2008年02月09日

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安土城の石垣沿い通路は城内だった 2カ所目の「虎口」発掘
中日新聞

 織田信長が築いた安土城(安土町、東近江市)の城跡南側の石垣から、城郭の出入り口「虎口」の遺構が新たに確認され、県安土城郭調査研究所が8日、発表した。近くで昨秋見つかった虎口と同様、防御性は低く、研究所は「石垣に沿った通路は、家臣らが使った城内路であったことを裏付ける発見」としている。

 研究所によると、虎口の遺構は幅約4・5メートル、奥行きは約4メートル。幅約90センチの石段が3段あり、大手門と西側の百々橋口のほぼ中間に位置している。東側に幅約30センチの石組み側溝があり、南側通路の側溝につながっていたとみられる。

 虎口は廃城後、畑になっていた場所の土留め石を取り除き、築城時の石積みを再現する工事の過程で出土した。昨秋、約23・5メートル西で見つかった虎口とほぼ同規模だった。

 これら2つの虎口が確認されるまでは、石垣が城域の南端で、石垣沿いの通路(長さ約400メートル、幅約6メートル)は商人や庶民らが通行した城外路だったとみられていた。

 ところが、これらの虎口は礎石の規模などから敵の侵入を防ぐ「枡(ます)形虎口」ような重厚な造りではないことが判明した。

 研究所は「通路は武士や家臣らが使った城内路だった」と結論付けた上で、近世城郭と同様、内堀が外郭であったとみている。

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20080209/CK2008020902086160.html

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2008年02月08日

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安土城の全容解明は後世に
08年度で調査終了、史跡の8割残す
京都新聞

 滋賀県安土町にある国の特別史跡安土城跡の調査・整備事業が2008年度で終了する。これまでに調査が終わったのは史跡指定面積の2割で、織田信長が天下布武の拠点として築いた城の全容解明は後世に託されることになった。

 発掘調査を担当してきた県安土城郭調査研究所は「調査を続ければまだ明らかになることも多かったはず」と落胆している。

 安土城跡の調査・整備事業は1989年度から20年計画で始まった。天主跡や大手門周辺、伝羽柴秀吉邸跡などの屋敷地などを調査、整備し、城の基本構造が次第に明らかになってきた。

 同研究所によるとこれまでに調査、整備を終えたのは史跡指定面積96ヘクタールのうち約17ヘクタール。眺望が開ける八角平は手つかずのままで、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが書き記した山中の庭園の有無も確認できていない。主郭部のとりで3カ所も未調査だ。

 すべて整備を終えるには50年から100年は必要といい、財政構造改革を進める県は、計画の最終年度となる2008年度以降は事業を継続しないことを決めた。

 史跡近くを通る県道の改良工事に伴い、信長が京都に上るため整備した「下街道」の発掘調査などの将来構想もあったが、実現の可能性は不透明という。

 同研究所の近藤滋所長は「この20年で基本構造が分かり、ほかの城と比較できるようになってきた。こんな状況だから仕方ないが、防御の遺構などを整備できず、県民の期待に応えることができないのは残念」と話している。

 安土町の津村孝司町長は「やり残したことがたくさんあると聞いている。やがてまた再開できる時が来ると期待している」としている。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008020800153&genre=M2&area=S00

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2008年02月05日

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新名神に「穴太積み」
甲賀 コンクリ壁の強度上回る

新名神高速道路沿いの東海自然歩道に築かれた穴太積みの石垣(写真:甲賀市甲南町)
 23日に部分開通する新名神高速道路の建設に伴い、滋賀県甲賀市甲南町と水口町の区間脇に付け替えられた東海自然歩道沿いの壁に、大津市坂本に伝わる「穴太(あのう)積み」が採用された。織田信長が築城した安土城など、全国の名城でみられる強固な石垣として知られるが、京都大学大学院などによる施工前の耐力実験で、コンクリートブロック壁の強度を上回るとの初のデータも得られた。伝統技術を継承する「穴太衆」として施工した職人は「先人の技術の高さが立証された」と感慨を深めている。

