2008年06月06日

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旧本能寺跡に「真言」卒塔婆
信長自害の法華宗寺院

京都新聞

 京都市中京区の旧本能寺跡で昨年夏に行われた発掘調査で出土した卒塔婆(そとば)に、密教で使われる呪文(じゅもん)「真言」が記されていることが6日までに分かった。織田信長が明智光秀に攻められ自害した「本能寺の変」(1582年)直後に、焼け落ちた法華宗の本能寺跡で真言宗の僧が死者を供養した可能性があり、戦いの激しさや当時の人々の思いを示す貴重な遺物になりそうだ。

 発掘は昨年7-8月、関西文化財調査会(吉川義彦代表)が行い、変に伴うとみられる焼け瓦やL字形の堀跡、石垣が見つかった。

 卒塔婆は南側の堀から見つかった15本のうちの1本。長さ約40センチで五輪塔の形をしていた。赤外線撮影や文字を浮き立たせる処理を行い解読を進めたところ、「…遮那摩訶母那羅摩尼(シャノウマカボダラマニ)□□摩(マ)…」という光明真言が浮かび上がった。裏面には「三界萬霊十方」「眷属(けんぞく)」の文字が見え、不特定多数の死者や一族を弔ったらしい。

 吉川代表は、「日光にさらされ木がやせることによって起こる『浮き字』がなく、どこかの墓にあったものが紛れ込んだ可能性は低い。また堀の底から15センチほど上層の泥から見つかっており、本能寺の変の時期に近い」としている。

 葬送儀礼に詳しい勝田至・京都光華女子大非常勤講師(日本中世史)によると、法華寺院に他の宗派の僧が立ち入り、死者を供養することは通常考えられず、本能寺の変で寺が焼け落ちた状況以外は考えにくいという。

 勝田講師は「光明真言は天台宗でも使われるが、比叡山焼き打ちを行った信長軍を天台宗が供養することはないだろう」とした上で「信長を弔ったにしてはサイズが小さく、真言宗の僧が個人的に、敵味方を問わず供養したのかもしれない」と話している。

 光明真言 「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」と唱える。死者を弔う呪文で、一切の罪業を除くという。

 【卒塔婆に記された文字】

 (表)□遮那摩訶母那羅摩尼(シャノウマカボダラマニ)□□摩(マ)  □□羅波(ラハ)…

 □ □□罪三波羅三波…

 (裏)…□三界萬霊十方□   眷属須□

京都新聞

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2008年03月04日

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新説「本能寺の変」名場面はウソ? 信長、宿泊は専用御殿
産経新聞

 「本能寺の変」(1582年)で、織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、ごく小規模な専用御殿だったという新説を、今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)が発表する。昨年、旧本能寺境内で相次いだ発掘調査の成果などから、「建物は最大40メートル四方クラス」と判断した。

 予想外に簡素だった理由については「大坂本願寺に移る予定だった」と推定。ドラマで繰り返し放送される大きな本堂前で奮戦する信長は虚像の可能性が出てきた。

 新説は日文研が近く発行する論文集『王権と都市』に「信長の本能寺“御殿”について」として発表される。

 本能寺は現在、京都市役所の南にあるが、「変」当時は、約1キロ南西の中京区六角通と蛸薬師通、西洞院通と油小路通に囲まれた約120メートル四方の地を境内としていた。

 発掘調査は昨年夏、住宅建設のため2カ所で実施され、東側の調査地からはL字形の堀(幅約6メートル、深さ約1メートル)や焼けた痕跡のある文字瓦などが見つかった。西側調査地からは、建物跡などは出なかった。この結果、東側の堀は西に延びず、約40メートル四方の建物を囲むものと分かった。

 今谷教授は当時の文献を詳しく調べたが、本能寺がよそに移転した形跡はなく、境内東北隅の堀に囲まれた中に、信長の宿舎となる御殿が建っていたと結論付けた。具体的には、「ほぼ同時代に建てられた園城寺勧学院(かんがくいん)や同光浄院(こうじょういん)(大津市、いずれも国宝)のような規模の小さい住宅用御殿が建っていた」とみている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080304-00000056-san-soci

