2007年12月27日

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旧本能寺の建物跡が初出土 周辺からは「変」の焼土
朝日コム

 織田信長が明智光秀の謀反で自害に追い込まれた「本能寺の変」(1582年)の舞台になった旧本能寺跡(京都市中京区)で、建物の痕跡が見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が26日、発表した。建物の痕跡の発見は初めてという。

 マンション建設に伴う約100平方メートルの発掘調査で、16世紀中頃の建物の柱の礎石を支えたとみられるこぶし大の石が数十個集まった「集石(しゅうせき)」が3カ所で見つかった。集石は約2・4メートル間隔で、何らかの比較的小さな建物があった可能性が高いという。近くから同時代の土器のほか、寺跡内の別の場所でも見つかっている本能寺の変で焼けたと推測される壁土や、寺の銘入り軒丸瓦1点も出土した。

 また、約70メートル南東の別の調査地で寺の南端を示す堀の跡も見つかった。南端は文献によって食い違っていたが、これでほぼ特定できるという。

 本能寺の変の様子は文献で描かれているが、寺の伽藍(がらん)配置はわかっておらず、調査員は「不明な点がまだ多いが、今後の調査につながる成果だ」と話している。

 本能寺はたび重なる火災で場所を変え、1545年に今回の調査場所の付近に移った。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200712260069.html

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2007年12月26日

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本能寺跡で堀の一部見つかる
NHKニュース

織田信長が明智光秀に攻め滅ぼされた京都の本能寺の跡から、戦乱に備えて整備されていたとみられる堀の一部が見つかりました。本能寺の周りに堀があったことは当時の文献にも記されていますが、実際に確認されたのは初めてです。
http://www3.nhk.or.jp/knews/news/2007/12/26/t20071226000120.html

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2007年12月17日

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能美の西山古墳群 砦跡発見 織田の陣城か 
中日新聞

中世墓、弥生の遺構も
複合遺跡裏付け
 能美市の国指定史跡・秋常山古墳群東側に広がる西山古墳群の一部で、弥生時代の遺構や鎌倉時代の中世墓、戦国時代の砦(とりで)跡などが見つかった。本年度から実施した詳細分布調査で明らかになった。いくつかの時代にまたがる複合遺跡であることを裏付ける貴重な史料になる。 (田嶋豊)

 十五日に現地説明会があり、学芸員らが考古学愛好家らに調査経過を中間報告した。

 砦跡などが見つかったのは、西山古墳群の南尾根の一角。この一角には昭和三十年代から四十年代の踏査で二つの古墳があるとされていたが、今回の調査で古墳ではなく山城の一部であることが分かった。

 市学芸員によると、山城は曲輪(くるわ)や高さ一・五メートル前後の土塁、切岸などを備えている。小規模で簡易的なつくりであることから、短期決戦を目的とした臨時的な砦だったとみている。

 戦国時代末期に加賀国へ進出し、上杉謙信と手取川で対峙(たいじ)した時に築かれた織田軍の陣城、もしくは近くの和田山城に築城した一向一揆軍を攻めるのに築いた織田軍の陣城だった可能性があるという。

 同所からは弥生時代終末期の土壙(どこう)墓や柱穴と思われる遺構なども見つかった。土塁をつくるために使われた盛土から素焼きの陶器が大量に出土。珠洲焼片や河原石もあり、鎌倉時代を中心とした中世墓とみている。

 西山古墳群は徳久、高座、秋常の三町内にまたがる丘陵上に分布する古墳群。二〇〇九年度まで部分的な発掘調査を含め、規模の確認や歴史などを明らかにしていく。
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20071216/CK2007121602072651.html

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2007年12月09日

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加古川城にも「のこぎり横町」 姫路の研究員が確認
神戸新聞

 戦国時代「賤ケ岳(しずがたけ)の七本槍(やり)」の一人として、豊臣秀吉に仕えた播磨の武将糟谷(かすや)武則(たけのり)。その居城「加古川城」があった今の加古川市加古川町かいわいで、城下町の痕跡を今に伝える「のこぎり横町」の地割りが見つかった。姫路市立城郭研究室技術主任、多田暢久さん(42)の調査で明らかになったもので、多田さんは「城下町・加古川というこれまで想像しにくかった町の姿が浮かび上がってくる」と話している。(三津山朋彦)

