天文 - 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23
弘治 - 1 2 3
永禄 - 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
元亀 - 1 2 3 4
天正 - 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 死後 補足 上↑ 下↓
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年齢
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西暦
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出来事 [日付は旧暦]
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居所
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天皇
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室町幕府
将軍 |
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天文3年
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那古野城
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第105代 後奈良天皇 | 12代 足利義晴 | |||||
4
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〃
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〃
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〃
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5
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〃
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〃
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〃
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6
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〃
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〃
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〃
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7
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〃
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〃
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〃
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8
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〃
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〃
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〃
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9
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〃
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〃
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〃
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10
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〃
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〃
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〃
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11
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〃
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〃
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〃
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12
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〃
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〃
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〃
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13
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〃
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〃
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〃
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14
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〃
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〃
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〃
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15
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〃
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〃
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〜12代 足利義晴 12月20日 13代 足利義輝 12月20日〜 |
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16
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〃
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13代 足利義輝 | ||||
17
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〃
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〃
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〃
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18
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〃
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〃
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〃
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19
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〃
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〃
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〃
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20
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〃
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〃
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〃
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21
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〃
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〃
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〃
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22
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〃
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〃
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〃
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23
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〃
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清洲城
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〃
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弘治2年
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〃
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〃
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弘治3年
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〃
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〜第105代 後奈良天皇 9月5日 第106代 正親町天皇[おおぎまちてんのう] 10月27日〜 |
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〃
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第106代 正親町天皇 |