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2008年03月03日

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なぜこれほど不用心だったのか…信長の個性裏付け

戦国時代の転機となった「本能寺の変」に関して、初めて確認された旧本能寺遺構は、織田信長の常識ではとらえがたい行動を裏付けることとなった。あれほど執念深い人物がなぜ、わずかな供だけで無防備な宿舎に入ったのか。謎はますます広がっている。

 「この石垣が、信長の時代のものであることは間違いない。それと遺物、とくに瓦の量などから大きな伽藍(がらん)が焼けた可能性は低いのではないでしょうか」

 発掘調査にあたった吉川義彦・関西文化財調査会代表は、こう話す。遺構の伸び方からみて、堀が巡らされていたのは、境内の東北隅にあたるほぼ40メートル四方。この場所に、信長の御殿があったことは疑いないという。

 規模の小さな御殿で、しかも警護の者は少ない。圧倒的な兵力(1万3000人)の明智軍を前に、信長はあっけなく自害。戦いはすぐ決着がつき、伽藍の被害もそれほど大きくなかったということのようだ。

 それにしても、信長はなぜこれほど不用心だったのか。今谷明・国際日本文化研究センター教授は「光秀が叛くとは、考えてもいなかった」とみている。光秀の謀反の理由については、(1)領地替えを命じられたり、安土城での家康接待役を免じられたりしたことに対する恨み(2)佐久間信盛ら重臣が次々、追放されたことに対する焦燥や危機感(3)足利義昭や近衛前久(さきひさ)ら、旧幕府・朝廷勢力に唆(そそのか)された-などの説が唱えられている。

しかし、今谷教授は、光秀は城持ち大名になったのも早く、かなり優遇されていたことなどから、怨恨(えんこん)説は考えにくいとする。やはり、本能寺に少人数で宿泊するとの情報を得た光秀が「天下取りのチャンス」と、決断したとみている。

 また信長は、近々朝廷に、自分の望む官位を伝えることになっていた。(1)関白(2)征夷大将軍(3)太政大臣-の3説があるが、今谷教授は「毛利氏の攻略にめどがたった時点で、征夷大将軍を受け、幕府を開こうと考えていた」と話す。一方、脇田修・大阪歴史博物館長は「平氏の流れをくむと自称していたから、平清盛の先例もある太政大臣ではないか」とみている。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080303/acd0803031414006-n1.htm

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信長御殿”簡素だった 「本能寺の変」の舞台で新説

「本能寺の変」(1582年)のおり、織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、ごく小規模な専用御殿だったいう新説を、今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)が発表する。昨年、旧本能寺境内で相次いだ発掘調査の成果などから、「建物は最大40メートル四方クラス」と判断した。予想外に簡素だった理由については「大坂本願寺に移る予定だった」と推定。テレビドラマで繰り返し放送される、大きな本堂前で奮戦する信長は虚像とわかった。

 新説は日文研が近く発行する論文集『王権と都市』に「信長の本能寺“御殿”について」として発表される。

 本能寺は現在、京都市役所の南にあるが、「変」当時は、約1キロ南西の中京区六角通と蛸薬師通、西洞院通と油小路通に囲まれた約120メートル四方の地を境内としていた。

 発掘調査は昨年夏、住宅建設のため2カ所で実施され、東側の調査地からはL字形の堀(幅約6メートル、深さ約1メートル)や焼けた痕跡のある「■(能の異体字)」の文字瓦などが見つかった。西側調査地からは、建物跡などは出なかった。この結果、東側の堀は西に延びず、約40メートル四方の建物を囲むものとわかった。

 信長の生涯を記した『信長公記(しんちょうこうき)』によると、信長は「変」の2年前にあたる天正8(1580)年2月、京都での宿舎を妙覚寺から本能寺に移すことを決め、所司代の村井貞勝に普請を命じた。

