 8月8日 浅井長政の家臣 山本山城の阿閉貞征[あつじさだゆき 阿閉淡路守]が内応
  • 同日 夜 3万の兵を率い岐阜城を出陣し、北近江 浅井長政の小谷城攻めを開始する。
  • 同日 夜 月ヶ瀬城を攻略。
  • これに呼応して越前 朝倉義景が浅井長政の援軍として出陣。
  • 8月10日 山田山に移陣し、朝倉義景の援軍を遮断。
  • 浅井方の焼尾砦に拠る浅見対馬守を内応させ大獄城[おおづく]を奇襲し陥落させる。
  • 8月13日 丁野山砦[ようのやま]を陥落させ、義景の援軍を完全に遮断。
  • 同日 義景が本陣 田上山から越前に撤退。自ら本隊を率いこれを追撃。
  • 同日 越前に侵攻する経路で朝倉方と戦い2千もの首を討ち取る。義景は一乗谷に逃れる。刀根坂の戦い?D
  • 8月14日 越前 敦賀に移陣。16日まで逗留して軍を休める。
  • 8月16日 近江 多胡宗右衛門に知行を安堵。
  • 同日 越前 河野浦、今泉浦、赤萩に禁制を下す。
  • 8月18日 府中 竜門寺に移陣。
  • 同日 義景、信長に寝返った従兄弟の朝倉景鏡[かげあきら]の謀りで一乗谷城を退去し、大野郡 山田荘 賢松寺[六坊賢松寺]に潜伏。
  • 8月19日 一乗谷を焼き払う。一乗谷城の戦い
  • 8月20日 義景、景鏡の裏切りで賢松寺を攻められ自刃。朝倉氏滅亡?E?F
  • 同日 朝倉義景の首を京都に送る。
  • 同日 前波長俊を越前守護代にする。
  • 同日 上杉謙信に音信し、足利義昭の追放および越前攻略と朝倉氏を滅ぼしたことを報告。
  • 8月23日 鷲田三郎左衛門尉に知行を安堵。
  • 8月25日 越前 北庄橘屋に軽物座を、三田村三助に知行を安堵。
  • 8月26日 北近江に戻り虎御前山[とらごぜん]に着陣。
  • 8月27日 浅井長政の拠る小谷城の攻略を再開。
  • 同日 長政は羽柴秀吉らの投降勧告に応じず自刃を決意。浅井久政、長政父子が死に浅井氏が滅亡する。長政の妻 お市[信長の妹]と三人の娘、茶々[淀殿]、初、小督[おごう]またはお江与[おえよ]が救出される。
  • 同日 浅井氏旧領の北近江を羽柴秀吉に与える。
  • 8月 越前の緒社寺に禁制を下す。
  • 9月4日 近江 佐和山城に移陣、柴田勝家へ鯰江城攻略を命ずる。
  • 9月6日 岐阜城に凱旋。
  • 同日 桑原源介、安居三河守らに知行を安堵。
  • 9月7日 毛利輝元、小早川隆景らに音信、畿内と隣国の状況を報告し、追って因幡、但馬へ出兵する期日を通達すると述べる。
  • 同日 池田信輝に本田小太郎跡職を安堵。
  • 9月8日 山城 天竜寺妙智院に沈香一包を贈られ謝す。下旬に上洛する旨を伝える。
  • 9月10日 元亀元年[1570年]5月19日に信長を狙撃した杉谷善住坊が磯野員昌に捕獲され美濃 岐阜城へ連行される。穴を掘って首だけ出して埋め、緒人に竹の鋸で首を挽かせ処刑。
  • 9月11日 松永久秀の家臣 岡周防守の音信に答え、近日中に上洛する旨を伝える。
  • 9月22日 豊嶋源左衛門に知行を宛行う。
  • 9月24日 北伊勢一向一揆討伐に出陣。岐阜城 ⇒ 大垣城 ⇒ 25日 美濃太田の小稲葉山に着陣。
  • 9月26日 小稲葉山から桑名に兵を出し西別所を攻略。
  • 10月8日 北伊勢一向宗徒を成敗。
  • 同日 越前 佐々木蔵人、橋本三郎左衛門に知行を宛行う。
  • 10月12日 小早川隆景に音信、浅井、朝倉、勢州一揆を降した事を報告?G
  • 山城国 賀茂惣中へ音信し、筒井順慶と相談の上、松永久秀の多聞山城に対抗する付城を築城しこれを攻略せよと命令。
  • 10月24日 伊勢国大湊廻船中に関東へ大船を出させる?H
  • 10月26日 岐阜城に帰る。
  • 10月 伊勢専修寺に禁制を下す。
  • 同月 越前 剣神社に社領を安堵。
  • 11月4日 岐阜城を出立し上洛。⇒ 9日 妙覚寺に宿泊。
  • 11月11日 正親町天皇より薫物を下賜される。
  • 11月13日 和泉 引接寺に陣取り寄宿を免除。
  • 11月14日 朝廷に密柑を献上する。
  • 11月16日 山城 真如堂に寺領を安堵。
  • 11月28日 信濃 兵部丞、上野豪為に知行を安堵。
  • 12月14日 山城 仁和寺に寺領を安堵。
  • 12月16日 京都を出立し岐阜に戻る。
  • 12月28日 伊達輝宗に音信し、畿内、隣国の情勢を報告、近く甲州攻めを開始する事などを伝える。
  • 12月 摂津 普門寺に寺領、山城 賀茂社に社領を安堵。
 
天正2年
  • 1月1日 将士、岐阜城に歳首を賀す。
  • 正月 朝倉義景、浅井久政、長政の髑髏[どくろ]を薄濃[はくだみ:漆塗り、金粉・金泥を施したもの]にし、白木の台に乗せ酒宴を楽しむ。
  • 1月19日 越前守護代 前波長俊、府中城の富田長繁に攻められ自刃。ついで越前一向一揆が蜂起。
  • 同日 越前一向一揆鎮定のため羽柴秀吉らを敦賀に派遣。
  • 1月27日 甲斐 武田勝頼が美濃 明智城を囲む。援軍に向かう軍備を整える。
  • 1月 京都上京に寄宿を免除。
  • 同月 越前 橘屋三郎五郎に唐人座などの条規を与える。
  • 2月3日 岐阜城で茶会を開く。
  • 2月5日 美濃 明智城の救援に向かうべく岐阜城を出立し、御嵩[みたけ]に着陣。⇒ 6日 神筒に移陣 ⇒ 7日 明智城の落城を聞き、軍を返す。
  • 2月24日 岐阜城に帰陣。
  • 3月12日 上洛のため岐阜城を出立。⇒ 16日 近江 永原に宿泊。⇒ 17日 入京し、相国寺に寄宿。
  • 3月18日 従三位参議に叙任される。
  • 3月27日 大和 多聞山城に入城。
  • 3月28日 東大寺正倉院の名香木 蘭奢待[らんじゃたい]を切り取る?@
  • 4月1日 京に戻る。
  • 4月13日 六角承禎[義賢]を近江 石部城に攻め落とす。承禎は落城前に信楽へ逃れる。
  • 5月5日 葦毛、栗毛の愛馬が加茂競馬に足を競う。
  • 5月16日 武田勝頼が徳川家康配下の遠江 高天神城を囲む。
  • 同日 家康より高天神城の援軍要請があり京都を出立、28日 岐阜城に戻る。
  • 6月5日 尾張 知多郡の商人に遠州出陣の兵糧を調達させる?A
  • 6月14日 遠江 高天神城へ出陣。⇒ 17日 三河 吉田に着陣。陣中にて落城を聞く。
  • 6月19日 遠江より軍を返す。礼参の家康に黄金を与え遅参を詫びる。
  • 6月21日 岐阜城に帰陣。
  • 6月29日 上杉謙信に音信し、近況と畿内および近隣諸国の様子を報告し武田勝頼打倒を宣言。
  • 7月12日 最後の伊勢長島一向一揆討伐戦に岐阜城を出陣。⇒ 尾張津島に着陣。
  • 7月20日 専修寺派諸寺などに忠節を賞し知行の宛行いを約す。
  • 7月29日 長岡藤孝[細川藤孝]に音信し、山城鳥羽に布陣する明智光秀に命じ、伊勢長島の大鳥居と篠崎を近日中に毀す事を伝える。
  • 8月5日 長岡藤孝に明智光秀と策を立て本願寺一向宗を根切りにせよと命じる。
  • 同日 奥州より献上された鷹見物のため一旦岐阜城に戻り ⇒ 8日 再度長島の陣中へ。
  • 9月2日 伊達輝宗に金襴や虎皮などを贈り、好誼[こうぎ]を通ずる。
  • 9月29日 伊勢長島一向一揆討伐戦に勝利。中江城、屋長島城の男女2万人が焼かれ、一向宗徒は長島を退城。激戦で兄の織田信広[信秀側室長男]と弟の織田秀成[信秀の八男または九男]を失う。
  • 10月1日 大神宮御師上部大夫に尾張における旦那職を安堵。
  • 10月22日 山城 宝鏡寺領丹波国八田庄などを守護使不入とする。
  • 11月10日 大和 法隆寺に命じ東寺と西寺との混合を正し、東寺に寺領を安堵、西寺の段銭徴収を禁止した。
  • 11月23日 尾張国中の道、橋、水道などの修築を命じる。
  • 11月25日 出京し岐阜城に戻る。
  • 12月 分国中の道路修築を命ずる。
 