 見つかった地割りは、通りに面した住宅の間口をギザギザにしたもので、侵入してきた敵を建物の壁に隠れて迎え撃つために造られたといわれる。多田さんによると、このギザギザの地割りは城下町の特徴の一つで、兵庫県内では姫路市の「のこぎり横町」などに見られるという。

 加古川では、城域を東西に横切る山陽道の両側付近二カ所に見られ、防衛上の役割を果たしていたと考えられる。

 多田さんは加古川市在住。加古川城跡と伝えられる称名寺(同市加古川町本町)周辺の地籍図を調査したところ、明治時代作製と思われる図に「城ノ開地」と記されていた。寺の周囲には堀が残り、城の内堀に似た構造を示していた。

 また、寺の西側から水路が北西に延び、現在の国道2号を越えて日本毛織の敷地内に及び、そこから南東に折れて、寺家町と本町の町境沿いに南下していた。この城の外堀と思われる水路の一部は現存し、当時の名残をとどめていた。

 多田さんは、戦国時代の築城法から外堀の内側に城下町が広がり、市場や住居が立ち並んでいたと推定。細かく地籍図を見ていくと、今の寺家町商店街から西に延びる旧山陽道沿いで、道に面した住宅の間口がギザギザに記されていることが分かった。

 多田さんは「加古川は河川、陸上交通の接点で軍事上重要な町だったため、秀吉も信頼の置ける側近の糟谷武則に治めさせたのだろう」と話している。
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0000764227.shtml

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2007年10月31日

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島根・雲南で中世の製鉄炉跡4基を確認
Yahoo!ニュース 産経新聞

島根県雲南市吉田町の大志戸IIたたら跡で、鎌倉~戦国時代(13~16世紀)のたたら製鉄炉跡4基が見つかり、10日、同県埋蔵文化財調査センターが発表した。近くの遺跡でも昨年度までに、14世紀ごろとみられる同製鉄炉跡2基を確認。中世の製鉄炉跡が、集中的に確認されたのは、全国的にも珍しい。

 今回見つかった製鉄炉跡は、谷川沿いの半径50メートル内にあった。13、16世紀の跡が各1基、14世紀が2基。大きさは、長さ2・6~4・2メートル、幅1・2~1・5メートルだった。14世紀以降の3基は、製鉄の過程で生じる不純物を流し込む円形の土坑(どこう)がたたらの両端に造られた鉄アレイ型と呼ばれる県東部独特の構造。近くの遺跡で確認の製鉄炉跡も同様の構造で、同調査センターでは「製鉄技術の地域性や発展を知る貴重な史料」と評価している。

 現地説明会は13日午後1時半までに、雲南市掛合町の市立掛合小に集合。問い合わせは現地事務所((電)0854・62・0107)。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071011-00000039-san-l32

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2007年10月22日

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シリーズ裸の東京・道灌旋風の吹いた跡
Yahoo!ニュース

東京・中野区沼袋、江古田公園近くに、「江古田沼袋古戦場」の石碑が立っている。文明9年(1477)4月の太田道灌と豊島泰経との戦いの跡である。関東管領の上杉家に叛旗を翻した家宰の長尾景春に同調した豊島泰経、泰明兄弟は、この江古田沼袋で上杉方の太田道灌と激突、軍略に優れた道灌が豊島兄弟を打ち破った。程なく、豊島一族の石神井城も落城する。

この太田道灌の登場は、歴史の節目であろう。戦術面では、これまでの一騎打ち中心の戦い方から、足軽という下級の歩兵による集団戦法へと変化せしめた。

また、江戸城を築城したことは、その後の地域史の上でも画期的なことである。後に徳川幕府が開かれ、明治以降は皇居となって現在に至る。江戸という関東の一地域から、世界的に注目を集める日本の首都・東京へ。その足かがりを作ったのが上杉家の家宰、太田道灌であった。だが、その優れた才能ゆえに、野心を疑われ、主君である上杉定正に暗殺された。

公方家、管領家といった室町幕府の出先機関や土着の豪族たちが治乱興亡を繰り返す戦国時代の東京23区は、人間の権力欲むき出しのままで、中央政権的な建前で着飾る時期ではまだなかった。
(記者:菊池 道人)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071022-00000001-tsuka-l13