 本能寺を始めとする日蓮宗寺院は、「天文法華(てんぶんほっけ)の乱」(1536年)をきっかけに京都から追放されたのが許され戻ってきたばかりで、本能寺も「信長軍に占拠され、寺僧はすべて追放されていた」とする意見も出されていた。

今谷教授は当時の文献を詳しく調べたが、本能寺が他所に移転した形跡はなく、境内東北隅の堀に囲まれた中に、信長の宿舎となる御殿が建っていたと結論付けた。具体的には「ほぼ同時代に建てられた園城寺勧学院(かんがくいん)や同光浄院(こうじょういん)(大津市、いずれも国宝)のような規模の小さい住宅用御殿が建っていた」とみている。

 権力者の京都での御殿としては、豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい)や徳川家康の二条城などが有名。これら本格的城郭に比べ、信長が簡素な建物しか造らなかった理由について、今谷教授は本能寺御殿を建て始めるころ、大坂本願寺が落城寸前で、毛利攻めのため大坂へ本拠を移そうと意図していたと推測している。

 小島道裕・国立歴史民俗博物館准教授(日本中近世史)の話 「信長が本拠を安土から大坂に移そうとしていたのは、後継者の秀吉が大坂城を築いたことからも可能性が高い。京都については、あくまで臨時の宿舎なので、小規模だったのだろう。興味深い説と思う」

 本能寺の変 甲信から京都にかけてを制圧した信長は天正10年5月29日、中国攻めのため、わずかな供を連れ京の宿所だった本能寺に入った。6月2日未明、明智光秀の軍1万3000人が急襲、信長は妙覚寺にいた長男・信忠とともに討たれた。信長49歳。天下統一の業は秀吉に受け継がれた。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080303/acd0803031411005-n1.htm

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2008年01月20日

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信長像迫る 収蔵品205点
家康への文書や画

県立安土城考古博物館(安土町下豊浦)で19日、企画展「信長と安土城―収蔵品で語る戦国の歴史」が始まった。安土を拠点に天下統一を目指した織田信長の事績などについて、205点の収蔵品を前・後期に分けて公開する。

 1992年11月に開館した同館の15周年を記念して企画した。前期(2月24日まで)では、浄厳院(安土町)が所蔵する黒の束帯姿で右手を笏(しゃく)の上に乗せた「織田信長画像」や、10年ぶりに一般公開されたビロード地に金糸で織田家の家紋と龍が描かれた信長所有の陣羽織のほか、長篠の合戦後、信長が徳川家康に送った文書などが並び、信長ファンらを楽しませている。

 観光で訪れたという川崎市中原区、主婦清水朱美さん(61)は「もし、本能寺の変で信長が死ななければ、世の中はずいぶん変わっていたと思うと興味が尽きない」と話していた。

 20日には同館学芸員が「信長文書を読む」、2月17日は「絵図・地図で見る今昔」と題して講座を開く。いずれも午後1時30分~3時で、無料。定員140人(先着順)。

 3月30日までの午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)。大人350円、高校大学生250円、小中学生150円。月曜休館(祝日の場合は翌日)。問い合わせは同館(0748・46・2424)。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shiga/news/20080119-OYT8T00670.htm

期間: 平成20年1月19日(土)~3月30日(日)
開館時間: 午前9時~午後5時 (ただし入館は午後4時30分まで)
入館料: 大人350円(280円)高大生250円(200円) 
小中生150円(120円)
※( )は20人以上の団体料金です。
※「信長の館」との共通券もあります。
休館日:月曜日(祝・休日を除く) 
但し、2月11日(月)は開館し2月12日(火)は休館します。
主な展示資料(◎は重要文化財、□は県指定文化財、△は市町指定文化財)