天正3年
  • 1月10日 洛中洛外の寺社本所領代官の不法を禁ずる。
  • 1月11日 織田伊勢守信安の息女に美濃 福光郷の段銭50貫文を与える。
  • 2月20日 初めて出羽 秋田愛季[安東愛季 ちかすえ]に音信し、差し下す鷹師の警護を依頼。
  • 2月27日 上洛のため岐阜城を出立。⇒ 29日 近江 佐和山に着陣。
  • 3月3日 午刻 上洛し相国寺慈照院に寄宿。
  • 3月14日 徳政令を出す。
  • 3月20日 相国寺に今川氏真の蹴鞠を見物?@
  • 3月22日 丹波 舟井、桑田 両郡緒侍を長岡藤孝[細川藤孝]の与力とする。
  • 3月28日 養女を大納言 二条昭実に嫁がせる。
  • 4月6日 京を発し、河内へ下向。
  • 4月8日 三好康長を河内 高屋城に攻める。⇒ 12日 住吉に移陣 ⇒ 16日 遠里小野に移陣し堺の新堀砦を攻め落とす。
  • 4月21日 京都に帰る。
  • 4月28日 京を発し、岐阜城に戻る。
  • 5月8日 徳川家康の配下 三河 長篠城が甲斐 武田勝頼に包囲される。
  • 5月13日 家康からの援軍要請を受け岐阜城を出陣。
  • 同日 岐阜城 ⇒ 尾張熱田 ⇒ 14日 三河岡崎 ⇒ 16日 牛久保城 ⇒ 18日 志多羅 極楽寺
  • 5月21日 鉄砲を駆使し、設楽が原で武田勝頼に圧勝。長篠・設楽が原の戦い
  • 5月25日 岐阜城に凱旋。
  • 6月11日 兼松又四郎に所領を宛行う。
  • 6月13日 上杉謙信に返書、長篠の合戦の戦勝報告を行う。
  • 6月26日 岐阜城を発し、27日 上洛。
  • 7月3日 参内し蹴鞠を観る。その際、正親町天皇より官位の昇叙を勧められるが辞退し家臣の任官を奏請[そうせい]。
  • 7月6日 京都の町衆から妙顕寺に招かれ能楽を閲覧。
  • 7月12日 久我家領を安堵。
  • 7月15日 京都を発し、近江 常楽寺 ⇒ 16日 垂井に移陣 ⇒ 17日 美濃 曾根に移陣。
  • 7月17日 岐阜城に帰陣。
  • 8月12日 10万の軍勢を率い越前一向一揆討伐に出陣。岐阜城 ⇒ 13日 小谷城 ⇒ 14日 敦賀に着陣。
  • 8月15日 木目口 浜手を攻め、篠尾城、杉津城を攻め落とす。
  • 8月16日 府中 竜門寺を攻め、下間頼照、朝倉景健らを殺す。
  • 8月17日 京都所司代 村井貞勝に越前の戦況を音信。
  • 8月20日 本覚寺、西光寺などを攻略し鎮定するとともに、信雄に一向一揆残党の探索を命じる。
  • 8月23日 一乗谷に移陣 ⇒ 28日 豊原 ⇒ 9月2日 北の庄で諸将に分封[ぶんぽう]。
  • 9月26日 岐阜城へ凱旋。
  • 9月 府中三人衆 前田利家、佐々成政、不破光治に府中10万石を与え?A、越前国掟を出す。
  • 同月 越前の諸社寺に禁制[きんぜい]を下す。
  • 10月8日 尾張国中に橋を架設し、道に並木の植樹を命じる。
  • 10月10日 上洛のため岐阜城を発する。
  • 10月13日 入京し妙覚寺に寄宿。
  • 10月19日 伊達輝宗の使者を清水寺で饗応。
  • 10月21日 伊勢長島一向一揆、越前一向一揆が鎮定されたのを受け、本願寺顕如光佐が和睦を申し入れて来たので承諾?B
  • 10月26日 土佐 長宗我部元親の嫡男 弥三郎に偏諱を与える。「信」の一字を与え信親に。
  • 10月28日 妙覚寺で茶会を開く。
  • 11月6日 廷臣に所領を、社寺に寺社領を宛行う。
  • 11月7日 従三位権大納言兼右近衛大将に叙任される。
  • 11月14日 甲斐 武田勝頼の美濃出兵の報を聞き出陣。京都 ⇒ 15日 岐阜城。
  • 11月21日 嫡男 信忠に命じ、勝頼の家臣 秋山信友の岩村城を一気攻城、信友と叔母のおつやの方を捕らえて長良川で逆さ磔の刑にして殺す?C?D?E
  • 11月24日 信忠 岐阜城に凱旋。
  • 11月28日 家督を嫡男 信忠に譲り、尾張、美濃を与える
  • 同日 初めて 陸奥 田村清顕、下野 小山秀綱、常陸 佐竹義重らに音信し交誼を通じる。
 
天正4年
  • 1月10日 熱田太宮神職を千秋季信に与える。
  • 1月中旬 丹羽長秀を普請奉行、岡部又右衛門以言[またえもんもちとき]を大工総棟梁とし近江の安土山に築城を開始?@
  • 2月23日 建築中の安土城に移る?A
  • 3月20日 小早川隆景に歳首の賀を謝す。
  • 4月1日 安土城に天主閣[天守閣]を築く?B
  • 4月3日 石山本願寺攻略中の惟任光秀[明智]らに指示を出す。
  • 4月5日 摂津 平野荘の本願寺への兵糧米搬入を禁ずる。
  • 4月29日 上洛し、妙覚寺に寄宿。
  • 同日 二条晴良第跡に二条御新造[居館]を建築。
  • 5月5日 石山本願寺攻めに出陣。京都 ⇒ 若江城 ⇒ 7日 兵3千を率い天王寺で一向宗徒と交戦し撃破 ⇒ 同日 大坂 城戸口へ追撃。
  • 5月23日 谷野大膳亮の戦功を賞す。
  • 同日 毛利輝元が海上より石山本願寺に兵糧を運び込むとの風説があり、淡路 安宅信康[あたぎ]にこれに備えるよう命じる?C
  • 5月 紀伊大田に禁制[きんぜい]を下す。
  • 6月4日 荒木村重に命じ、尼崎で大坂への道路を遮断。
  • 6月5日 若江城に軍を返す。⇒ 6日 填島城 ⇒ 同日 上洛し妙覚寺に寄宿。
  • 6月7日 未刻 安土城に帰陣。
  • 6月10日 陸奥 佐竹義重の従五位下陸奥介叙任を奏請。
  • 7月13日 毛利水軍が木津川河口より石山本願寺に兵糧を運び込もうとしたため、これを信長配下の九鬼嘉隆 率いる九鬼水軍、安宅信康 率いる淡路水軍が阻止しようとしたが失敗。毛利輝元配下 児玉就英、村上武吉[村上水軍]らの石山本願寺への兵糧搬入を許す?D木津浦の海戦に敗れる
  • 7月27日 近江 建部油座に油の売買を安堵。
  • 9月13日 足利義昭の二条城を毀し石垣の石を安土城に運ばせる。
  • 10月10日 近江 浄厳院に院領を安堵。
  • 10月29日 坂井文助、兼松又四郎らに知行を宛行う。
  • 11月4日 申刻 上洛し妙覚寺に寄宿。
  • 11月6日 東山に放鷹。
  • 11月11日 近江の大鋸引、鍛冶らに棟別役などを安堵。
  • 11月13日 正三位に叙せられる。
  • 11月19日 廷臣、門跡らに所領を宛行う。
  • 11月21日 内大臣に任ぜられる。
  • 11月23日 京を発し近江 石山に寄り、25日 安土城に帰城。
  • 11月25日 伊勢国司 北畠具教を殺し、嫡男具房を幽閉。家臣の長野具藤も殺す。伊勢の北畠氏、長野工藤氏を滅ぼす
  • 12月10日 三河吉良に放鷹に出かける。安土城 ⇒ 佐和山城 ⇒ 11日 岐阜城 ⇒ 13日 清洲城 ⇒ 22日〜25日 三河 吉良 ⇒ 26日 清洲城 ⇒ 30日 岐阜城にて越年。
安土城
 
天正5年
  • 1月2日 三河 吉良への放鷹から安土城に戻る。
  • 1月14日 上洛し、妙覚寺に寄宿。
  • 1月18日 正親町天皇より太刀を下賜される。
  • 1月25日 安土城に帰る。
  • 2月8日 再度上洛し、妙覚寺に寄宿。
  • 2月 紀伊 大田村に禁制を下す。
  • 2月13日 10万の軍勢を率い紀伊雑賀衆、根来衆の一向一揆討伐のため出陣。八幡に着陣。⇒ 15日 河内 若江に移陣 ⇒ 16日 香庄に移陣し貝塚を攻める。 ⇒ 18日 佐野に移陣 ⇒ 22日 志立に移陣すると杉の坊 三緘衆[みからみしゅう]を先頭に雑賀に乱入?@。⇒ 28日 丹和に移陣して中野城を落とし信忠に守らせる。
  • 3月1日 滝川一益、惟任光秀などに鈴木孫一の居城を攻めさせる。⇒ 2日 和泉 鳥取郷の若宮八幡に移陣し根来口を攻める。⇒ 15日 鈴木孫一ら一揆の主導者7人が誓書を提出し降服してきたので信長はこれを赦免。⇒ 21日 香庄に移陣。⇒ 22日 佐野に砦を築き佐久間信盛、羽柴秀吉に守らせる。⇒ 23日 若江に帰陣。⇒ 24日 八幡に宿泊。⇒ 25日 入京し妙覚寺に宿泊。⇒ 27日 安土城に帰城。
  • 3月 和泉 松尾寺に禁制を下す。
  • 4月3日 大和 興福寺の円明院と蓮成院の宗論を裁決する。
  • 5月10日 山城 当尾の代官 津田利右衛門尉に命じ、昨年の指出以外の隠田を検地させる。
  • 5月16日 紀伊 宮郷、中川郷、南郷の雑賀三組[三緘の衆 みからみのしゅう]の忠節を賞し、雑賀三組の挙兵により出兵する事を報じる。
  • 5月19日 太田源三太夫、神崎中務丞の戦功を賞する。
  • 6月1日 出羽 秋田愛季[安東愛季 ちかすえ]に鷹の返礼をし太刀を贈る?A
  • 6月24日 大神宮御師北鍋次郎の福島家相続を認める。
  • 6月 安土山下町に定書を下す。
  • 7月3日 伊達輝宗が鷹を献上。
  • 閏7月6日 上洛し、二条新第に入る。
  • 閏7月9日 大和 沢氏に知行などを安堵。
  • 7月10日 山城 狛秀綱に知行を宛行う。
  • 閏7月10日 天皇に奏請し、出羽 秋田愛季が勅免される。
  • 閏7月11日 竣工した皇居築地を視察。
  • 閏7月12日 近衛前久[さきひさ]の子 信基[信尹]が元服、加冠する。
  • 閏7月13日 京を発し、安土城に戻る。
  • 7月20日 出羽 秋田愛季が返信し、虎皮を献上?A
  • 閏7月23日 伊達輝宗に越後の本庄繁長と謀り、上杉謙信を討つ事を誘う。
  • 8月8日 柴田勝家らを加賀に派遣し上杉謙信に備えさせる。
  • 同日 祖父江秀重に所領を安堵?B
  • 8月17日 大和 松永久秀・久通父子が上杉謙信・毛利輝元・石山本願寺などの反信長勢力と呼応して石山本願寺攻めを離脱、反旗を翻して信貴山城に篭る。松永久秀が謀叛
  • 9月23日 越後 上杉謙信が能登 七尾城を包囲、柴田勝家を総大将とする北国軍を加賀と能登七尾城に派兵?C。しかし柴田勝家の到着を待たずして七尾城は落城(9月15日)。勝家は撤退するが上杉軍に追撃され敗北。手取川の戦い
  • 10月1日 長岡藤孝[細川藤孝]ら、松永久秀の与党 森秀光らを大和 片岡城に攻め落とす。
  • 10月2日 長岡与一郎忠興[細川忠興]に自筆の感状を与える?D
  • 10月10日 織田信忠ら松永久秀の拠る信貴山城を攻め落とす。松永久秀が平蜘蛛茶釜を抱いて爆死
  • 10月23日 羽柴秀吉に中国地方攻略を命じる。秀吉、京を出陣。
  • 10月29日 惟任光秀[明智]ら丹波の諸城を攻める。
  • 11月14日 未明 上洛し、二条第に入る。
  • 11月16日 従二位に叙せられる。
  • 11月18日 参内する。次いで東山に放鷹する。
  • 11月20日 右大臣に任ぜられる。
  • 11月20日 京を発し、安土城に戻る。
  • 11月20日 三河 吉良に放鷹のため安土城を出立。⇒ 12日 岐阜城 ⇒ 14日 清洲城 ⇒ 15日 三河 吉良で放鷹を楽しむ。 ⇒ 19日 岐阜城
  • 12月21日 安土城に帰城。
安土城

