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大阪城天守閣(大阪市中央区)北側で、16世紀後半の素焼きの土器や焼け焦げた土などが市文化財協会の発掘調査で見つかっていたことが30日、分かった。同協会の佐藤隆事業担当係長によると、織田信長と本願寺勢力が争った石山合戦の舞台で天正8(1580)年に炎上した当時の浄土真宗本山「石山本願寺」跡の可能性が高いという。石山本願寺は炎上後、豊臣秀吉が大坂城を築いたとされているが、これまで明確な痕跡は見つかっておらず、幻の寺院の存在を裏付ける資料になりそうだ。
調査は、国特別史跡・大坂城跡整備に伴い、平成19年に約50平方メートルの範囲で行われた。地下約4メートルの地層から、「土師器(はじき)」と呼ばれる素焼きの土器の破片8点、焼けた土や土壁の破片が確認された。ただし、調査当時は土器の年代特定が困難だったことなどから、石山本願寺との関連は不明だった。佐藤氏が、土器の形や出土した地層を詳細に調べた結果、土器は天文年間(1532~55年)の後半から、天正8年までに使われた可能性が高いことを突きとめた。
さらに、土器が見つかった層や、直上の層は土が厚さ約1メートルにわたって積み重なっており、石山本願寺焼失後、大坂城築城に伴ってこの一帯が大規模に造成されたことが分かった。
発掘調査では、石山本願寺に関連する建物跡などは見つからなかったが、土器は石山本願寺にいた僧らが儀式や日常生活などに使ったと推定。焼けた土壁は、天正8年に炎上した石山本願寺の施設の一部とみられるという。
石山本願寺については、当時、日本に布教にきていたポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが母国に報告した中で「豊臣秀吉の大坂城は旧城(石山本願寺)の堀の中に築かれた」と記されていることなどから、現在の大阪城公園内にあったというのがほぼ定説になっている。
ただ、明確な遺構が見つかっていないため場所は特定されていない。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091031-00000051-san-soci
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