 新名神は県立自然公園内を通るため、西日本高速道路大津工事事務所が、自然環境との調和などを狙いに穴太積みに着目した。現在残る唯一の穴太衆として全国の城壁修復を手掛ける大津市坂本3丁目の粟田建設(粟田純司会長)が、工事で出た花こう岩を再利用し、2004年3月、高さ3・5メートル、長さ260メートルの石垣が完成した。

 穴太積みは自然石を積み上げ、石垣奥に小さな「栗石」を大量に入れて強度と排水性を高めるのが特徴。目地に詰め物をしない空積みという高速道路工事では珍しい工法になり、安全性を立証するため耐力実験が必要になった。

 現場に高さ3・5メートル、幅8メートルの石積みとコンクリートブロック壁を造り、上部と背後から装置で圧力をかけた。ブロック壁は200トンの圧力で亀裂が入ったが、穴太積みは十数センチのせり出しがあった程度。230トンでブロック壁は壊れそうになり実験を中止したが、穴太積みは250トンの圧力でも持ちこたえ、十分な強度や耐震性があることが裏付けられた。

 東海自然歩道は信楽インターチェンジに近く、重厚な穴太積みはハイカーらの目を引きそう。穴太衆十四代目の粟田純司会長(67)は「耐力実験は初めてだったが『石の声を聴き、石の行きたがるところへやれ』との言い伝えを守った石積みには自信があった。今後は城の修復だけでなく、実験データを基に近代的な建造物にも仕事を広げたい」と話している。

 ■穴太衆 古墳時代(3世紀末-7世紀)に大陸から渡来し、比叡山麓(さんろく)の大津市穴太あたりを本拠とした石工集団がルーツとされる。比叡山の石垣構築や修理を担い、戦国時代、全国各地の城郭の石垣づくりで名をはせた。諸説あるが、西日本を中心に現存する全国の城のおよそ8割を手掛けたという。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008020300035&genre=K1&area=S10

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2007年12月02日

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名護屋城は大坂城級 規模・格式「秀吉の居城裏付け」 唐津市
西日本新聞

 佐賀県唐津市鎮西町の県立名護屋城博物館は30日、豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点とした名護屋城本丸御殿跡から、計10棟の建物群の遺構が見つかったと発表した。同博物館は、建物群の規模や配置が大坂城の本丸図と類似しているとして「大坂城に匹敵する規模と格式を備えた、秀吉の居城だったことが裏付けられた」としている。

 同博物館が行った今回の調査(2004‐07年度)では、建物の礎石や通路の玉石敷を新たに発見。1996年度に確認された2棟を含む計12棟の建物群の延べ床面積は約1500平方メートルとなり、本丸の中央付近に大小の建物が密集していたことが判明した。

 中庭と思われる広い玉石敷、排水用の溝などを伴う建物もあり同博物館は「それぞれの建物は連結して機能していた」とみている。発掘調査では中国産の染付(そめつけ)磁器、土師(はじ)器の皿、上質な鬼瓦の破片なども見つかった。

 当時の名護屋城の様子を伝える「肥前名護屋城図屏風(びょうぶ)」(佐賀県重要文化財)には、本丸に書院造り風の建物が密集して描かれている。

 城跡の保存整備委員会会長の河原純之・元文化庁主任文化財調査官は「本丸に予想以上の建物があることが調査で分かった。屏風絵と方向が合致する建物もある。近世の城郭研究において、全国でも貴重な遺構だ」と話している。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/saga/20071201/20071201_003.shtml

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2007年11月23日

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岩槻城の復元願う 築城550年を迎え市民の声高まる 市のシンボルにと市長に要望
埼玉新聞

戦国時代に築城され、室町幕府の東国支配の拠点とされた岩槻城。現在、さいたま市岩槻区内に面影を残すものはごくわずかだが、築城五百五十年を迎えた今年に入って復元を願う声が高まっている。六月には、区内の商工団体や自治会などが賛同し「岩槻城復元推進協議会」(遠藤正義会長)を設立。十月にはさいたま市長あてに復元を求める要望書を、約二万六千七百人の署名を添えて提出するなど、市民レベルでの盛り上がりを見せている。