京都
 
天正6年
  • 1月1日 将士、安土城に歳首を賀す。
  • 1月6日 正二位に叙せられる。
  • 1月10日 朝廷に鶴を献上。
  • 1月13日 三河 吉良に放鷹に出向く?@。⇒ 柏原 ⇒ 14日 岐阜城 ⇒ 16日 清洲城 ⇒ 18日 三河 吉良で放鷹を楽しむ。 ⇒ 22日 尾州[尾張] ⇒ 23日 岐阜城 ⇒ 25日 安土城。
  • 1月29日 弓衆 福田与一の屋敷の失火により家臣の単身赴任者が多数いることが判明し激怒、妻子らを岐阜より安土に呼び寄せ、岐阜の住居は打ち壊させる。
  • 2月3日 磯野員昌が叛いて出奔。その知行を津田信澄に与える?A
  • 2月23日 羽柴秀吉 播磨に侵攻。
  • 2月29日 安土城に相撲を興行。
  • 3月4日 長岡藤孝[細川]、惟住長秀[丹羽]らに惟任光秀[明智]を授け丹波に派兵。
  • 3月6日 近江 奥島山に放鷹。⇒ 8日 安土城。
  • 3月9日 越後 上杉謙信が春日山城で急死?B
  • 3月23日 申刻 入京し、二条第に入る。
  • 3月27日 羽柴秀吉に命じ播磨 三木城の兵糧攻めを開始。播磨 三木合戦が始まる。
  • 4月4日 織田信忠、信雄らを石山本願寺に派兵し攻める。
  • 4月7日 佐々長秋に命じ、神保長住を授け越中に派遣。
  • 4月9日 官位を辞退し顕職を嫡男 信忠に譲与されん事を奏聞。
  • 4月10日 滝川一益、惟任光秀らを丹波に派兵して荒木城を攻め落とす。
  • 4月22日 安土城に戻る。
  • 4月24日 信忠に命じ播磨出陣の兵を京都に招集、自らも27日出陣の準備をする。
  • 4月27日 入京する。
  • 4月 摂津 四天王寺に禁制を下す。
  • 5月1日 佐久間信盛の諫止により自らの播磨出陣は断念、信忠、信雄、信孝らを派兵。
  • 5月13日 豪雨のため再度自身の出陣を断念。
  • 5月26日 山城 柳芳軒に軒領を安堵。
  • 5月27日 安土城に戻る。
  • 6月10日 未刻 上洛、入京する。
  • 6月14日 祇園会を見物。ついで小姓衆10人を引き連れ放鷹。
  • 同日 近衛前久に山城 普賢寺の地を宛行う。
  • 6月16日 羽柴秀吉 入京し信長を伺候、播磨攻略の指示を仰ぐ。
  • 6月21日 安土城に戻る。
  • 6月26日 九鬼嘉隆に鉄甲船6艙を作らせる。嘉隆はこの鉄甲船で紀伊雑賀党の船を和泉谷の輪の海上で撃破。
  • 6月27日 信忠ら、別所長治の属城 神吉城[かんき]を攻め敗れる。
  • 7月8日 越中 二宮左衛門大夫に知行を安堵。
  • 7月18日 朝廷に白鳥、塩引を献上する。
  • 7月22日 太田道誉[資正]の音信に答え、関東出陣が遅延する旨を報ずる。
  • 8月5日 陸奥 南部利直の使者、鷹五疋を献上。
  • 8月15日 安土城にて相撲を興行。
  • 9月9日 再び安土城にて相撲を興行。
  • 9月23日 安土城を出立、勢田に泊まる。
  • 9月24日 辰刻 入京し、二条第に入る。
  • 9月27日 堺に新造中の鉄甲船を視察するため出京。⇒ 28日 若江 ⇒ 29日 天王寺 ⇒ 30日 堺にて近衛前久らと鉄甲船を視察。 ⇒ 10月1日 住吉 ⇒ 同日 帰京。
  • 10月3日 皇居にて天覧相撲を興行。
  • 10月5日 二条第にて相撲を興行
  • 10月6日 出京し、坂本より乗船し安土城に戻る。
  • 10月14日 近江 長光寺に放鷹。
  • 10月17日 摂津 有岡城[在岡城] 荒木村重が足利義昭、石山本願寺らと通じ毛利氏側に付く。荒木村重が謀反
  • 11月3日 上洛し、二条第に入る。
  • 同日 荒木村重を慰諭するが、村重は頑として応ぜず。使者として有岡城に赴いた秀吉の家臣 黒田官兵衛[孝高]が監禁され土牢に閉じ込められる?C
  • 11月6日 九鬼嘉隆 鉄船で毛利水軍を摂津 木津川口に撃破。石山本願寺孤立化に成功。
  • 11月9日 出京、山崎に陣を取る。
  • 11月14日 諸将 荒木村重の篭城する有岡城[在岡城]を攻める。
  • 11月15日 摂津 郡山に移陣 ⇒ 18日 惣持寺 ⇒ 24日 刀根山に陣取り、茨木城の中川清秀を誘降する。
  • 12月11日 古池田に移陣し諸将に各砦を護らせる。⇒ 21日 京都 ⇒ 25日 安土城。
 