◎鉄鐔(摠見寺蔵)・△織田信長像(摠見寺蔵)・六角義賢書状・□六角氏式目(個人蔵)・□崇永版大般若経(正禅寺蔵)・近江堅田関係書状集・織田信長判物・安土記・伝織田信澄所用鎖帷子(個人蔵)・勝楽寺文書・豊臣秀吉画像復元模写(原本:多賀大社蔵)・長篠合戦図・安土城跡出土鯱瓦片・徳川家康画像・近江膳所城絵図・金沢城内絵図・□竜王町左右神社文書(左右神社蔵)△安治区有文書(安治区蔵)・□霊仲禅英墨蹟(曹源寺蔵)など200点余を前後期に分けて展示します。
http://www.azuchi-museum.or.jp/

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2007年12月28日

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信長の「敦盛」、福岡の幸若舞保存会が4年がかりで復元

 「―人間五十年、げてんの中(うち)をくらぶれば……」と、織田信長が桶狭間の戦いの前に舞い謡ったとされる幸若舞の敦盛。節回しがわからず「伝説の舞」とされてきたが、国内で唯一、幸若舞を伝承している福岡県みやま市瀬高町の幸若舞保存会(会長=松尾正巳第30代家元)が4年がかりで節をつけ、来年1月20日、同市の大江天満神社で初披露する。

 復元作業の中心となったのは第27代家元の江崎恒隆さん(77)。町に合併話が持ち上がり、「合併すれば伝統芸能が廃れてしまう」と危機感を持ったのがきっかけ。敦盛は能の舞台では演じられるが、「人間五十年……」の謡い回しがなく、動きも幸若舞とは異なる。敦盛をよみがえらせ、幸若舞の保存活動の後押しにしたいと考えた。

 幸若舞は口伝のため、台本は残っていても節回しの手がかりはない。ただ、戦いの場面では速いテンポで勇壮に声を出すなど、場面や感情によって節回しが共通という特徴があった。このため現存する8曲から似たような情景、感情に使われている節回しを探し、一つずつ当てはめていった。

 だが悲哀、恋慕などの表現には多様な節回しが存在し、作業は難航。地道な作業の末、7月に完成した。

 江崎さんは「『敦盛を見たい』という期待の声にやっと応えられる」と連日、練習に励んでいる。本番で舞う松尾さんは「節回しに違和感はなく、信長が舞い謡ったものだと自信を持っている」と胸を張る。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_07122855.htm

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2007年12月13日

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信長の庭園に長良川の石使用? 岐阜公園の居館跡に造園
中日新聞

長良川の河原石を敷いてつくったとみられる織田信長の庭園跡=岐阜市の岐阜公園で
写真

 岐阜市の岐阜公園で発掘された戦国武将、織田信長の庭園とみられる遺構の石敷きを岐阜市教育委員会が調査した結果、長良川の河原石である可能性が高いことが分かった。河原からわざわざ石を運び込んでいることから、市教委は遺構が庭園である有力な裏付けになると判断している。信長の庭園の遺構は全国に例がないという。

 現場は岐阜公園内の金華山のロープウエー乗り場東。地中約50センチの粘土に埋まって、砂岩39個、流紋岩26個、安山岩8個が密集しているのが見つかった。

 市教委がこれらの石を調べたところ、安山岩は長良川の石と特徴が同じと判明した。また石敷きよりさらに深い地層では焼土と炭を発掘。市教委は、1567年に信長が当時の稲葉山城を攻略した後、新たな居館や城下町の整備を進める中で、長良川の石を運んで庭園を造ったとみている。

 信長の庭園は当時のポルトガル人宣教師が居館の付近にあったと記録。発掘調査現場では当時の大通り「大道」や茶室、蔵とみられる遺構も出ている。市教委の高橋方紀主任は「信長の居館跡を特定する手掛かりになる」と話している。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2007121302071704.html

