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加古川城にも「のこぎり横町」 姫路の研究員が確認
神戸新聞
戦国時代「賤ケ岳(しずがたけ)の七本槍(やり)」の一人として、豊臣秀吉に仕えた播磨の武将糟谷(かすや)武則(たけのり)。その居城「加古川城」があった今の加古川市加古川町かいわいで、城下町の痕跡を今に伝える「のこぎり横町」の地割りが見つかった。姫路市立城郭研究室技術主任、多田暢久さん(42)の調査で明らかになったもので、多田さんは「城下町・加古川というこれまで想像しにくかった町の姿が浮かび上がってくる」と話している。(三津山朋彦)
見つかった地割りは、通りに面した住宅の間口をギザギザにしたもので、侵入してきた敵を建物の壁に隠れて迎え撃つために造られたといわれる。多田さんによると、このギザギザの地割りは城下町の特徴の一つで、兵庫県内では姫路市の「のこぎり横町」などに見られるという。
加古川では、城域を東西に横切る山陽道の両側付近二カ所に見られ、防衛上の役割を果たしていたと考えられる。
多田さんは加古川市在住。加古川城跡と伝えられる称名寺(同市加古川町本町)周辺の地籍図を調査したところ、明治時代作製と思われる図に「城ノ開地」と記されていた。寺の周囲には堀が残り、城の内堀に似た構造を示していた。
また、寺の西側から水路が北西に延び、現在の国道2号を越えて日本毛織の敷地内に及び、そこから南東に折れて、寺家町と本町の町境沿いに南下していた。この城の外堀と思われる水路の一部は現存し、当時の名残をとどめていた。
多田さんは、戦国時代の築城法から外堀の内側に城下町が広がり、市場や住居が立ち並んでいたと推定。細かく地籍図を見ていくと、今の寺家町商店街から西に延びる旧山陽道沿いで、道に面した住宅の間口がギザギザに記されていることが分かった。
多田さんは「加古川は河川、陸上交通の接点で軍事上重要な町だったため、秀吉も信頼の置ける側近の糟谷武則に治めさせたのだろう」と話している。
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0000764227.shtml
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