◆太田道真・道潅父子が築城
 岩槻城は一四五七(長禄元)年、太田道真・道潅父子により築城された平城。当時、古河公方勢力に対抗していた上杉勢が、江戸城、川越城とともにほぼ同時期に築いた。

 後北条氏の支配の後、小田原城の支城となった岩槻城は、一五八九(天正十七)年の豊臣秀吉による小田原攻めにより翌年陥落。後の徳川家康の所領になる。当時は水堀に囲まれ、約九十二万平方メートルの広さだったと言われている。明治政府による廃藩後の一八七二(明治五)年、入札により民間に払い下げられ宅地化が進んだ。

 岩槻城は現在の市街地の東側に築かれ、元荒川の半島状に突き出た台地に本丸、二の丸、三の丸などがあった。北側に新正寺曲輪(しんしょうじくるわ)、南側に新曲輪(しんぐるわ)があり、西側に武家屋敷や城下町が広がっていたという。

 石垣は造られず、土を盛り上げて土塁を造る関東では一般的な城郭で、現在は南端の新曲輪、鍛冶曲輪(かじぐるわ)跡が県史跡に指定。一九九五年には後北条氏の勢力下を裏付ける堀障子が見つかっている。

◆旧岩槻市民の誇り
 現在、目に見える形で岩槻城の面影を残すものは、城址公園内に移設された「黒門」「裏門」など数えるほど。中には城があったことすら知らない市民も増えてきているという。地元・岩槻の歴史を三十年以上にわたり調査している同区東町の小宮正男さん(64)によると、岩槻城復元を願う声は一九八七年ごろ、当時の岩槻市民の間から持ち上がった。

 運動は二十年来、岩槻ライオンズクラブ内の委員会を中心に続けられてきた。「岩槻は(現在の埼玉県域の)中心地の一つとして栄えていた」という思いを残す人も多く、岩槻市がさいたま市に編入合併された一昨年には、「さいたま市のシンボルになる」として市長に復元を要望。築城五百五十年の今年、同じく市長に提出された署名には、岩槻区を中心にした法人や個人が名を連ねた。

 「二万六千人を超す署名は、それだけ市民に深い気持ちがあるということ。岩槻の歴史と文化を語り継がなければいけない」と小宮さん。岩槻城復元推進協議会の遠藤会長は「建設予定の人形会館を岩槻城にちなんだ外観にするなど、やり方はある」と実現可能な案を示す。

 旧岩槻市民が抱いている「岩槻城」という誇りをさいたま市に広げたい。復元の願いには、そんな郷土愛が込められている。
http://www.saitama-np.co.jp/news11/23/11x.html

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2007年11月20日

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安土桃山末期の強固な石垣 岡崎城(愛知)で発見、国内4番目の規模
中日新聞

徳川家康が誕生した愛知県岡崎市の岡崎城の「大林寺郭(くるわ)堀」跡で、安土桃山時代末期に築かれたとみられる二段になった防御用の強固な石垣が見つかった。関ケ原の戦い(一六〇〇年)以前の城郭では高さと長さでは類を見ない総石垣造りの上、石垣は天守から五百メートルも離れており、日本の城としては江戸城、豊臣政権下の大坂城、拡張を繰り返した幕末の姫路城に次いで四番目に巨大な城だったことが証明された。三日に現地を視察した城郭研究の第一人者である広島大大学院の三浦正幸教授(53)=文化財学=は「近年まれにみる大発見」と注視している。

 見つかったのは、岡崎市材木町のマンション建設予定地。民有地で、開発に伴い市教育委員会が今年二月の試掘で石垣を確認。九月下旬から本格的な発掘調査を進めている。

 石垣は地表のすぐ下で見つかり、全長約三十メートルに及ぶ。総堀の内側にあった外堀の「大林寺郭堀」で、上段と下段の間に幅一-二メートルの「犬走り」と呼ばれる通路がある。高さは約七メートルあり、自然石をそのまま積み上げる「野面(のづら)の乱積み」と呼ばれる築造方法だった。