天正7年
  • 1月5日 九鬼嘉隆 安土城に伺候、歳首を賀す。
  • 1月11日 津田宗及に安土城 天主閣[天守閣]を自ら案内し見物させる。
  • 2月18日 入京し、二条第に入る。
  • 2月21日 東山に放鷹。
  • 2月 大和 法隆寺に掟書を下して陣取り、寄宿などを免除。
  • 3月2日 賀茂山に放鷹。
  • 3月5日 京を発し、山崎に陣取る。⇒ 6日 道々で放鷹し郡山に着陣 ⇒ 7日 古池田に移陣 ⇒ 14日 摂津 多田に放鷹。
  • 3月28日 堺の南北馬座の商売を安堵。
  • 3月 摂津 名塩に禁制を下す。
  • 4月10日 播磨攻略中の羽柴秀吉の援軍として惟住長秀らを派遣。
  • 4月17日 陸奥の多賀谷重経が馬を献上。
  • 5月1日 京都に帰る。
  • 5月3日 安土城に戻る。
  • 5月11日 安土城の天主閣[天守閣]が竣工し移る。安土城が完成
  • 5月12日 能登 畠山氏の遺臣 長好連の音信に答え、来秋の出陣を約す。
  • 5月27日 安土の浄厳院で浄土宗と法華宗が宗論。信長が計略で法華宗を屈服させ、誓紙を出させるとともに関係者を処刑?@
  • 惟任光秀[これとう]が兵糧攻め中の丹波 八上城攻略の早期決着を焦り、母を人質として城主の波多野兄弟らを懐柔し安土に護送。
  • 惟任光秀の不手際に激怒。安土に送られた波多野兄弟らを安土慈恩寺の町外れで磔にして殺す。一方、八上城で人質となった光秀の母も敵方に磔にされ殺される
  • 織田信忠が安土城に伺候。
  • 6月18日 摂津 有岡城[在岡城] 荒木村重 攻略中の滝川一益、丹羽長秀などの諸将を労い鷹を進上。
  • 6月20日 入京したとの風聞あり。
  • 播磨 三木城を囲む羽柴秀吉の陣で与力の竹中半兵衛[重治]が病死したので、馬廻り衆を勤めている半兵衛の弟 竹中重隆を後任として派遣。
  • 先年、丹羽長秀に下賜した珠光茶碗を取り上げ、代わりに長船長光の鉋切の名刀[かんなぎり]を下賜する。
  • 6月 尾張 小松寺、遍照寺門前に禁制を下す。
  • 7月6日 安土城に相撲を興行。
  • 7月16日 徳川家康が馬を献上。
  • 信忠に命じ、不届きな行いを重ねたとして岐阜の井戸将元を成敗させる?A
  • 7月18日 出羽 大宝寺義興が馬と鷹を献上。
  • 7月25日 陸奥 遠野広郷[孫次郎]が白鷹を献上。大変気に入り秘蔵とした。
  • 出羽 仙北 前田利信が鷹を献上。
  • 7月26日 堀秀政に命じ使者と鷹匠たちを安土城案内させ、堀の家で饗応。
  • 8月6日 安土城に相撲を見物。
  • 8月9日 柴田勝家 加賀に侵攻。
  • 信忠を摂津に派兵。
  • 有岡城の荒木村重が妻子一族と城兵を捨て、密かに5-6人の兵で子の拠る尼崎城に逃亡。
  • 羽柴秀吉が備前 岡山城 宇喜多直家から降参の申し入れがあったので降参を認めた、朱印状を賜りたいと安土城に参上したが「無断で降参の許可を出すとは何事か」と激怒し、秀吉を播磨の陣に追い返す?B
  • 羽柴秀吉の囲む播磨三木城の支城[御着城、曾禰城、衣笠城]が共同作戦を行い、三木城に兵糧搬入を試みた。秀吉はこれらを撃破し作戦は失敗。これを賞し、更なる努力で三木城を落すよう叱咤激励し備前の宇喜多の事を赦免。
  • 毛利氏側であった備前 岡山城 宇喜多直家が離反して秀吉に降参を申し入れていたが、これを許し、戦わずして備前と美作が版図に
  • 徳川家康の嫡男 松平信康と母の築山殿の処刑を要求?C築山殿事件
  • 8月29日 徳川家康の正室 築山殿が小藪村で処刑される。次いで9月15日 嫡男 松平信康が二俣城で切腹。
  • 9月11日 入京する。
  • 同日 武蔵 北条氏照が鷹を献上。
  • 9月18日 二条第に摂家、清華の諸家を招き蹴鞠を興行。
  • 9月21日 有岡城[在岡城]へ出陣。⇒ 山崎。
  • 9月22日、23日 雨により山崎に滞留。
  • 昨年、北畠信雄に寝返った伊賀 下山甲斐の進言により、信雄は独断で伊賀に侵攻し国境の丸山城を修築し拠点とするが、伊賀勢に先制攻撃を受け大敗する。その報復として再度出兵するが敗れる。天正伊賀の乱。
  • 9月22日 北畠信雄[織田信雄]が無断で伊賀に出兵し敗れたことを叱責。
  • 9月24日 山崎 ⇒ 古池田 ⇒ 27日 有岡城[在岡城]に着陣し諸将を見舞う。⇒ 茨木 ⇒ 28日 京都
  • 10月9日 未明 出京し、安土城に戻る。
  • 10月24日 惟任光秀 安土城に伺候。丹波、丹後の平定を報告。
  • 11月3日 安土城を出立、勢田に泊まる。
  • 11月4日 入京する。
  • 11月5日 二条第を誠仁親王に献上する事を奏聞する。
  • 11月7日 東山に放鷹。
  • 11月9日、10日 一乗寺、修学寺山に放鷹。
  • 11月11日 参内する。
  • 11月16日 二条第より妙覚寺に移座。
  • 11月22日 誠仁親王 二条第に移徒。
  • 11月27日 豊後 大友義統に周防、長門を宛行う。
  • 12月10日 山崎に至り、12日まで宝積寺に滞留。石清水八幡宮縁起を見る。
  • 12月14日 帰京し、妙覚寺に入る。
  • 12月18日 二条第[御所] 誠仁親王を伺候。
  • 12月19日 安土城に戻る。
  • 有岡城に残され、捕虜になっていた荒木村重の妻子、一族、城兵を鏖殺[おうさつ]。
 
天正8年
  • 1月1日 摂州出陣のため将士の年頭参賀なし。
  • 1月17日 羽柴秀吉が攻囲する播磨 三木城の城主 別所長治と一族が切腹し、三木合戦が終わる。播磨平定
  • 1月19日 能登 長連竜に中国地方などの情勢を伝え、来秋の越中出陣を告げる。
  • 2月21日 未下刻 入京して、妙覚寺に入る。
  • 同日 朝廷に串柿を献上する。
  • 2月24日、25日 東山に放鷹する。
  • 2月25日 誠仁親王に茶を献上する。
  • 2月26日 妙覚寺より本能寺へ移座のため、京都所司代 村井貞勝に本能寺の修復を命じる。
  • 同日 大和 多武峯妙楽寺に寺領を安堵。
  • 2月27日 出京し、山崎に至る。
  • 2月29、30日 山崎西山に放鷹。
  • 3月1日 郡山に至る間、天神馬場、大田にて放鷹。
  • 同日 正親町天皇に願い、勅使を本願寺に下して同寺と和睦を図る。
  • 3月3日 伊丹城に移陣。
  • 3月7日 山崎に至る。
  • 3月8日 入京し、妙覚寺に寄宿。
  • 3月9日 本能寺にて相模 北条氏政の使者が鷹と馬を献上。
  • 3月10日 北条氏政の使者を引見し、太刀と折り紙を見る。氏政の使者より織田と北条の縁組と関八州の安堵を乞われる。
  • 同日 出京し、安土城に戻る。
  • 3月15日 近江 長命寺に移座し、19日まで奥之島に放鷹。
  • 3月16日 越中 屋代十郎左衛門尉などに知行を安堵。
  • 3月17日 本願寺に覚書を送り、石山篭城中の全員を赦免助命し加賀二郡の返還を約す。
  • 3月19日 安土城に戻る。
  • 3月20日 廻国僧 無辺を処刑。
  • 3月21日 北条氏政に虎皮などを贈る。
  • 3月25日 奥の島に至り28日まで放鷹。
  • 3月28日 安土城に戻る。
  • 3月 摂津 塚口、西宮に禁制を下す。
  • 閏3月1日 伊丹城の守将を月番とする。
  • 閏3月2日 再度 本願寺に覚書を送り、加賀二郡の返還を約す
  • 閏3月5日 本願寺顕如[光佐]が来る7月22日までに石山本願寺の退去を約し和睦が成立。11年に及ぶ石山合戦が終決
  • 閏3月10日 下野 宇都宮貞林が馬を献上。
  • 閏3月16日 宣教師オルガンティーノ[うるがんばてれん]らに安土城下の埋立地を与える。オルガンティーノはここにセミナリヨを建てる。
  • 4月9日 本願寺顕如 石山本願寺を退去。
  • 4月11日 近江 長光寺に放鷹。
  • 4月24日 近江 伊庭山に放鷹。
  • 5月3日 安土城内に信忠、信雄の屋敷を造らせる。
  • 5月5日 安土城で相撲を見物。
  • 5月7日 安土城内の惟住長秀、織田信澄の屋敷が竣工。
  • 5月17日 安土城で相撲を見物。
  • 5月26日 山城 石清水八幡宮を造営。
  • 6月1日 山城 鞍馬寺別当職を安堵。
  • 6月24日 出雲を与えるとし、毛利輝元の家臣 美作 祝山城の湯原春綱を招くが、春綱は応ぜず。
  • 6月26日 土佐 長宗我部元親、惟任光秀[これとう]の取次ぎで鷹、砂糖を献上。
  • 7月2日 勅命により本願寺顕如から太刀代銀子百枚を受け取る。これに対して黄金を贈り祝詞を表す。
  • 同日 池田恒興 荒木村重の支城 摂津 花隈城[華熊]を攻め落とす。村重は安芸の毛利氏を頼り逃亡?@
  • 7月14日 入京する。
  • 7月17日 本願寺教如[光寿]に起請文を送り光寿を赦免。来る8月10日までに石山本願寺の退去を命ずる?A
  • 7月25日 正親町天皇に薫物を下賜される。
  • 7月29日 朝廷に鮮魚を献上する。
  • 8月2日 丹波を惟任光秀に、丹後を長岡藤孝[細川]に宛行う。
  • 同日 本願寺教如[光寿]、石山本願寺を退去し紀伊雑賀に移る。
  • 同日 石山本願寺焼失。
  • 8月7日 山城 清水寺真乗坊の本願寺に味方するにより、真乗坊の坊舎・屋敷等を没収し、清水寺に寄進する。
  • 8月12日 近衛前久に頼り、九州 島津氏、大友氏の和平を図る。
  • 8月15日 出京し、大坂に至る。
  • 8月17日 未刻 入京する。
  • 同日 宿老の林通勝[秀貞]と安藤範俊[守就] 父子などを、過去の謀反を理由に追放?B
  • 8月26日 朝廷に初鮭、初雁を献上。
  • 8月28日 午刻 下向して安土城に戻る。
  • 8月 自筆の覚書を遣わし、石山本願寺攻略に比類なき戦功無しとして、本願寺攻めの大将 佐久間信盛、定栄父子を高野山に追放。
  • 同月 山城 天竜寺に寺領同国物集女の諸公事を直務させる。
  • 9月21日 紀伊 金剛峰寺に寺領大和国有智郡を安堵。
  • 9月26日 大和に指出を徴する。
  • 11月7日 近江 観音寺に寺領を安堵。
  • 同日 筒井順慶に大和を与え、郡山城を守らせる。大和の緒社寺の所領は安堵。
  • 11月13日 参議花山院家雅に新地分と地子銭を安堵。
  • 11月17日 柴田勝家 加賀一向一揆の首領の首級を安土城に送る。加賀一向一揆を鎮定
  • 11月27日 近江 日比野氏に陣夫銭を安堵。
  • 12月25日 土佐 長宗我部元親が伊予鶏を献上。これを謝す。
  • 12月27日 朝廷に鶴を献上。
  • 玄蘇、柳川調信らを朝鮮に派遣。
 
