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<-織田信長 戦国時代

織田信長の合戦、戦

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合戦相手・方面・地域 合戦名など、日時 解説・備考
初陣 ■三河の吉良と大浜に出陣し各所に火を放つ。
天文16年[1547年]、信長14才
▼戦国時代の大嵐の中、前途多難な船出。

尾張と今川領[松平領]との境で、当時織田氏と友好関係にあった水野信元の領地・三河の吉良と大浜に今川の兵が侵入して来たので、手勢を指揮し出陣。
各所に火を放ち敵を撹乱した。これが織田信長の初陣[武者始め]である。
(水野信元は松平氏の親類にも拘らず、調略により織田方に寝返っていた。)
家老の平手政秀が手配した信長の初陣姿は、紅筋が入った頭巾に馬乗り羽織、そして馬鎧という出で立ちだったと信長公記にある。

以上が信長の初陣だが、同時期に父の信秀はというと美濃の齋藤道三や駿河の今川義元との戦いが激烈を極めている。これより少し前、信秀は天文13年[1544年]8月に越前朝倉氏と組み美濃に攻め入ったが破れ、また信長の初陣の年、天文16年[1547年]9月には美濃の加納口にまで攻め入り、撤退するところを追撃され、織田因幡守、織田与次郎、青山与三右衛門(よそうえもん)らの織田一族・家臣をはじめ 5千人以上が討ち死にするという大敗を喫している。また翌10月にも三河に兵を出して負けている。

先の美濃加納口の戦いで親戚縁者の叔父さんたちが次々と死に、信長の3番家老 与三右衛門も死んだ。多感な思春期を迎えている14才の信長にとって如何に衝撃的事件だったかは想像に難くない。
悲しみに暮れている分けには行かない「自分も戦わなくては」「きっと仇を討つ」「自分なら出来る」そう思ったに違いないであろう。

これを考えると初陣翌年の美濃の姫・濃姫との和睦政略結婚は気持ち的に受け入れられたのだろうか。胸中察して余りある物が有ったのではなかろうか。
私は濃姫のあまりの美しさに悩殺され、気持ち的にすべてを水に流したと勝手に想像している。

このように織田信長の戦人生の始まりはまさに戦国時代荒海の真っ只中に突っ込んでいくという感じであった。
信長にとっては外敵だらけで非常に前途多難な船出であったことは間違いない。
だが、この時点で誰がこの男が天下統一 一歩手前まで駒を進めると想像できたであろう。
対・坂井大膳 ■小競り合い
天文21年[1552年]8月16日、信長19才
清洲城 坂井大膳らと海津で戦う
対・今川義元 ■小競り合い
天文23年[1554年]1月20日、信長21才
尾張 村木
解説
対・斎藤義龍 ■小競り合い
弘治2年[1556年]4月、信長23才
解説
尾張平定戦 ■稲生の合戦
対・弟 織田信行[勘十郎、信勝]
弘治2年[1556年]8月22日、信長23才
▼まさに内患外憂

対・今川義元 ■桶狭間の戦い
永禄3年[1560年]5月、信長27才
解説
美濃攻略戦 ■対・斎藤義龍
■対・斎藤龍興
解説
上洛前哨戦 ■対・神戸具盛[かんべとももり]
■対・長野氏・関氏
解説
上洛戦 ■対・佐々木六角承禎
永禄11年[1568年]、信長35才
▼信長上洛軍の前に佐々木六角承禎が立ちはだかる。

永禄11年[1568年] 9月7日

信長は足利将軍家再興と足利義昭を将軍職に据える事を表向きの大義名分に掲げ、尾張、美濃、北近江[浅井長政]、三河[徳川家康]、北伊勢[神戸信孝、長野信包]、その他合わせ6万余の軍勢を率い上洛を開始する。

これより先、信長は足利義昭を奉じ上洛を開始するにあたり、各地の戦国大名や支配者たちに上洛支援の要請をしている。当然、上洛途中に通過せざるを得ない近国、南近江を領する佐々木六角承禎にも使者を送り、支援を要請している。佐々木六角承禎は、先の永禄の変[永禄8年1565年]で殺された義昭の兄である第13代将軍 足利義輝との関係が良好な時期もあり、信長は当初 足利将軍家の名を出せば簡単に支援を取り付けられるのではないかと考えていたらしい。

ところが、佐々木六角承禎は支援どころか敵対の意を表明した。

それは、なぜだろうか?