 市教委は、石垣周辺で見つかった道の遺構などとともに石垣の埋蔵状況を写真撮影して記録。調査は今週半ばまでの予定のため、既に上段の石垣は長さの三分の二程度が解体されている。

 三浦教授によると、野面の乱積みによる犬走りの構造は、城造りのピークを迎えていた一六〇八(慶長十三)年以前の形式。当時の築造技術では高い石垣が造れず、築かれた場所は低湿地など地盤が軟弱な土地だったことから、犬走りを設けて二段にして補強した。「関ケ原以前の城郭では二の丸の外側にこのような石垣は造っておらず、大変貴重」という。

 この石垣は天下を取った豊臣秀吉の命で、一五九〇(天正十八)年に岡崎城主となった田中吉政(一五四八-一六〇九年)が築いたと推定。この年、関東に移封された家康のかつての本拠地で、豊臣政権が権勢を誇示し、政略、戦略的に重要な位置を占める狙いがあったのではないかという。

 岡崎市教委は江戸時代の城絵図や文献などから、この石垣は一六〇一(慶長六)年に岡崎城主となった本多康重(一五五四-一六一一年)が主君家康の命で整備した堀の一部とみていた。これまで岡崎城の外堀などの本格的な石垣は見つかっていない。

 三浦教授は「国や市の文化財指定も受けておらず、民間の開発を止める法律はない。解体されるのは大変惜しまれる」と話している。

 ■岡崎市教委文化財班の話 民有地なので現時点では保存は難しいと思う。中世城郭の専門の学芸員はいなく、専門家の判断を仰ぎたい。

 【岡崎城】1452(享徳元)年ごろ、三河守護代の西郷頼嗣(よりつぐ)が築城。1531(享禄4)年、徳川家康の祖父松平清康が城主となり、本格的な城郭を持つ城に改修。1542(天文11)年、家康が城内で誕生し、幼少期に人質として駿河で過ごした後、1570(元亀元)年まで岡崎城に居城、天下統一への基礎を固めた。江戸時代には「神君出生の城」として重要視されたが、明治維新後、城郭の大部分が取り壊された。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2007110402061658.html


岡崎城 巨大規模だった 家康の生誕地 強固な二段式石垣発見
東京新聞

発見された安土桃山時代末期の岡崎城の中堀の2段の石垣(石垣と石垣の間は犬走りと呼ばれる)=愛知県岡崎市材木町で(写真解説文)

 徳川家康が誕生した愛知県岡崎市の岡崎城の「大林寺郭(くるわ)堀」跡で、安土桃山時代末期に築かれたとみられる2段になった防御用の強固な石垣が見つかった。関ケ原の戦い(1600年)以前の城郭では高さと長さで類を見ない総石垣造りの上、石垣は天守から500メートルも離れ、日本の城としては江戸城、大坂城、姫路城に次ぐ4番目に巨大な城だったことが証明された。3日に現地を視察した城郭研究の第一人者で広島大大学院の三浦正幸教授(53)=文化財学=は「近年まれにみる大発見」と注視している。

 見つかったのは、岡崎市材木町のマンション建設予定地。開発に伴い市教育委員会が試掘で石垣を確認し、九月下旬から本格調査を進めている。

 石垣は地表のすぐ下で見つかり、全長約三十メートル。総堀の内側にあった外堀の「大林寺郭堀」で、上段と下段の間に幅一-二メートルの「犬走り」と呼ばれる通路がある。高さは約七メートルあり、自然石をそのまま積み上げる「野面(のづら)の乱積み」と呼ばれる築造方法だった。

 三浦教授によると、野面の乱積みによる犬走りの構造は、城造りのピークを迎えていた一六〇八(慶長十三)年以前の形式。当時の築造技術では高い石垣が造れず、低湿地など地盤が軟弱な土地に犬走りを設け、二段にして補強した。「関ケ原以前の城郭では二の丸の外側にこのような石垣は造っておらず、大変貴重」という。

 この石垣は豊臣秀吉の命で、一五九〇(天正十八)年に岡崎城主となった田中吉政(一五四八-一六〇九年)が築いたと推定。この年、関東に移封された家康のかつての本拠地で、豊臣政権が権勢を誇示し、政略、戦略的に重要な位置を占める狙いがあったのではないかという。