天正9年
  • 1月1日 諸国の大名小名、武将の年頭参賀を免除。馬廻り衆の出仕も雨のため中止。
  • 同日 安土城の北、松原町の西海端に馬場を築く。
  • 1月2日 安土町人に鷹野の雁、鶴を下賜する。
  • 1月3日 徳川家康が攻囲する高天神城に、甲斐 武田勝頼が赴援のため出陣、家康を援護すべく信忠に清洲城を出陣させる。
  • 1月9日 朝廷に鯨肉を献上。
  • 1月15日 安土城に三毬打[左義長 さぎちょう]を行う?@
  • 1月23日 京都の馬揃えの準備を惟任光秀[これとう]に命じる。
  • 1月25日 河内 安井定次に屋敷を安堵。
  • 同日 高天神城攻囲中の水野忠重に指示する。
  • 2月6日 正親町天皇に調馬の事を命ぜられる。
  • 2月20日 申下刻 入京し、本能寺に入る。
  • 2月23日 日本巡察使アレッサンドロ・バリニャーニ[ヴァリニアーノ]が黒人を連れて信長に拝謁する。黒人を気に入り「弥助」と名づけ家臣とする。
  • 2月24日 柴田勝家が上洛して伺候、越前、加賀の平定を報告。
  • 2月28日 皇居東門外にて正親町天皇観覧 馬揃えを興行
  • 2月29日 紀伊 熊野新宮神主堀内次郎に知行を安堵。
  • 佐々成政に越中を与える。
  • 3月1日 正親町天皇 信長を左大臣に任じようとする。9日 誠仁親王への譲位後、拝命することを奏請。
  • 3月5日 馬揃えを行う。
  • 同日 長岡藤孝[細川藤孝]に命じ、丹後の検地を行わせ、諸給人に指出による知行を与えた後、残りを藤孝の直轄領とする。
  • 3月10日 京より安土城に戻る。
  • 3月24日 佐々成政、神保長住に上杉景勝を討たせる。
  • 3月25日 矢部善七郎、猪子平助に山城 勝竜寺城を守らせる。
  • 3月28日 能登 七尾城を菅屋長瀬に守らせる。
  • 3月 本願寺に参詣する一向宗徒に対する不法行為を禁ずる。
  • 4月10日 小姓衆5-6人を連れて竹生島に参詣し日帰りで帰城。留守中に無断で安土城を抜け出していた女どもを皆殺し。
  • 4月13日 長谷川秀一、野々村三十郎に知行を宛行う。
  • 4月16日 溝口定勝に所領を宛行う。
  • 4月20日 森乱法師成利[森蘭丸 森成利]に知行500石を与える。
  • 4月21日 安土城に相撲を見物。
  • 4月25日 溝口定勝が鷹を献上。
  • 4月 堀秀政に命じ、和泉に指出を徴する。
  • 6月5日 相模 北条氏政が馬を献上、滝川一益がこれを取り次ぐ。
  • 6月15日 筒井順慶に大和 吐出村を宛行う。
  • 6月25日 羽柴秀吉 因幡 吉川経家の鳥取城を包囲、兵糧攻めを行う。鳥取の渇え殺し
  • 6月28日 朝廷に真桑瓜を献上。
  • 7月11日 柴田勝家が黄鷹と切石を献上。
  • 7月15日 盂蘭盆会[うらぼんえ]に帰国を控えた日本巡察使バリニャーニ[ヴァリニアーノ]らを安土城に迎えた。城下の灯火を全て消させ、天主閣[天守閣]や?ハ見寺に提灯をつるして火を灯し、堀には船を浮かべ馬廻衆に松明を持たせた。この世の物とは思えぬ程綺麗な情景であった。
  • 7月17日 信忠に秘蔵の駿馬を与える。
  • 7月20日 出羽 大和城の大宝寺義興が鷹と馬を献上。
  • 7月21日 出羽 秋田愛季が黄鷹と生白鳥を献上。
  • 7月21日 28日 正親町天皇より信忠との仲直りを賞され薫物を下賜される。
  • 8月1日 安土城にて馬揃えを行う。
  • 8月6日 陸奥 芦名盛隆が馬を献上。
  • 8月13日 因幡 鳥取城に毛利輝元が赴援すると風説があり自ら出陣の支度をし、長岡藤孝らに準備を命ずる。
  • 8月17日 畳刺 伊阿弥宗珍に天下一の称号を与える。
  • 同日 紀伊 金剛峯寺が摂津 伊丹の牢人を匿ったので、高野聖数百人を誅する。
  • 8月20日 因幡 鳥取城攻囲中の羽柴秀吉に摂津平定後に出陣すると告げる。
  • 9月3日 織田信雄、信包に命じて伊賀に出兵。第二次天正伊賀の乱
  • 9月4日 長岡藤孝に丹後 一色義有と矢野藤一郎知行の検地増分を宛行う。
  • 9月7日 亀井茲矩[これのり]の因幡での戦功を賞し、出雲を宛行う。
  • 9月8日 万見仙千代らに知行を宛行い、狩野永徳と岡部又右衛門らの職人頭に小袖を与える。
  • 9月11日 織田信雄、信包ら伊賀を平定する。伊賀平定
  • 9月 菅屋長瀬に命じ、能登、越中の諸城を毀す。
  • 10月2日 前田利家に能登を宛行う。
  • 10月5日 祝弥三郎らに知行を宛行う。
  • 10月7日 近江 愛智川に放鷹後、普請中のキリスト教会堂を視察。
  • 10月9日 伊賀巡国のため安土城を出立 ⇒ 近江 飯道寺に宿泊 ⇒ 10日 ⇒ 一宮に着陣、国見山に登山。11日 雨により滞留。
  • 10月13日 安土城に戻る。
  • 10月17日 近江 長光寺に放鷹。
  • 10月25日 羽柴秀吉 因幡 鳥取城を陥れる。吉川経家が切腹し開城。因幡平定
  • 10月27日 近江 飯道寺に寺領を安堵。
  • 10月29日 下野 皆川広照に馬の返礼をし虎皮などを贈る。
  • 11月17日 羽柴秀吉 淡路を平定
  • 11月24日 甲斐 武田勝頼が父 信玄の養子 於坊[坊丸]を還してきたので、元服させ織田源三郎信房[勝長]とし犬山城主とする?A?B坊丸が還る
  • 12月7日 大和 畑荘を興福寺大乗院に還附して、守護不入とする。
  • 12月18日 興福寺大乗院の尋憲に炭を贈られ、これを謝す。
  • 同日 甲州出陣に備え、徳川家康の属城 遠江 牧野城に兵糧米を送り込む。
  • 12月22日 羽柴秀吉 安土城に伺候し歳暮を賀す。因幡、淡路平定を賞し名物茶器を与える。
 