〃
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永禄2年
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〃
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〃
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永禄3年
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〃
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〃
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〃
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永禄4年
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〃
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〃
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〃
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永禄5年
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〃
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〃
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〃
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永禄6年
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小牧山城
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〃
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〃
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永禄7年
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〃
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〃
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〃
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永禄8年
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〃
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〃
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〜13代 足利義輝 5月19日 | ||||
永禄9年
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〃
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〃
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不在
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永禄10年
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岐阜城
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〃
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〃
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永禄11年
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岐阜城
⇔ 京都 |
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14代 足利義栄[よしひで] 2月8日〜9月 15代 足利義昭[よしあき] 10月18日〜 |
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永禄12年
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〃
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15代 足利義昭 | |||||
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〃
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〃
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元亀2年
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〃
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元亀3年
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〃
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〃
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元亀4年
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〃
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〜15代 足利義昭 7月 室町幕府滅亡 |
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〃
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天正2年
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〃
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天正3年
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〃
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天正4年
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安土城
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〃
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天正5年
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安土城
⇔ 京都 |
〃
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天正6年
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天正7年
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天正8年
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天正9年
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天正10年
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大正6年
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補足、備考 ▼天文3年[1534年] ■?@厳密には四男だったらしい。二男三男は生後まもなく死んでいる。信時が兄だったら五男の可能性も。何れにせよ諸説紛々。 ■?A織田彦五郎[信友]は織田達勝の嫡男で清洲城 織田本家当主。 ■?B清洲三奉行は信秀の他、織田因幡守、織田藤左衛門 ■尾張の守護は斯波義統[よしむね]で清洲城にいた。 ↑ ▼天文10年[1541年] ■?@銭7万疋[7百貫文]は約7000千万円。 ↑ ▼天文11年[1542年] ■?@第一次 小豆坂の合戦: 駿河 今川義元と松平氏が三河に攻め寄せてきたので、三河 安祥城にいた父 織田信秀が小豆坂へ出兵。 ↑ ▼天文15年[1546年] ■?@一年後、天文13年[1544年]2月 次期 室町幕府13代将軍 足利義輝が管領 細川晴元に命じ、国友村の鉄砲鍛冶 善兵衛、藤九左衛門らに鉄砲製作を行わせた。後に近江 国友村、紀伊 根来、摂津 堺が鉄砲の三大生産地となる。 ■?A40万疋[4000貫文]は約4億円。 ↑ ▼天文16年[1547年] ■?@三州吉良大浜は今川領[松平領]との境で当時織田氏と友好関係にあった水野氏の領地。水野信元は松平氏の親類にも拘らず織田方に寝返っていた。三州とは三河のこと。 ↑ ▼天文17年[1548年] ■?@美濃との和睦で後顧の憂いを絶った信秀は三河の岡崎城を攻めるべく侵攻したが、今川の援軍[太原雪斎が大将]に阻まれ失敗。 ↑ ▼天文18年[1549年] ■?@熱田八ヶ村に下した制札は信長文書の初見である。 ■フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着しキリスト教が伝来。 ↑ ▼天文19年[1550年] ■?@判形: はんぎょう。 ↑ ▼天文20年[1551年] ■?@織田信秀 享年41 ▼天文22年[1553年] ■?@平手政秀 享年62 ■?A禰宜は神職の一つで宮司、神主に次ぐ。 ↑ ▼天文23年[1554年] ■?@書状や判物を多く発行するようになり戦国大名として成長しだした事を窺わせるが、これに上総介信長と署名するようになる。 ↑ ▼弘治元年[1555年] ■?@これより先、尾張守護 斯波義統が信友に殺されたが、義統を討った謀反人として主家の信友を討った。 ■?A信長が信光を謀殺したのではないかと言われている。 ↑ ▼弘治2年[1556年] ■?@斎藤道三 享年63。道三を殺した義龍はその場で出家し范可[はんか]と号す。昔の中国で親を殺した范可の故事に依拠。 ■?A信長公記では信長が斯波義銀を崇敬して尾張を譲り清洲城を進呈したとあるが実際は世間を欺くデモンストレーションで、義銀は傀儡でしかなかった。 ■?B守護の序列について話し合うつもりだった斯波義銀、吉良義昭両軍は一町五段[160m]離れて対峙したが、双方とも足利一門の格式を主張し席次について揉め、矜持から互いに床机から10歩程度中央に進んだだけで散会となったと言う。 ■?C信長の弟の信行には沢山名前がある。信勝、達成、勘十郎など。 ■?D生駒吉乃[いこまきつの 29才]は奇妙丸[信忠]、茶筅丸[信雄]、徳姫を産んだ。6才年上で、信長が最も愛した女性と言われているが若くして死ぬ。享年39 ■?E兄 織田信広は最終的に信長に赦免され信長家臣となり、天正2年[1574年]の最後の伊勢長島一向一揆攻めで討ち死にした。 ↑ ▼弘治3年[1557年] ■?@弟 織田信行の殺害は信長公記などでは永禄元年と記載されている。 ■?A守護使不入: 犯罪者追跡や徴税のために、守護やその役人が不入地[設定された特定の公領や荘園など]に立ち入る事を禁じた。元々は室町幕府の権限だったが戦国大名が独自に付与するようになった。 ↑ ▼永禄元年[1558年] ■?@織田信清[十郎左衛門]は織田信康の嫡男、つまり信長の従兄弟。