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2007年12月12日

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信長居館の茶室か蔵の跡? 焼土と礎石発見
岐阜新聞

壁土や礎石など火災で焼けた建物跡が見つかった発掘調査現場=岐阜市槻谷
写真

 岐阜市教育委員会は10日、同市大宮町の岐阜公園で実施している織田信長の居館発掘調査で、戦国時代と見られる地層から焼けた壁土と礎石を見つけた、と発表した。茶室か蔵の建物跡の可能性が考えられるといい、市教委は「信長居館の全貌(ぜんぼう)を解明する上で大きな発見。さらに調査し、居館本体との関連や全体的な建物の配置を明らかにしたい」としている。

 今回調査したのは、信長居館の最奥部に位置すると想定される金華山ロープウェー山麓駅の南東部分の山中で、計約50平方メートル。9月下旬から発掘を始めたところ、幅2メートル、長さ6メートルにわたって掘り進めた地点から、約60センチの厚さに堆積(たいせき)した焼土層を確認。その下からは、薄い炭の層と幅25センチほどの礎石1基を見つけた。焼土層の多くは、わらなどでできた厚さ6、7センチの壁土だった。

 年代を特定する遺物は発見できなかったが、地層の状況などから、焼土は1600年に、関ケ原合戦の前哨戦で岐阜城が落城した際の火災を受けたものと考えられるという。礎石が比較的小さく、壁土が通常より分厚いことや、場所の性格などから、茶室か蔵の建物跡と考えられ、今回の調査現場よりもさらに下の平坦地に居館本体があった可能性が高いという。

 ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、信長居館の上層階について「3階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下がある」などと記述しており、信長居館発掘調査専門委員会の中井均さん(米原市教育委員会)は「まさに(この記述を)ほうふつとさせる遺構」と指摘。大阪市立大学の仁木宏准教授も「奥座敷のような場所に戦国時代の建物があったことが確認でき、大量の焼土、壁土も驚くべき発見」と評価した。

 市教委は、来年度も引き続き調査を続け、建物の性格や範囲などを明らかにしたい考え。22日午後1時から現地説明会を開く。同発掘調査は、居館本体の建物位置や構造を明らかにするため、今年6月から3地点で順次実施してきた。既に調査を終えた2地点からは戦国時代の大通りと庭園の一部と見られる遺構が発見されている。
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20071211/200712111049_3545.shtml

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2007年12月11日

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信長の茶室か、礎石発掘 岐阜公園の居館跡、蔵の可能性も
中日新聞

地中から発掘された、茶室か蔵の跡とみられる礎石=10日、岐阜市の岐阜公園で
写真

 岐阜市の岐阜公園で戦国武将、織田信長の居館跡の発掘調査を実施している同市教育委員会は10日、建物の柱を立てるための礎石を発掘したと発表した。茶室か蔵があったとみられ、居館跡の特定につながる可能性もあるとしている。

 現地は金華山西側のふもと標高40メートルの斜面。11月上旬に地中1メートルに埋められた長さ25センチの石を発見した。石は角がない河原石で、表面が平らなことから、柱を立てた礎石だと判断した。

 戦国時代に居館を訪れたポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスは、居館の上の斜面に茶室があったとの記述を残した。礎石が見つかった場所は居館があったと考えられる区域の上の斜面に当たり、礎石は茶室跡の可能性がある。同時に居館跡を特定する手掛かりとしても注目される。

 礎石の上からは焼けた土の層(厚さ60センチ)を発掘。赤く焼けた壁土が大量に交ざり、蔵があったとの見方も浮上した。蔵だとすれば、周辺から貴重な宝物が見つかる可能性もあるといい、今後、建物の特定に向け調査を続ける。

 22日午後1時からは現地説明会を開く。これまでに城下町にあった大通り「大道」や、庭園とみられる遺跡を発掘した。

 織田信長や豊臣秀吉時代の城などの建築物に詳しい織豊期城郭研究会(大津市)の中井均代表は「大きな建物と比べると、今回見つかった礎石は小さい。まずは茶室か、休憩所である東屋(あずまや)が考えられる。ただ、茶室や東屋は土壁を必要としないので、茶室と蔵の両方があったのかもしれない」と推論した。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2007121102071133.html

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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