天正10年
  • 1月1日 将士、安土城に歳首を賀し、行幸の間を見物。
  • 年賀の挨拶には大名小名に拘らず、各自お祝い銭は百文までとのお達しを出す?@
  • 正月参賀の賑わいで百々橋から?ハ見寺へ上る石垣が人の重さで崩れ死者が出る。
  • 1月6日 朝廷に鯨肉を献上。
  • 1月7日 廷臣に鯨肉を分ける。
  • 1月10日 大嶋新八郎に知行を宛行う。
  • 1月15日 安土城に三毬打[左義長 さぎちょう]?A、馬揃えを行う。
  • 1月16日 佐久間信盛の子 定栄を赦免し信忠に仕えさせる。
  • 1月21日 安土城に備前 宇喜多秀家の老臣を引見、宇喜多秀家の家督相続を認める。
  • 1月22日 朝廷に鷹野の鶴を献上。
  • 1月25日 大神宮の正遷宮料として銭3千貫文を寄進。
  • 1月28日 伊東マンショ、千々石ミゲル[ちぢわ]、中浦ジュリアン、原マルチノらの天正遣欧少年使節が長崎からローマに出航。日本巡察使アレッサンドロ・バリニャーノにはローマ教皇グレゴリウス13世への贈り物 狩野永徳の安土城屏風絵を託した?B
  • 1月29日 安土城で本年の閏月の有無について、濃尾の暦師 賀茂在政と陰陽頭 土御門久脩を対決させる。
  • 2月1日 信濃 木曾義昌が信長に寝返り、甲斐 武田勝頼討伐の大動員令を発する?C武田征伐
  • 2月3日 甲斐侵攻の進路を定め、出兵の条規を下す。
  • 2月12日 信忠を先鋒として信長の命を受けた武田征伐軍はぞくぞくと甲斐へ出陣?D
  • 2月28日 山城 妙心寺に法度を犯す者を寺法により処罰させる。
  • 3月2日 信忠 信濃 高遠城を攻め落とす。武田勝頼の異母弟 仁科五郎盛信が討ち死に
  • 3月5日 甲斐に向けて安土城を出陣。⇒ 柏原菩提院 ⇒ 6日 岐阜城 ⇒ 8日 犬山城 ⇒ 9日 美濃 金山城[森蘭丸生誕地] ⇒ 10日 美濃 高野城 ⇒ 11日 美濃 岩村城
  • 3月10日 正親町天皇 諸社寺に信長の戦捷を祈らせる?E
  • 3月11日 滝川一益 武田勝頼 信勝 父子を甲斐田野に囲む。天目山の戦い。
  • 同日 武田勝頼が討ち取られ、甲斐 武田氏を滅ぼす
  • 3月17日 岩村 ⇒ 禰羽根[ねばね] ⇒ 14日 浪合[なみあい]で武田勝頼 信勝 父子の首実験を行う。⇒ 15日 飯田。
  • 3月15日 飯田で武田勝頼 父子の首を梟した[きょうした。掛け晒した]。
  • 3月17日 飯田 ⇒ 大嶋 ⇒ 飯島 ⇒ 18日 高遠城 ⇒ 19日 上諏訪の法花寺[4月2日まで留まる]。
  • 3月20日 木曾義昌を引見、馬を進上される。
  • 同日 晩 穴山梅雪[穴山信君]を引見、馬や脇指を進上される。穴山梅雪の本領を安堵?F
  • 3月21日 相模 北条氏政に馬、近江酒を進上される。
  • 3月22日 正親町天皇より勅使が下り、信忠共々、宸翰を下賜される。
  • 同日 武田勝頼 父子と武田信豊の首級を京都に梟す?G
  • 3月23日 滝川一益に上野と信濃二郡[小県、佐久]を与える。
  • 3月24日 菅屋長瀬に命じ、従軍の将兵の名簿を作成し兵糧を分配する。
  • 3月26日 高遠城を攻略するなど信忠の働きを賞し、褒美を与え、天下の支配権も与える。
  • 同日 相模 北条氏政に飼馬料として米千俵を進上される。
  • 3月27日 木曾義昌に信濃 筑摩、安雲を与え、木曾口を安堵。
  • 3月29日 甲斐を河尻秀隆に与える[甲斐領国内の穴山梅雪の領土は安堵]。
  • 同日 駿河を徳川家康に与える。
  • 3月 甲斐、信濃の掟を下す。
  • 同月 甲斐、信濃の各所に禁制を下す。
  • 4月2日 上諏訪の法花寺 ⇒ 甲斐台原
  • 同日 北条氏政より武蔵野の雉[きじ]を進上される。
  • 4月3日 甲府に移陣。
  • 富士山を見物した後、武田勝頼の新府城の焼け跡を検分し、信忠が武田氏の旧居館 躑躅ヶ崎館の跡に建てた仮御殿で宿泊。
  • 同日 北条氏政 進上の馬と鷹が気に入らず返上し、絶交。?H
  • 同日 信忠 六角次郎[六角義弼]を匿っていた恵林寺を焼き払う?I?J。快川紹喜[かいせんじょうき]をはじめ350名もの僧たちが焼き殺される。快川紹喜の辞世の句「心頭滅却すれば火も自ら涼し」はあまりにも有名。
  • 4月8日 常陸 太田道誉、梶原源太を直参とする。
  • 4月10日 甲府を出立、帰途につく。安土城への帰路、東海道を遊覧するが、道々にて徳川家康の心尽くしの接待を受け感銘する。
  • 4月21日 安土城に凱旋する。
  • 4月25日 朝廷 信長を太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれかに推挙するため女官を安土に下向させることを決定。
  • 4月 甲斐、信濃両国の諸所に禁制を下す。
  • 5月4日 朝廷の勅使が安土に下向し征夷大将軍の任官と幕府開設をすすめる。信長即答せず。
  • 5月4日 神戸信孝[織田信孝]に四国討伐を命じ、讃岐を与えるとし、三好康長には阿波を与えることを約す。
  • 5月8日 羽柴秀吉 清水宗治の拠る備中 高松城を水攻めにする。
  • 5月14日 信忠が安土城に伺候。
  • 5月15日 徳川家康と穴山梅雪を安土城に接待する。明智光秀に家康らのご馳走役を命じる。この時、光秀が接待で粗相をしたとも言われる。この日か、次の日、羽柴秀吉より備中高松城の陣への援軍要請が届く。
  • 5月17日 惟任光秀[これとう]に中国地方への出陣を命じる。光秀 近江坂本に帰城。
  • 5月19日 徳川家康と安土城に幸若舞「敦盛」を見る。舞の出来が悪く激怒。備中高松城の堤防が完成。
  • 5月21日 徳川家康、後に毛利攻めに加わることを約し、京都、奈良、大坂、堺を見物するため安土城を出立。
  • 5月26日 惟任光秀 近江坂本城より丹波亀山城に移動。
  • 5月27日 光秀 愛宕神社に参拝し、連続3回の凶くじを引く。
  • 5月28日 光秀 愛宕神社にて連歌の会を催し、「時は今[土岐は今]、雨[天]がした[下]しる五月かな」の句を詠み、丹波 亀山城に帰る。
  • 5月29日 申刻 小姓衆らを引き連れ上洛、本能寺に入る
  • 6月1日 森蘭丸より軍備を整える丹波 亀山城 惟任光秀の元に飛脚があり、「上様より中国出陣の人馬の様子をご覧に入れよとの下知あり」と光秀に申し渡す。多数の公家衆や各地の諸将 豪商たちが本能寺の信長の元に伺候、入れ替わり立ち代り上洛と武田氏討伐を賀す。信長の御前で名人 日海[初代 本因坊算砂]とその挑戦者「利玄」が碁の対局を行い、信長自身も夜遅くまで碁に興じる
  • 6月2日 早暁 本能寺の変。家臣 惟任光秀[明智光秀]の謀反にあい、本能寺の炎に焼け落ちる。
  • 10月9日 従一位太政大臣に叙任される。
 
大正6年
  • 11月17日 正一位太政大臣に叙任される?@


    おまけ : 新説 織田信長は本能寺の変で死んでいなかった!! 400年の時を越え、真実が今明らかに。
    織田信長は生きていた!? 信長本人のインタビューあり。いやこれマジです。
    信長 曰く 「本能寺はマジやばかった。やばかったけど死んではいない。」
 
 
 

補足、備考

▼天文3年[1534年]
?@厳密には四男だったらしい。二男三男は生後まもなく死んでいる。信時が兄だったら五男の可能性も。何れにせよ諸説紛々。
?A織田彦五郎[信友]は織田達勝の嫡男で清洲城 織田本家当主。
?B清洲三奉行は信秀の他、織田因幡守、織田藤左衛門
尾張の守護は斯波義統[よしむね]で清洲城にいた。

▼天文10年[1541年]
?@銭7万疋[7百貫文]は約7000千万円。

▼天文11年[1542年]
?@第一次 小豆坂の合戦: 駿河 今川義元と松平氏が三河に攻め寄せてきたので、三河 安祥城にいた父 織田信秀が小豆坂へ出兵。

▼天文15年[1546年]
?@一年後、天文13年[1544年]2月 次期 室町幕府13代将軍 足利義輝が管領 細川晴元に命じ、国友村の鉄砲鍛冶 善兵衛、藤九左衛門らに鉄砲製作を行わせた。後に近江 国友村、紀伊 根来、摂津 堺が鉄砲の三大生産地となる。
?A40万疋[4000貫文]は約4億円。

▼天文16年[1547年]
?@三州吉良大浜は今川領[松平領]との境で当時織田氏と友好関係にあった水野氏の領地。水野信元は松平氏の親類にも拘らず織田方に寝返っていた。三州とは三河のこと。

▼天文17年[1548年]
?@美濃との和睦で後顧の憂いを絶った信秀は三河の岡崎城を攻めるべく侵攻したが、今川の援軍[太原雪斎が大将]に阻まれ失敗。

▼天文18年[1549年]
?@熱田八ヶ村に下した制札は信長文書の初見である。
フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着しキリスト教が伝来

▼天文19年[1550年]
?@判形: はんぎょう。

▼天文20年[1551年]
?@織田信秀 享年41

▼天文22年[1553年]
?@平手政秀 享年62
?A禰宜は神職の一つで宮司、神主に次ぐ。

▼天文23年[1554年]
?@書状や判物を多く発行するようになり戦国大名として成長しだした事を窺わせるが、これに上総介信長と署名するようになる。

▼弘治元年[1555年]
?@これより先、尾張守護 斯波義統が信友に殺されたが、義統を討った謀反人として主家の信友を討った。
?A信長が信光を謀殺したのではないかと言われている。

▼弘治2年[1556年]
?@斎藤道三 享年63。道三を殺した義龍はその場で出家し范可[はんか]と号す。昔の中国で親を殺した范可の故事に依拠。
?A信長公記では信長が斯波義銀を崇敬して尾張を譲り清洲城を進呈したとあるが実際は世間を欺くデモンストレーションで、義銀は傀儡でしかなかった。
?B守護の序列について話し合うつもりだった斯波義銀、吉良義昭両軍は一町五段[160m]離れて対峙したが、双方とも足利一門の格式を主張し席次について揉め、矜持から互いに床机から10歩程度中央に進んだだけで散会となったと言う。
?C信長の弟の信行には沢山名前がある。信勝、達成、勘十郎など。
?D生駒吉乃[いこまきつの 29才]は奇妙丸[信忠]、茶筅丸[信雄]、徳姫を産んだ。6才年上で、信長が最も愛した女性と言われているが若くして死ぬ。享年39
?E兄 織田信広は最終的に信長に赦免され信長家臣となり、天正2年[1574年]の最後の伊勢長島一向一揆攻めで討ち死にした。

▼弘治3年[1557年]
?@弟 織田信行の殺害は信長公記などでは永禄元年と記載されている。
?A守護使不入: 犯罪者追跡や徴税のために、守護やその役人が不入地[設定された特定の公領や荘園など]に立ち入る事を禁じた。元々は室町幕府の権限だったが戦国大名が独自に付与するようになった。

▼永禄元年[1558年]
?@織田信清[十郎左衛門]は織田信康の嫡男、つまり信長の従兄弟。信秀死後は疎遠になっており、美濃に接する犬山城で独自の勢力を持っていたが、信長の妹を嫁にもらい信長に仕えるようになった。

▼永禄2年[1559年]
?@織田信清[十郎左衛門]は永禄5年[1562年]に信長に反旗を翻すので、この時点では尾張完全統一ではなかった。
?A斯波義銀は尾張守護 斯波義統の嫡男。

▼永禄3年[1560年]
?@実はこの時、信長方の砦を攻めていたのは、後に信長と堅く友好関係を結び、共に生死を賭けて戦い戦国時代を生き抜いていくことになる徳川家康であった。徳川家康は朱色の武具を付け、今川方の先陣を務めていた。
?Aこの時点で信長の兵は騎馬6騎、雑兵200。続々と集結している様ではあるが、義元の軍勢2万5千にははるか遠く及ばない。ただ、義元の兵は鳴海城や大高城に分散して展開していたらしいので、信長と桶狭間でぶつかった義元の本隊は推定5千位だったと言われている。
?B信長は雨の中、今川義元を奇襲したと説明する解説書も多いが、信長公記では、にわか雨が止み空が晴れたのを見て突撃したとある。義元の軍勢は信長の急襲に恐れをなし、どっと逃げ崩れた。乱戦の中、信長は輿に乗っているであろう義元を集中攻撃させ、服部春安が義元に切りかかり、ついに毛利良勝が義元に組み付き首級を挙げた。逃げた義元の軍勢も田楽狭間の深田にはまり、もがいているところを信長の血気盛んな若武者達に矢で射られ、次々に首を取られていったと言う。
先にも言ったとおり、田楽狭間の義元本隊の他に、2万は鳴海城や大高城に分散して展開していたはずなので、やろうと思えば信長の本隊を挟撃できたはずである。出来なかったのはやはりあっけなく義元が討たれてしまって指揮系統が麻痺し戦意喪失したのと、信長の軍勢が善照寺砦に大挙して待ち構えているのではないかという疑心暗鬼がそうさせたのかもしれない。実は信長が善照寺砦に兵1千を残し、旗、指物もその場に残したのは本隊がそこに留まっているように見せた作戦だったからである。義元軍も、まさか信長の軍勢が3千そこそことは夢にも思わなかったのだろう。こうして織田信長は海道一の弓取りと呼ばれた名将・今川義元を破り、天下統一への一歩を踏み出すのであった。
?C合戦の場所は田楽狭間だが、なぜか少し離れた桶狭間の方が有名になってしまった。
?D今川義元 享年42
義元所持の刀 左文字に織田尾張守信長と刻字。