 岡崎市教委は江戸時代の城絵図や文献などから、この石垣は一六〇一(慶長六)年に岡崎城主となった本多康重(一五五四-一六一一年)が主君家康の命で整備した堀の一部とみていた。これまで岡崎城の外堀など本格的な石垣は見つかっていない。

 三浦教授は「国や市の文化財指定も受けておらず、民間の開発を止める法律はない。解体されるのは大変惜しまれる」と話している。

保存は難しい
 岡崎市教委文化財班の話 民有地なので現時点では保存は難しいと思う。中世城郭を専門とする学芸員はおらず、専門家の判断を仰ぎたい。

<メモ>岡崎城 1452(享徳元)年ごろ、三河守護代の西郷頼嗣(よりつぐ)が築城。1531(享禄4)年、徳川家康の祖父松平清康が城主となり、本格的な城郭を持つ城に改修。42(天文11)年、家康が城内で誕生し、幼少期に人質として駿河で過ごした後、70(元亀元)年まで岡崎城に居城、天下統一への基礎を固めた。江戸時代は「神君出生の城」として重要視されたが、明治維新後、城郭の大部分が取り壊された。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2007110502062051.html

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2007年10月17日

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幻の魚津城 木工で創作 木地職人西川さん 『地元PRの一助に』
中日新聞

木工で魚津城-。魚津市大海寺野の木地職人、西川勝治さん(63)=西川工芸経営=が、魚津城をモチーフにした木工品「戦国 幻の魚津城」を制作し、十六日に同市役所で沢崎義敬市長に一セットを寄贈した。

 西川さんがイメージした五層の天守閣を頂く魚津城で高さ約四十センチ、土台となる石垣部分は縦横約十五センチ。城部分がケヤキ、石垣部分がセンの木を材料に約四十個の部品を組み合わせて仕上げた。

 魚津城は室町時代に松倉城の支城として、椎名氏が築城したとされている。戦国時代には新川郡の拠点として織田勢と上杉勢の戦いの地となり、その後、佐々成政や前田利家が支配した。

 江戸時代初期に廃城となったが、加賀藩は米蔵や武器庫を置き、魚津町が近世城下町として繁栄した。明治初期まで堀や土塁も残されていたが、現在は石垣の石が大町小にある石碑周辺に残されるだけで、城の外観を示す資料などは残っていない。

 西川さんは魚津漆器の木地職人。これまでに五重塔、たてもん祭りのたてもんなどの木工品を制作して販売している。まちづくりに向けた雰囲気を高め、魚津を全国にPRする一助になればと八月から城の制作を手掛けた。

 西川さんは「生涯の仕事として、魚津城を木工品で表現したいと思っていた。石垣部分の木彫りは初めて挑戦した。魚津城の木工品で少しでも魚津を知ってもらえればうれしい」と話している。

 現在は、寄贈分を除く完成品十個は、魚津産業フェア「〇〇(まるまる)魚津」に出展する予定。

 木工品は、魚津城、旗、松、台座、上杉謙信が詠んだとされる句を印刷した色紙のセットで販売する予定。予約は、西川工芸=電話0765(22)4008=へ。 (武田寛史)

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20071017/CK2007101702057014.html

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2007年09月21日

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黒田如水(黒田孝高 よしたか)が築城した中津城が売りに出ていると言う。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2007/09/18/02.html

黒田孝高という男は終には天下人となった豊臣秀吉に仕え、その軍師として竹中半兵衛とともに秀吉の二兵衛[にひょうえ]と呼ばれ双璧をなした。
黒田孝高や黒田如水というより、通称の黒田官兵衛の方が有名かもしれませんね。