第一に、畿内を牛耳り永禄の変で義昭の兄 義輝を殺した三好三人衆や松永久秀らとすでに共闘体制を築きつつあった事が挙げられる。

第二に、ここに示した名前でも分かるとおり六角氏の祖先は近江源氏佐々木氏であり、佐々木氏は平安時代から続く名家である。その佐々木氏は鎌倉時代より近江の守護を務めていた。戦国時代に入り近江の南は佐々木氏の嫡流の子孫 六角氏が治め、北を京極氏が治めるようになった。その内、京極氏の家臣であった浅井氏が京極氏に取って代わり北近江を治めるようになり、近江国は南の観音寺城 六角承禎と北の小谷城 浅井長政の熾烈な領土争いの舞台となっていた。
ご存知のように信長は戦略上 隣国近江との同盟が不可欠だと考え、北近江の浅井長政に妹のお市を嫁として送り込んで姻戚関係による同盟を結んでいた。つまり六角承禎にとって信長は敵の味方ということになっていたのである。

第三に、現時点での織田信長が尾張を治め、駿河の名門 今川義元を破り、美濃も平定し、そして今まさに足利義昭を奉じて上洛せんと旭日天にも昇る勢いだとは言え、平安時代からの名家 近江源氏 佐々木氏の嫡流子孫であるという六角承禎の矜持が心の中で信長を成り上がり者の田舎大名と蔑んで見ていたと言う事も理由の一つに挙げられるだろう。

第四に、足利義昭は永禄の変後、六角承禎を頼ったが、承禎は義昭の兄 義輝を殺した三好三人衆や松永久秀らと共闘体制を築きつつあった手前、義昭を無碍にして追い払ってしまった事実があった。その後、義昭は越前朝倉義景の所に身を寄せ、最終的に信長に頼ったのだが、その信長が今まさに義昭を奉じて上洛するという偉業を達成しようとしている。越前の朝倉義景にとっては勿論、義昭を追い払ってしまった六角承禎にとっても苦虫を噛みつぶすような悔しい出来事であっただろう。

以上を総合判断して、六角承禎は信長の上洛支援要請など受けられる物ではない、邪魔してしまえと思ったに違いあるまい。もしかしたら、信長という後ろ盾を得た義昭の逆襲に恐れを生し、恐怖から楯突いたとも考えられる。

何れにせよ、おかげで近江を安全に抜けられないと考えた信長は、6万と言う大軍勢を掻き集めなければならない羽目になった。上洛作戦失敗ともなれば織田家の名は地に落ちる事になるからだ。

▼電光石火の観音寺城攻略 -

後の豊臣秀吉が意識的に行ったように、軍勢を出来るだけ掻き集め圧倒的兵力差で相手に心理的、精神的な圧力を掛けて、戦う前から戦意喪失させるやり方を「位攻め = くらいぜめ」などと言うが、結果的にこの上洛作戦の6万という大軍勢は位攻め状態になってしまったようである。

緒戦は僅かだが戦う意欲を見せていた六角軍だったが、信長がすでに事前に仕掛けておいた内部調略で半瓦解していたこともあり、六角軍は非常に脆かった。

まず信長の命を受けた佐久間信盛、丹羽長秀、羽柴秀吉らが六角の支城 箕作城[みつくりじょう]を簡単に攻め落としたのを皮切りに、その軍勢の多さに恐れをなし、他の支城の大将・城兵たちも戦わずして蜘蛛の子を散らすかのように逃亡して行った。
総大将の佐々木六角承禎自身も観音寺城を棄て伊賀甲賀方面へ遁走してしまったのである。
上洛の信長軍は兵を殆んど失わずに、観音寺城をはじめとする「空き城」に悠々と入城する事ができた。
信長が岐阜城を出陣したのが永禄11年[1568年] 9月7日で観音寺城に入ったのが9月13日だった。つまり、たった6日間で佐々木六角氏の南近江の城の殆んどを盗ってしまった。

見事である。

衆寡敵せずとは言え、佐々木六角氏にとってはあまりにもお粗末な結果となり、戦国武将としては名を下げてしまった。これ以降、六角氏はゲリラ的に信長に抵抗していくが、次第に影を潜め、終には戦国の世から消えていくのである。
畿内平定戦 ■対・三好三人衆
三好三人衆とは当時畿内を牛耳っていた有力者 三好長逸・三好政康・岩成友通の事
伊勢攻略戦 ■対・北畠具教[きたばたけとものり] 解説
対・本願寺顕如、一向一揆 ■石山合戦
■伊勢長島一向一揆討伐
■越前一向一揆討伐
■紀伊雑賀衆、根来衆の一向一揆討伐
解説
比叡山延暦寺攻め   解説
対・武田信玄 ■三方ヶ原の戦い 解説
対・室町幕府、足利義昭   解説
対・朝倉義景 ■越前朝倉攻め
■金ヶ崎の退き口
■刀根坂の戦い
■一乗谷城の戦い
解説
対・浅井長政 ■姉川の戦い
元亀元年[1570年]6月28日朝、信長37才
織田信長・三河 徳川家康 対 北近江 浅井長政・朝倉景建(かげたけ、朝倉義景の従兄弟)

■小谷城攻め
解説
対・武田勝頼 ■長篠、設楽が原の戦い
■武田征伐
解説
対・毛利輝元、毛利水軍 ■木津浦の海戦
■木津浦の海戦リベンジ
解説
対・松永久秀   解説
対・上杉謙信 ■手取り川の戦い 解説
丹波、丹後攻略戦   解説
羽柴秀吉の中国遠征
対・毛利輝元
対・毛利両川
■播磨・三木城兵糧攻め
■因幡・鳥取城兵糧攻め
■備中・高松城水攻め
解説
対・荒木村重   解説
本能寺の変   解説



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