▼永禄4年[1561年]
?@斎藤義龍が病死。享年35
?A2年前の不祥事で出仕不要とされていた前田利家だったが、森部の合戦で戦功を上げ帰参を許される。

▼永禄5年[1562年]
?@織徳同盟[しょくとくどうめい]、尾三同盟[びさんどうめい]とも言う。

▼永禄6年[1563年]
7月6日「日本史」著者であるポルトガル人宣教師 ルイス・フロイスが肥前 横瀬裏に上陸。31才だった。
?@清洲城から小牧山城に移城したのは永禄6〜7年頃しかわかっていない。

▼永禄7年[1564年]
?@竹中重治はすぐに稲葉山城を斎藤龍興に返還し、自身は主君への謀反人だとして隠棲。後に黒田官兵衛と並び、豊臣秀吉の名軍師となる。
この年、徳川家康が三河を統一する。
?A織田信清[十郎左衛門]は甲斐に逃亡し、武田氏に仕え犬山鉄斎と称した。
?B上杉輝虎[上杉謙信]に盛んに手紙を送るようになる。
?C堂洞城は岸勘解由左衛門[きしかげゆ]を内応させるため金森長近が派遣されたが失敗。

▼永禄8年[1565年]
?@信長は美濃、北伊勢を安心して攻めるため武田との同盟を急いでいた。そこで悲願の政略結婚を実現させるべく、姪の遠山婦人を勝頼に嫁がせた。ところが遠山婦人は信勝を生むとすぐに死んでしまった。[遠山婦人の母は信長の妹。つまり信長は姪を養女にしていた。]
?@遠山婦人の産んだ子 武田信勝は父の勝頼と共に天目山の戦いで討ち死にし武田氏は滅亡した。

▼永禄9年[1566年]
?@生駒吉乃[いこまきつの] 享年39。

▼永禄10年[1567年]
?@美濃三人衆 : 氏家卜全、稲葉一鉄、安藤守就
?A稲葉山は金華山とした。
?Aこの時点で小牧山城は廃城となるが、天正12年[1584年]の小牧・長久手の戦いで徳川家康が陣を置き、対 豊臣秀吉戦で家康の勝利に貢献する。
?B正しくは信長 天下布武 朱印状の初見。
?C信長が甲斐の武田勝頼に嫁がせた養子[姪]の遠山婦人が死んでしまい、武田との同盟関係が薄れるのに危機感を感じて嫡男 信忠と松姫[武田信玄 6女]の婚約を成立させた。しかし三方が原の戦いの後、婚約解消させられる。

▼永禄11年[1568年]
?@長野工藤氏は北畠氏の家臣
?A上洛の途中、六角義賢[承禎]がこれに抵抗。信長が支城 箕作城[みつくりじょう]を攻略すると、本城の観音寺城とその同じく支城である和田山城では一戦も交える事無く全員が敵前逃亡、六角義賢[承禎、佐々木]も観音寺城を棄てて伊賀に敗走した。
?B銭1万疋[100貫文]は約1000万円
?C六角義賢[承禎]は信長に抵抗する過程で、信長に寝返った家臣の八尾城主 小倉実澄[右京亮]を蒲生定秀に攻め滅ぼさせる。その妻子は岐阜城の信長に助けを求めるが、この人が信長の側室となるお鍋の方[興雲院 きょううんいん]である。お鍋の方を側室とした時期は不明。岐阜城の信長に助けを求めた時なので年末あたりだろうか?
?D信長が関所を撤廃する前、各地を支配する大名、公家、領主、寺社などは自領に独自の関所を設けて、人や物資に関銭[通行税]を課していた。例えば京都大坂間にはなんと600以上もの関所が乱立し、その一つを通るたびに関銭を徴収される事になる。これでは経済など発展するわけが無かった。関所を撤廃した信長に対して、領民から拍手喝采、賞賛の嵐が吹き荒れたのは間違いのない事だろう。

▼永禄12年[1569年]
?@ルイス・フロイスを引見している最中、雑兵が好奇心で工事現場を見に来た女性の被り物を捲った所、信長は激怒しこの雑兵の首を刎ねた。
?A稲葉貞通は美濃三人衆の一人、稲葉一鉄[良通]の嫡男。
?B地子銭[じしせん]は宅地税の一種。

▼元亀元年[1570年]
?@誠仁親王[さねひとしんのう、陽光院]は正親町天皇の第五皇子。誠仁親王の子である邦慶親王は織田信長の、智仁親王は羽柴秀吉の猶子になった。
?A信長は朝倉義景に上洛を強要したが義景が上洛を拒否したため、信長に強く反抗的な若狭守護 武田元明の被官 武藤氏討伐と言う名目で越前を攻略する事になった。
?B長政寝返りの際、浅井のかつての敵 六角承禎[佐々木氏]も浅井久政、長政父子を支援した。
?C金ヶ崎の退き口の殿軍の大将は木下藤吉郎。
?D近江朽木谷の領主 朽木元綱を説得して信長の朽木越えを助けたのは松永久秀。
?E杉谷善住坊: 近江の国に善住坊ありと知られた鉄砲の名手。飛ぶ鳥をも射落とすと言われていた。その善住坊が鉄砲4挺で狙撃しても、かすりもしなかったという事は信長は相当に運の強い男である。
ニェッキ・ソルド・オルガンチーノ[うるがんばてれん、宇流加武]、布教長フランシスコ・カブラルが来日。
?F若狭 武田氏
武田信豊[若狭守護]
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武田義統[よしずみ 若狭守護] - 武田信方[若狭武田氏の軍事力を掌握、朝倉と結んで信長に抵抗]
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武田元明[若狭守護。朝倉氏により一乗谷朝倉館に軟禁され、若狭守護の地位は名ばかりとなる。朝倉氏が滅亡して、さらに本能寺の変後、若狭守護への返咲きを目指し明智光秀に与するが、丹羽長秀と対立し敗れる。若狭 武田氏の滅亡。]
?G本願寺顕如[光佐]の姉は武田信玄の正室、つまり顕如は信玄の義理の弟。
?H森可成は森蘭丸[森成利]の父。

▼元亀2年[1571年]
?@過書: かしょ、関所通行の許可証
?A比叡山延暦寺は浅井氏、朝倉氏、武田信玄などと誼を通じていた。
?B足利義昭は毛利元就にも信長打倒の檄を飛ばしていたが、信長の実力を認めていた元就は信長と友好関係を維持し、義昭の構築しようとしていた信長包囲網には加わろうとはしなかった。

▼元亀3年[1572年]
?@信長が度々上洛して来るのに邸が無いのは如何な物かと、足利義昭が正親町天皇に邸の建築を奏請した所、許可された。信長は義昭の余計なお世話を何度も辞退したらしいが、終いに渋々好意を受け入れた。気に入らない邸だったから京都信長邸は竣工してもあまり利用されることが無かった様だ。普請の様子は信長公記に書かれており、着工から竣工までお祭り騒ぎだったらしい。子供達を美しく着飾らせて、笛や小太鼓を鳴らせ、工事の人足達は輿に乗って調子よく仕事をした。見物の人々は身分に関係なく手折った花を手に持ち、衣服の薫香が辺りに充満しおよそ工事現場とは思えない様子だった。だから、工事が一向に進まなかった様だ。
?A三好義継は三好長慶の養子
?B昭高は信長の妹を妻とし、信長の支援を得て家臣の遊佐信教を殺そうとしたが、実質上の遊佐信教の傀儡だった畠山昭高[政頼]は、次の年に逆に信教に殺された。当然これに怒った信長に高屋城を攻められ信教は殺された。
?C安見新七郎は安見宗房、安見直政とも呼ばれた。河内国守護代
?D清玉上人[せいぎょくしょうにん、玉誉清玉]は本能寺の変後、真っ先に駆けつけ信長と信忠の遺骨を持ち帰り阿弥陀寺に葬ったという。
?E勧進: 堂塔、仏像などの建立、修理のため、人々に勧めて寄付を募ること。

▼元亀4年[〜1573年7月] 天正元年[1573年7月〜]
?@将軍足利義昭が朝倉義景 浅井長政 武田信玄 本願寺 三好義継 松永久秀らと同盟を結び、信長に対して挙兵するものの、正親町天皇の勅命により和解。しかし3ヵ月後に再び挙兵し南山城 槇島城に拠るが、信長は義昭を捕らえ河内若江城に追放。
?A武田信玄 享年53
?B地子銭[じしせん]とは田・畑・屋敷などに課した雑税で、米を納める場合は地子米。
?C永禄13年[1570年]に改元問題が持ち上がった際、信長は「天正」を推した。だが、信長とすでに関係が悪化していた将軍足利義昭はささやかな抵抗として天正を斥け「元亀」を選んだ。信長は元亀3年[1572年]に再度 義昭に天正に改元せよと申し渡したが費用問題なとで斥けている。信長は義昭を追放すると直ちに正親町天皇に改元を奏請して認められた。自分を中心とする新たな時代、まさに「天正」は信長を象徴する年号なのである。
?D斎藤竜興は刀根坂の戦いで討ち死に。
?E朝倉義景 享年41
?F朝倉氏滅亡後、朝倉氏のもう一つの領地である若狭の支配は丹羽長秀に任された。
?G勢州一揆とは伊勢の一向一揆の事。
?H廻船: 港から港へ旅客や貨物を運んで回る船。