信秀死後は疎遠になっており、美濃に接する犬山城で独自の勢力を持っていたが、信長の妹を嫁にもらい信長に仕えるようになった。 ↑ ▼永禄2年[1559年] ■?@織田信清[十郎左衛門]は永禄5年[1562年]に信長に反旗を翻すので、この時点では尾張完全統一ではなかった。 ■?A斯波義銀は尾張守護 斯波義統の嫡男。 ↑ ▼永禄3年[1560年] ■?@実はこの時、信長方の砦を攻めていたのは、後に信長と堅く友好関係を結び、共に生死を賭けて戦い戦国時代を生き抜いていくことになる徳川家康であった。徳川家康は朱色の武具を付け、今川方の先陣を務めていた。 ■?Aこの時点で信長の兵は騎馬6騎、雑兵200。続々と集結している様ではあるが、義元の軍勢2万5千にははるか遠く及ばない。ただ、義元の兵は鳴海城や大高城に分散して展開していたらしいので、信長と桶狭間でぶつかった義元の本隊は推定5千位だったと言われている。 ■?B信長は雨の中、今川義元を奇襲したと説明する解説書も多いが、信長公記では、にわか雨が止み空が晴れたのを見て突撃したとある。義元の軍勢は信長の急襲に恐れをなし、どっと逃げ崩れた。乱戦の中、信長は輿に乗っているであろう義元を集中攻撃させ、服部春安が義元に切りかかり、ついに毛利良勝が義元に組み付き首級を挙げた。逃げた義元の軍勢も田楽狭間の深田にはまり、もがいているところを信長の血気盛んな若武者達に矢で射られ、次々に首を取られていったと言う。 先にも言ったとおり、田楽狭間の義元本隊の他に、2万は鳴海城や大高城に分散して展開していたはずなので、やろうと思えば信長の本隊を挟撃できたはずである。出来なかったのはやはりあっけなく義元が討たれてしまって指揮系統が麻痺し戦意喪失したのと、信長の軍勢が善照寺砦に大挙して待ち構えているのではないかという疑心暗鬼がそうさせたのかもしれない。実は信長が善照寺砦に兵1千を残し、旗、指物もその場に残したのは本隊がそこに留まっているように見せた作戦だったからである。義元軍も、まさか信長の軍勢が3千そこそことは夢にも思わなかったのだろう。こうして織田信長は海道一の弓取りと呼ばれた名将・今川義元を破り、天下統一への一歩を踏み出すのであった。 ■?C合戦の場所は田楽狭間だが、なぜか少し離れた桶狭間の方が有名になってしまった。 ■?D今川義元 享年42 ■義元所持の刀 左文字に織田尾張守信長と刻字。 ↑ ▼永禄4年[1561年] ■?@斎藤義龍が病死。享年35 ■?A2年前の不祥事で出仕不要とされていた前田利家だったが、森部の合戦で戦功を上げ帰参を許される。 ↑ ▼永禄5年[1562年] ■?@織徳同盟[しょくとくどうめい]、尾三同盟[びさんどうめい]とも言う。 ↑ ▼永禄6年[1563年] ■7月6日「日本史」著者であるポルトガル人宣教師 ルイス・フロイスが肥前 横瀬裏に上陸。31才だった。 ■?@清洲城から小牧山城に移城したのは永禄6〜7年頃しかわかっていない。 ↑ ▼永禄7年[1564年] ■?@竹中重治はすぐに稲葉山城を斎藤龍興に返還し、自身は主君への謀反人だとして隠棲。後に黒田官兵衛と並び、豊臣秀吉の名軍師となる。 ■この年、徳川家康が三河を統一する。 ■?A織田信清[十郎左衛門]は甲斐に逃亡し、武田氏に仕え犬山鉄斎と称した。 ■?B上杉輝虎[上杉謙信]に盛んに手紙を送るようになる。 ■?C堂洞城は岸勘解由左衛門[きしかげゆ]を内応させるため金森長近が派遣されたが失敗。 ↑ ▼永禄8年[1565年] ■?@信長は美濃、北伊勢を安心して攻めるため武田との同盟を急いでいた。そこで悲願の政略結婚を実現させるべく、姪の遠山婦人を勝頼に嫁がせた。ところが遠山婦人は信勝を生むとすぐに死んでしまった。[遠山婦人の母は信長の妹。つまり信長は姪を養女にしていた。] ■?@遠山婦人の産んだ子 武田信勝は父の勝頼と共に天目山の戦いで討ち死にし武田氏は滅亡した。 ↑ ▼永禄9年[1566年] ■?@生駒吉乃[いこまきつの] 享年39。 ↑ ▼永禄10年[1567年] ■?@美濃三人衆 : 氏家卜全、稲葉一鉄、安藤守就 ■?A稲葉山は金華山とした。 ■?Aこの時点で小牧山城は廃城となるが、天正12年[1584年]の小牧・長久手の戦いで徳川家康が陣を置き、対 豊臣秀吉戦で家康の勝利に貢献する。 ■?B正しくは信長 天下布武 朱印状の初見。 ■?C信長が甲斐の武田勝頼に嫁がせた養子[姪]の遠山婦人が死んでしまい、武田との同盟関係が薄れるのに危機感を感じて嫡男 信忠と松姫[武田信玄 6女]の婚約を成立させた。しかし三方が原の戦いの後、婚約解消させられる。 ↑ ▼永禄11年[1568年] ■?@長野工藤氏は北畠氏の家臣 ■?A上洛の途中、六角義賢[承禎]がこれに抵抗。信長が支城 箕作城[みつくりじょう]を攻略すると、本城の観音寺城とその同じく支城である和田山城では一戦も交える事無く全員が敵前逃亡、六角義賢[承禎、佐々木]も観音寺城を棄てて伊賀に敗走した。 ■?B銭1万疋[100貫文]は約1000万円 ■?C六角義賢[承禎]は信長に抵抗する過程で、信長に寝返った家臣の八尾城主 小倉実澄[右京亮]を蒲生定秀に攻め滅ぼさせる。その妻子は岐阜城の信長に助けを求めるが、この人が信長の側室となるお鍋の方[興雲院 きょううんいん]である。お鍋の方を側室とした時期は不明。岐阜城の信長に助けを求めた時なので年末あたりだろうか? ■?D信長が関所を撤廃する前、各地を支配する大名、公家、領主、寺社などは自領に独自の関所を設けて、人や物資に関銭[通行税]を課していた。例えば京都大坂間にはなんと600以上もの関所が乱立し、その一つを通るたびに関銭を徴収される事になる。これでは経済など発展するわけが無かった。関所を撤廃した信長に対して、領民から拍手喝采、賞賛の嵐が吹き荒れたのは間違いのない事だろう。 ↑ ▼永禄12年[1569年] ■?@ルイス・フロイスを引見している最中、雑兵が好奇心で工事現場を見に来た女性の被り物を捲った所、信長は激怒しこの雑兵の首を刎ねた。 ■?A稲葉貞通は美濃三人衆の一人、稲葉一鉄[良通]の嫡男。 ■?B地子銭[じしせん]は宅地税の一種。 ↑ ▼元亀元年[1570年] ■?@誠仁親王[さねひとしんのう、陽光院]は正親町天皇の第五皇子。誠仁親王の子である邦慶親王は織田信長の、智仁親王は羽柴秀吉の猶子になった。 ■?A信長は朝倉義景に上洛を強要したが義景が上洛を拒否したため、信長に強く反抗的な若狭守護 武田元明の被官 武藤氏討伐と言う名目で越前を攻略する事になった。 ■?B長政寝返りの際、浅井のかつての敵 六角承禎[佐々木氏]も浅井久政、長政父子を支援した。 ■?C金ヶ崎の退き口の殿軍の大将は木下藤吉郎。 ■?D近江朽木谷の領主 朽木元綱を説得して信長の朽木越えを助けたのは松永久秀。 ■?E杉谷善住坊: 近江の国に善住坊ありと知られた鉄砲の名手。飛ぶ鳥をも射落とすと言われていた。その善住坊が鉄砲4挺で狙撃しても、かすりもしなかったという事は信長は相当に運の強い男である。 ■ニェッキ・ソルド・オルガンチーノ[うるがんばてれん、宇流加武]、布教長フランシスコ・カブラルが来日。 ■?F若狭 武田氏 武田信豊[若狭守護] | 武田義統[よしずみ 若狭守護] - 武田信方[若狭武田氏の軍事力を掌握、朝倉と結んで信長に抵抗] | 武田元明[若狭守護。朝倉氏により一乗谷朝倉館に軟禁され、若狭守護の地位は名ばかりとなる。朝倉氏が滅亡して、さらに本能寺の変後、若狭守護への返咲きを目指し明智光秀に与するが、丹羽長秀と対立し敗れる。若狭 武田氏の滅亡。] ■?G本願寺顕如[光佐]の姉は武田信玄の正室、つまり顕如は信玄の義理の弟。 ■?H森可成は森蘭丸[森成利]の父。 ↑ ▼元亀2年[1571年] ■?@過書: かしょ、関所通行の許可証 ■?A比叡山延暦寺は浅井氏、朝倉氏、武田信玄などと誼を通じていた。 ■?B足利義昭は毛利元就にも信長打倒の檄を飛ばしていたが、信長の実力を認めていた元就は信長と友好関係を維持し、義昭の構築しようとしていた信長包囲網には加わろうとはしなかった。 ↑ ▼元亀3年[1572年] ■?@信長が度々上洛して来るのに邸が無いのは如何な物かと、足利義昭が正親町天皇に邸の建築を奏請した所、許可された。信長は義昭の余計なお世話を何度も辞退したらしいが、終いに渋々好意を受け入れた。気に入らない邸だったから京都信長邸は竣工してもあまり利用されることが無かった様だ。普請の様子は信長公記に書かれており、着工から竣工までお祭り騒ぎだったらしい。子供達を美しく着飾らせて、笛や小太鼓を鳴らせ、工事の人足達は輿に乗って調子よく仕事をした。見物の人々は身分に関係なく手折った花を手に持ち、衣服の薫香が辺りに充満しおよそ工事現場とは思えない様子だった。だから、工事が一向に進まなかった様だ。 ■?A三好義継は三好長慶の養子 ■?B昭高は信長の妹を妻とし、信長の支援を得て家臣の遊佐信教を殺そうとしたが、実質上の遊佐信教の傀儡だった畠山昭高[政頼]は、次の年に逆に信教に殺された。当然これに怒った信長に高屋城を攻められ信教は殺された。 ■?C安見新七郎は安見宗房、安見直政とも呼ばれた。河内国守護代 ■?D清玉上人[せいぎょくしょうにん、玉誉清玉]は本能寺の変後、真っ先に駆けつけ信長と信忠の遺骨を持ち帰り阿弥陀寺に葬ったという。 ■?E勧進: 堂塔、仏像などの建立、修理のため、人々に勧めて寄付を募ること。 ↑ ▼元亀4年[〜1573年7月] 天正元年[1573年7月〜] ■?@将軍足利義昭が朝倉義景 浅井長政 武田信玄 本願寺 三好義継 松永久秀らと同盟を結び、信長に対して挙兵するものの、正親町天皇の勅命により和解。しかし3ヵ月後に再び挙兵し南山城 槇島城に拠るが、信長は義昭を捕らえ河内若江城に追放。 ■?A武田信玄 享年53 ■?B地子銭[じしせん]とは田・畑・屋敷などに課した雑税で、米を納める場合は地子米。 ■?C永禄13年[1570年]に改元問題が持ち上がった際、信長は「天正」を推した。だが、信長とすでに関係が悪化していた将軍足利義昭はささやかな抵抗として天正を斥け「元亀」を選んだ。信長は元亀3年[1572年]に再度 義昭に天正に改元せよと申し渡したが費用問題なとで斥けている。信長は義昭を追放すると直ちに正親町天皇に改元を奏請して認められた。自分を中心とする新たな時代、まさに「天正」は信長を象徴する年号なのである。 ■?D斎藤竜興は刀根坂の戦いで討ち死に。 ■?E朝倉義景 享年41 ■?F朝倉氏滅亡後、朝倉氏のもう一つの領地である若狭の支配は丹羽長秀に任された。 ■?G勢州一揆とは伊勢の一向一揆の事。 ■?H廻船: 港から港へ旅客や貨物を運んで回る船。 ↑ ▼天正2年[1574年] ■?@蘭奢待は朝廷の許可が無いと切り取ることが出来ない。今まで切り取ったのは時の権力者 足利義満、義教、義政、織田信長、明治天皇のみ。信長は蘭奢待の切り取りを朝廷に申し出て自分の権力を試した。切り取り奉行は堺代官を勤めた松井友閑。 ■?A遠州は遠江の事。 ↑ ▼天正3年[1575年] ■?@今川氏真は信長に桶狭間の戦いで討ち取られた今川義元の嫡男。 ■?A論功行賞により越前8郡は柴田勝家に与えられる。府中三人衆は越前を治める司令官である柴田勝家の与力[目付け役、監督]を務めた。 ■?B信長に和睦を申し入れた本願寺顕如光佐だったが、翌年には雑賀衆、根来衆の紀州勢や毛利氏の支援を得て再度反旗を翻し最後の決戦に臨む。 ■?C当初、岩村城の全員を赦免し助命するとしていたがこれは謀で、開城後 城兵は一人残さず殺された。信長の叔母 おつやの方が逆さ磔の刑になった経緯は48才[天正9年]を参照。 ■?D岩村城は長篠・設楽原の合戦直後の5月下旬から信忠軍に包囲されていた。信忠はこの功績により天皇の勅諚を賜り、秋田城介[あきたじょうのすけ]に叙任される。 ■?Eその後、岩村城には河尻秀隆が入り、後には森蘭丸も城主を勤めている。 ↑ ▼天正4年[1576年] ■?@岡部又右衛門以言は熱田神宮の宮大工だった。 ■?A築城を開始すると、せっかちな信長は早くも一月半後には安土城に移城している。 ■?B安土城や岐阜城は天守閣と言わず天主閣と言う。 ■?C安宅信康は安宅冬康の嫡男で淡路水軍の総指揮官。元亀3年[1572年]、石山本願寺から信長に寝返り臣下となり、織田水軍の一員として木津浦の海戦などで毛利水軍と戦う。 ■?D児玉就英[こだまなりひで]は毛利輝元配下 毛利水軍の総司令官で木津浦の海戦[木津川口の戦い]の毛利方の総大将。児玉就方[こだまなりかた]の嫡男。他の毛利軍の海将は小早川隆景の水軍 乃美宗勝[のみむねかつ]、村上水軍の村上武吉。 ↑ ▼天正5年[1577年] ■?@太田源三太夫が頭目を務める雑賀三組は三搦[みからみ]とも呼ばれ、鈴木孫一[雑賀孫一]が率いる一大勢力 雑賀衆と抗争を繰り返していた。信長は雑賀衆を叩く為、雑賀三組[三搦]の太田源三太夫を懐柔した。 ■?A出羽の秋田愛季[安東愛季 ちかすえ]は事有るごとに鷹や虎皮などの贈り物をし信長と誼を通じようとした。信長もこれに良く応えている。 ■?B祖父江秀重の次男 孫丸は信長の小姓。本能寺の変で討ち死に。 ■?C上杉謙信が能登 七尾城を囲み、信長はかねてから誼を通じていた七尾城主 畠山氏の家臣 長続連の出陣要請を受け能登出兵を決断。能登出兵の際、羽柴秀吉は柴田勝家と意見が対立し、信長の許可無しに戦線を離脱するという、下手をすれば首を刎ねられかねない失態を演じる。当然のごとく信長は激怒するが、その怒りが後の秀吉による中国地方攻略快進撃の原動力となる。後が無くなった秀吉の一心不乱の中国攻めは凄まじいの一言。 ■?D信長実筆感状として確定されている唯一のもの。 ↑ ▼天正6年[1578年] ■?@暇さえあれば放鷹[ほうよう、鷹狩]に出かける。 ■?A津田信澄は信長の実弟 織田信行[勘十郎]の子。正室は明智光秀の娘。 ■?B上杉謙信 享年49 ■?C黒田官兵衛は一年後に救出されたが劣悪な環境の土牢に閉じ込められていたため足が不自由になってしまった。信長は官兵衛が戻ってこないのを謀反だと疑い、人質として預かっていた官兵衛の嫡男 黒田長政を殺すよう、羽柴秀吉に命じる。だが秀吉は官兵衛が裏切るはずがないとして、密かに信長の命に背き官兵衛の帰りを待つ。後に秀吉の名軍師として秀吉を天下人に押上げる。 ↑ ▼天正7年[1579年] ■?@事実は法華宗が優勢だったらしいが、以前から挑戦的な態度をとり続けていた法華宗を信長が事に乗じて弾圧する形となった。法華宗は負けましたと書かされ天下の笑い者となり、関係者は悉く処刑された。 ■?A井戸将元は文書を偽造したり、ふらふらと他家を渡り歩き常に安土には居らず、また安土に妻子を呼び寄せなかった。 ■?B備前 宇喜多直家の降参を取り付け、意気揚々と安土城に参上した秀吉だったが、ここで信長に「わしの許可無しで、おまえは何をしているのか? さっさと播磨に帰れ」とあり得ない事を言われる。毛利氏との激突が避けられなく、喉から手が出るほど欲しかったであろう備前と美作。通常の武将なら喜んで降参を受け入れ、秀吉を賞賛するのだが。この専制君主ぶりとプライドの高さは異常である。やはり信長は常人ではない。 ■?C築山殿[つきやまどの]と信康が甲斐 武田勝頼と誼を通じていると、信康に嫁いだ信長の娘 五徳姫から情報があった。その他、築山殿と唐人医師減敬の密通や築山殿の信長への讒言など「信長の十二ヶ条」として家康に譴責状を突き付けている。 ↑ ▼天正8年[1580年] ■?@荒木村重は摂津 花隈城から逃亡し毛利氏の援助で尾道に潜伏した。剃髪して筆庵道薫と号し、生涯 茶の湯に生きた。 ■?A本願寺教如[光寿]は顕如の息子。教如は信長との徹底抗戦を主張、石山本願寺退去を巡って父 顕如と対立。 ■?B林通勝は24年も前の稲生の合戦の時[弘治2年 1556年]、弟 織田信行[勘十郎]に付いた事を譴責された。 ↑ ▼天正9年[1581年] ■?A信長 五男 於坊[おぼう 坊丸 織田源三郎信房または甲斐での名前は織田勝長]は信長の末子で、甲斐と美濃、尾張が国境を接する要害の地 遠山を支配する岩村城主 遠山内匠助景任に養子に出されていた。遠山景任[かげとう]は病弱で若くして死に、於坊も幼かったので岩村城主は信長の叔母「おつやの方」になったのだが、この岩村城が武田配下の秋山信友に攻められ、おつやの方は秋山信友の妻となり、於坊は甲斐に送られ武田信玄の人質となった。その織田源三郎信房[勝長]が還された。 ■?Bおつやの方は織田信定[信秀の父=信長の祖父]の娘で、織田信長の叔母で遠山景任に輿入れした。信長を裏切ったことで信長の逆鱗に触れ、天正3年[1575年]の長篠・設楽が原の戦いの後 信忠に岩村城を攻めさせ秋山信友とおつやの方は長良川で逆さ磔の刑で処刑された。 ↑ ▼天正10年[1582年] ■?@100文は1万から1万5千円ぐらい。先に信長は、大名小名の身分の上下に拘らず安土城に登城し、信長に歳首の挨拶を行えるとしたが、挨拶したいがための実分不相応な贈り物を避ける為に贈り物は100文までと決めた。とはいえ大名達は金銀や舶来の珍品などを別に献上している。 ■?A現在「どんど焼き」などと言われる火祭行事。古く内裏では正月15日と18日に天皇が書いた吉書を焼く儀式として行われた。民間でも広まり現在の形になる。民間では、正月14日または15日、長い竹数本を円錐形などに組み立て、正月の門松、七五三飾しめかざり、書初めなどを持ち寄って焼く。書き初めで書いた書を燃やし、煙が高くあがるほど書が上手くなり、その火で焼いた餅を食えば年中の病を除くと言われる。 ■?B狩野永徳の安土城屏風絵は非常に素晴しいもので正親町天皇も所望したと言う。残念ながら現在は行方が分からずバチカンの倉庫に眠っていると思われる。 ■?C木曾義昌の妻は信玄の三女 真理姫[真竜院] ■?D徳川家康は駿河から、北条氏直は関東、伊豆より武田領へ侵攻した。 ■?E正親町天皇が諸社寺に信長の戦捷を祈らせたのは、信長が依頼したわけではなく天皇が自ら行ったことであったらしい。 ■?F穴山梅雪[穴山信君]の母は武田信玄の姉。妻 見性院は武田信玄の娘、勝頼の妹。 ■?G武田信豊は信玄の弟 武田信繁の嫡男。 ■?H北条氏政の献上した馬と鷹が気に入らなかったというより、氏政の進軍が遅くさらに味方の領地にも火を放っていてやる事なす事、気に障ったらしいというのが真実ではないのか? ■?I六角次郎は六角義堅[承禎]の子 ■?J恵林寺は信忠の六角次郎の引渡し要求を拒否したので焼き討ちにあう。この時代、寺院は聖域であって不可侵とする社会的観念があったが信長父子にはそれは通じなかった。信長父子以外では松永久秀が三好三人衆が立て篭もった東大寺大仏殿を焼き払っている。快川紹喜[かいせんじょうき]は焼き殺される時に言った「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」で有名。 ↑ ▼大正6年[1917年] ■?@叙任の大正時代当時、まず第一に逆賊 足利尊氏が天皇に弓を引いて開いた室町幕府を滅ぼした功績が評価される。さらに生前当時の正親町天皇などに尽くして働いた事、内裏の建築費や修繕費、その他の莫大な費用を朝廷に納めた事、天皇家の所領を回復したり守ったりした事を総合評価され、天皇家を救い尽力した勤皇派の人物として贈正一位太政大臣となったのでは。ところが近年、織田信長研究が進むにつれ、勤皇派とは言い難い事実が次々と判明してきていますね。足利尊氏の評価も然りでこちらは逆に肯定的に再評価されている向きもあります。 ↑ |
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