黒田官兵衛なくしては、秀吉の天下人達成はなかったと断言できるほどすばらしい働きをしています。

官兵衛が本領を発揮しだしたのは捕虜という苦境から助け出された時からでした。
荒木村重が信長に謀反を起して有岡城[伊丹城]に篭城した際、直談判をしに乗り込みましたが、
逆に捕らえられ、一年も狭い土牢に閉じ込められたのです。足が曲がってしまうほどの狭い土牢だったそうです。
実際その後は、歩行すら困難になりましたが、
武芸ではなく智謀・知略を必要とする軍師にとって、足の障害も致命的な痛手にはならなかったようです。
後に黒田官兵衛はキリシタンになりますが、この頃の辛い思いや、のちの梅毒への罹病が影響していたのかもしれません。

そしてこの時のエピソードは良く知られていますね。
官兵衛がなかなか戻ってこないので、信長は官兵衛が荒木村重側に寝返ったと思い、信長に(秀吉預かり)人質として入れられていた官兵衛・嫡男の松寿丸[長政]を処刑しようとしましたが、
病身の竹中半兵衛の機転(秀吉の了解の下、密かに信長の命に逆らい保護した)により、松寿丸の処刑は危うく免れています。本当に危ないところでした。
ここで松寿丸が殺されていたら、その後のしがらみで官兵衛の活躍も無かっただろうから、当然、秀吉の天下も無かったかもしれない。
後の関が原で一番武功を立てた黒田長政もいなかったのですから、家康の時代も来なかったかもしれません。
言い始めたらキリがありませんが、これが歴史の面白さです。
ちなみに竹中半兵衛は官兵衛が救出される半年前に、三木城攻めの本陣・平井山の陣中で病死しています。

その後は秀吉の軍師として、旭日天に昇る勢いの活躍を見せます。
因幡・鳥取城の兵糧攻め、備中・高松城の水攻め、賤ヶ岳の戦い[しずがたけのたたかい]、小牧・長久手の戦い[こまきながくてのたたかい]、四国平定、九州平定、小田原攻めなど、
秀吉の中国遠征以降、殆どの重要な合戦で各種名案を策し、展開していきます。

そして、この城・中津城の話に戻りますが、築城年は天正16年(1588年)です。

この頃の流れを見て見ましょう。
天正16年というと、いよいよ秀吉の天下取りも終盤戦に差し掛かってくる頃でした。
四国や九州の平定が終わり、
秀吉の命によりキリスト教を棄教し、
嫡男の黒田長政に家督を譲って隠居した頃です。
つまり、黒田孝高が如水軒と号し隠居した後に暮らした本拠地・城が中津城です。
隠居と言っても長政に家督を譲り、黒田如水となってからも秀吉に仕え、
小田原征伐や文禄・慶長の役の朝鮮出兵にも参加しています。
これでは隠居と言えませんね。
その朝鮮出兵の際に石田三成とごたごたがあり、黒田如水は引退し中津城に篭りました。
秀吉が死んだ後は京都に行き、伏見屋敷ですごしたりしていました。

そして、またもや戦場に呼ばれることになります。
慶長5年 1600年、ご存知の関が原の合戦が起こります。
九州に移動していた黒田如水は家康方の東軍につきました。
秀吉恩顧の黒田如水がなぜ東軍についたのでしょうか?
秀吉が死んだ後、黒田氏は急速に家康方に近づいていくこととなります。
さすが一流の軍師です、時代の流れにのる才にも長けていました。
決定的なのは嫡男の長政の正室が家康の養女だったことと、先に触れた石田三成との確執が家康方についた理由だと思われます。
如水は引退していたため常備軍が無く、1万の即席の軍勢を従えて九州の西軍・大友義統と戦い勝利を収め有終の美を飾っています。
農民をも含む即席軍を指揮し、勝利してしまうのがすごい。
一方、長政は関が原で一番武功を上げ、家康より筑前名島52万3000石を与えられています。

その後、黒田如水は中津城から福岡城に越して完全に引退し、長政は徳川幕府において初代福岡藩の藩主となります。

中津城はこういう時代と人物に使用された由緒・歴史のある城なのです。
その城がたった3億で売りに出されています。3億では安すぎる。
天守閣は鉄筋コンクリートに作りかえられているそうですが、そんなことはまったく気にしないでよいでしょう。
背景やストーリーが大事です。
戦国時代ファンとしては本当に欲しいと思ってしまいました。

3億じゃ絶対買えませんが笑

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