▼天正2年[1574年]
?@蘭奢待は朝廷の許可が無いと切り取ることが出来ない。今まで切り取ったのは時の権力者 足利義満、義教、義政、織田信長、明治天皇のみ。信長は蘭奢待の切り取りを朝廷に申し出て自分の権力を試した。切り取り奉行は堺代官を勤めた松井友閑。
?A遠州は遠江の事。

▼天正3年[1575年]
?@今川氏真は信長に桶狭間の戦いで討ち取られた今川義元の嫡男。
?A論功行賞により越前8郡は柴田勝家に与えられる。府中三人衆は越前を治める司令官である柴田勝家の与力[目付け役、監督]を務めた。
?B信長に和睦を申し入れた本願寺顕如光佐だったが、翌年には雑賀衆、根来衆の紀州勢や毛利氏の支援を得て再度反旗を翻し最後の決戦に臨む。
?C当初、岩村城の全員を赦免し助命するとしていたがこれは謀で、開城後 城兵は一人残さず殺された。信長の叔母 おつやの方が逆さ磔の刑になった経緯は48才[天正9年]を参照。
?D岩村城は長篠・設楽原の合戦直後の5月下旬から信忠軍に包囲されていた。信忠はこの功績により天皇の勅諚を賜り、秋田城介[あきたじょうのすけ]に叙任される。 ?Eその後、岩村城には河尻秀隆が入り、後には森蘭丸も城主を勤めている。

▼天正4年[1576年]
?@岡部又右衛門以言は熱田神宮の宮大工だった。
?A築城を開始すると、せっかちな信長は早くも一月半後には安土城に移城している。
?B安土城や岐阜城は天守閣と言わず天主閣と言う。
?C安宅信康は安宅冬康の嫡男で淡路水軍の総指揮官。元亀3年[1572年]、石山本願寺から信長に寝返り臣下となり、織田水軍の一員として木津浦の海戦などで毛利水軍と戦う。
?D児玉就英[こだまなりひで]は毛利輝元配下 毛利水軍の総司令官で木津浦の海戦[木津川口の戦い]の毛利方の総大将。児玉就方[こだまなりかた]の嫡男。他の毛利軍の海将は小早川隆景の水軍 乃美宗勝[のみむねかつ]、村上水軍の村上武吉。

▼天正5年[1577年]
?@太田源三太夫が頭目を務める雑賀三組は三搦[みからみ]とも呼ばれ、鈴木孫一[雑賀孫一]が率いる一大勢力 雑賀衆と抗争を繰り返していた。信長は雑賀衆を叩く為、雑賀三組[三搦]の太田源三太夫を懐柔した。
?A出羽の秋田愛季[安東愛季 ちかすえ]は事有るごとに鷹や虎皮などの贈り物をし信長と誼を通じようとした。信長もこれに良く応えている。
?B祖父江秀重の次男 孫丸は信長の小姓。本能寺の変で討ち死に。
?C上杉謙信が能登 七尾城を囲み、信長はかねてから誼を通じていた七尾城主 畠山氏の家臣 長続連の出陣要請を受け能登出兵を決断。能登出兵の際、羽柴秀吉は柴田勝家と意見が対立し、信長の許可無しに戦線を離脱するという、下手をすれば首を刎ねられかねない失態を演じる。当然のごとく信長は激怒するが、その怒りが後の秀吉による中国地方攻略快進撃の原動力となる。後が無くなった秀吉の一心不乱の中国攻めは凄まじいの一言。
?D信長実筆感状として確定されている唯一のもの。

▼天正6年[1578年]
?@暇さえあれば放鷹[ほうよう、鷹狩]に出かける。
?A津田信澄は信長の実弟 織田信行[勘十郎]の子。正室は明智光秀の娘。
?B上杉謙信 享年49
?C黒田官兵衛は一年後に救出されたが劣悪な環境の土牢に閉じ込められていたため足が不自由になってしまった。信長は官兵衛が戻ってこないのを謀反だと疑い、人質として預かっていた官兵衛の嫡男 黒田長政を殺すよう、羽柴秀吉に命じる。だが秀吉は官兵衛が裏切るはずがないとして、密かに信長の命に背き官兵衛の帰りを待つ。後に秀吉の名軍師として秀吉を天下人に押上げる。

▼天正7年[1579年]
?@事実は法華宗が優勢だったらしいが、以前から挑戦的な態度をとり続けていた法華宗を信長が事に乗じて弾圧する形となった。法華宗は負けましたと書かされ天下の笑い者となり、関係者は悉く処刑された。
?A井戸将元は文書を偽造したり、ふらふらと他家を渡り歩き常に安土には居らず、また安土に妻子を呼び寄せなかった。
?B備前 宇喜多直家の降参を取り付け、意気揚々と安土城に参上した秀吉だったが、ここで信長に「わしの許可無しで、おまえは何をしているのか? さっさと播磨に帰れ」とあり得ない事を言われる。毛利氏との激突が避けられなく、喉から手が出るほど欲しかったであろう備前と美作。通常の武将なら喜んで降参を受け入れ、秀吉を賞賛するのだが。この専制君主ぶりとプライドの高さは異常である。やはり信長は常人ではない。
?C築山殿[つきやまどの]と信康が甲斐 武田勝頼と誼を通じていると、信康に嫁いだ信長の娘 五徳姫から情報があった。その他、築山殿と唐人医師減敬の密通や築山殿の信長への讒言など「信長の十二ヶ条」として家康に譴責状を突き付けている。

▼天正8年[1580年]
?@荒木村重は摂津 花隈城から逃亡し毛利氏の援助で尾道に潜伏した。剃髪して筆庵道薫と号し、生涯 茶の湯に生きた。
?A本願寺教如[光寿]は顕如の息子。教如は信長との徹底抗戦を主張、石山本願寺退去を巡って父 顕如と対立。
?B林通勝は24年も前の稲生の合戦の時[弘治2年 1556年]、弟 織田信行[勘十郎]に付いた事を譴責された。

▼天正9年[1581年]
?A信長 五男 於坊[おぼう 坊丸 織田源三郎信房または甲斐での名前は織田勝長]は信長の末子で、甲斐と美濃、尾張が国境を接する要害の地 遠山を支配する岩村城主 遠山内匠助景任に養子に出されていた。遠山景任[かげとう]は病弱で若くして死に、於坊も幼かったので岩村城主は信長の叔母「おつやの方」になったのだが、この岩村城が武田配下の秋山信友に攻められ、おつやの方は秋山信友の妻となり、於坊は甲斐に送られ武田信玄の人質となった。その織田源三郎信房[勝長]が還された。
?Bおつやの方は織田信定[信秀の父=信長の祖父]の娘で、織田信長の叔母で遠山景任に輿入れした。信長を裏切ったことで信長の逆鱗に触れ、天正3年[1575年]の長篠・設楽が原の戦いの後 信忠に岩村城を攻めさせ秋山信友とおつやの方は長良川で逆さ磔の刑で処刑された。

▼天正10年[1582年]
?@100文は1万から1万5千円ぐらい。先に信長は、大名小名の身分の上下に拘らず安土城に登城し、信長に歳首の挨拶を行えるとしたが、挨拶したいがための実分不相応な贈り物を避ける為に贈り物は100文までと決めた。とはいえ大名達は金銀や舶来の珍品などを別に献上している。
?A現在「どんど焼き」などと言われる火祭行事。古く内裏では正月15日と18日に天皇が書いた吉書を焼く儀式として行われた。民間でも広まり現在の形になる。民間では、正月14日または15日、長い竹数本を円錐形などに組み立て、正月の門松、七五三飾しめかざり、書初めなどを持ち寄って焼く。書き初めで書いた書を燃やし、煙が高くあがるほど書が上手くなり、その火で焼いた餅を食えば年中の病を除くと言われる。
?B狩野永徳の安土城屏風絵は非常に素晴しいもので正親町天皇も所望したと言う。残念ながら現在は行方が分からずバチカンの倉庫に眠っていると思われる。
?C木曾義昌の妻は信玄の三女 真理姫[真竜院]
?D徳川家康は駿河から、北条氏直は関東、伊豆より武田領へ侵攻した。
?E正親町天皇が諸社寺に信長の戦捷を祈らせたのは、信長が依頼したわけではなく天皇が自ら行ったことであったらしい。
?F穴山梅雪[穴山信君]の母は武田信玄の姉。妻 見性院は武田信玄の娘、勝頼の妹。
?G武田信豊は信玄の弟 武田信繁の嫡男。
?H北条氏政の献上した馬と鷹が気に入らなかったというより、氏政の進軍が遅くさらに味方の領地にも火を放っていてやる事なす事、気に障ったらしいというのが真実ではないのか?
?I六角次郎は六角義堅[承禎]の子
?J恵林寺は信忠の六角次郎の引渡し要求を拒否したので焼き討ちにあう。この時代、寺院は聖域であって不可侵とする社会的観念があったが信長父子にはそれは通じなかった。信長父子以外では松永久秀が三好三人衆が立て篭もった東大寺大仏殿を焼き払っている。快川紹喜[かいせんじょうき]は焼き殺される時に言った「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」で有名。

▼大正6年[1917年]
?@叙任の大正時代当時、まず第一に逆賊 足利尊氏が天皇に弓を引いて開いた室町幕府を滅ぼした功績が評価される。さらに生前当時の正親町天皇などに尽くして働いた事、内裏の建築費や修繕費、その他の莫大な費用を朝廷に納めた事、天皇家の所領を回復したり守ったりした事を総合評価され、天皇家を救い尽力した勤皇派の人物として贈正一位太政大臣となったのでは。ところが近年、織田信長研究が進むにつれ、勤皇派とは言い難い事実が次々と判明してきていますね。足利尊氏の評価も然りでこちらは逆に肯定的に再評価されている向きもあります。



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