コラムにもありますが、関東管領[かんとうかんれい]の一流である扇谷上杉[おおぎがやつ]の太田道灌[おおたどうかん]の足軽隊は戦国の合戦を一変させました。
鎌倉時代以降、武士達の合戦は一騎打ちが主流で、逃げるのは卑怯中の卑怯と考えられていました。
足軽のように集団で活動し、相手の弱点を一気に攻め、状況が危うくなったら一気に引くことなど論外、言語道断の行為でした。
太田道灌が足軽隊を考え出したわけではないのですが、太田の足軽隊以前の足軽隊は傭兵が多かったようです。つまり金で雇われた没落農民や浮浪者達の烏合の衆でした。道徳や規律など気に掛けず、動きもバラバラで皆自分勝手、戦況が危うくなると勝手に故郷に逃げ帰ってしまいます。
それを「足軽軍法」でまとめ上げ、組織化したプロ集団に育て上げたのが、太田道灌だといわれています。
太田道灌の足軽隊は数ある戦で連戦連勝し一躍有名になっていきます。
こうして、太田道灌の足軽戦法を習いにして、足軽戦法がその後の戦国時代の合戦で主流になっていくのです。

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2007年10月13日

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信長の庭園か、遺構発見 岐阜公園で市教委

多数の河原石が見つかり、庭園と裏付けるために岐阜市教育委員会が調査している信長居館跡の発掘現場=岐阜市の岐阜公園で


 戦国武将、織田信長の居館跡発掘調査を岐阜市の岐阜公園で実施している市教育委員会は十一日、信長が治めた十六世紀後半の地層で約六十個の河原石が敷き詰められているのが見つかったと発表した。石は粘土に埋め込まれるなどの特徴から、庭園の可能性が高いとみて調査している。

◆「州浜」に類似
 現場は金華山へのロープウエー乗り場と三重塔の間の平らな場所。地中約五十センチまで掘り進めたところ、帯状に長さ約六メートルの範囲で、所々でこぶし大の石が密集して埋まっているのを発見した。石は平らで、丸みを帯び、河原石の特徴と一致する。市教委によると、当時の庭園は水際に河原石を敷いて「州浜(すはま)」に仕立てたのが一般的。今回出土した遺構は構造が似ているため、庭園の可能性が高いと判断した。

 角のある石を五個立てて並べた石列(いしれつ)も見つかり、石列は河原石が崩れないように固定する州浜のすそ止めだった可能性がある。現場の東十数メートルにはわき水が出ていて、そこから水を引いたとの見方もある。

 地層は、出土した陶器の破片や火災の痕跡などから十六世紀後半とみられるという。この時代の大名の庭園は、福井県の朝倉氏や大分県の大友氏などの遺跡で見つかっている。今回、確認されれば、信長にまつわる遺跡では初めて。

 当時、信長の居館を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書にも「(池の)底には入念に選ばれた清らかな小石や目にも眩(まぶ)しい白砂があり…」との記述がある。市教委はこの遺構が庭園であることを裏付けるため、専門家の意見を聞きながら、〇八年度以降も範囲を広げて州浜を探す。河原石がどこで産出したかも調査している。

 京都造形芸術大の仲隆裕教授(庭園史)は「石列の南側には水が流れていたか、池であったと考えられる。部分的に石が集まっている場所は、趣を添えるために配置した景石(けいせき)や手洗いの水を入れる手水鉢(ちょうずばち)の可能性がある」とコメントした。
 (丸田稔之)

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20071012/CK2007101202055688.html
中日新聞


先日の本能寺の屋根瓦といい、今回の遺構といい続々と信長関連の遺構が発掘されていますね。
それにしても、ポルトガル人宣教師 ルイス・フロイスという人は良い仕事したなとつくづく思います。
この人が「日本史」を書かなかったら、現在知られている戦国時代の流れも大分変わって伝わっていた可能性があります。
彼は当時の事件や風習はもちろん、建物なども、著書・日本史で細かく描写しています。
時の人、信長関連では信長の一代記「信長公記」に書かれていない内容も多くあり、
それどころか、同じ事象を取り扱う場面で、信長公記とはまったく違う内容で、より信憑性が高いと思われる記述があると言います。
まず、客観性の観点から言いますと、こちらのほうが、ずば抜けて高いと思われます。
というのは信長公記は信長の家臣・太田牛一[おおたぎゅういち]、所謂、身内が書いていますので、
どうしても信長よりに書かれていて、信長に都合が悪いことは書かなかったと思われるからです。
ただし、ルイス・フロイスは外国人なので日本の風習を熟知していなかったと思われるので、記述がおかしくなると言う事実を考慮しなければなりませんね。

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かんりにん一言

日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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