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岩槻城の復元願う 築城550年を迎え市民の声高まる 市のシンボルにと市長に要望
埼玉新聞
戦国時代に築城され、室町幕府の東国支配の拠点とされた岩槻城。現在、さいたま市岩槻区内に面影を残すものはごくわずかだが、築城五百五十年を迎えた今年に入って復元を願う声が高まっている。六月には、区内の商工団体や自治会などが賛同し「岩槻城復元推進協議会」(遠藤正義会長)を設立。十月にはさいたま市長あてに復元を求める要望書を、約二万六千七百人の署名を添えて提出するなど、市民レベルでの盛り上がりを見せている。
◆太田道真・道潅父子が築城
岩槻城は一四五七(長禄元)年、太田道真・道潅父子により築城された平城。当時、古河公方勢力に対抗していた上杉勢が、江戸城、川越城とともにほぼ同時期に築いた。
後北条氏の支配の後、小田原城の支城となった岩槻城は、一五八九(天正十七)年の豊臣秀吉による小田原攻めにより翌年陥落。後の徳川家康の所領になる。当時は水堀に囲まれ、約九十二万平方メートルの広さだったと言われている。明治政府による廃藩後の一八七二(明治五)年、入札により民間に払い下げられ宅地化が進んだ。
岩槻城は現在の市街地の東側に築かれ、元荒川の半島状に突き出た台地に本丸、二の丸、三の丸などがあった。北側に新正寺曲輪(しんしょうじくるわ)、南側に新曲輪(しんぐるわ)があり、西側に武家屋敷や城下町が広がっていたという。
石垣は造られず、土を盛り上げて土塁を造る関東では一般的な城郭で、現在は南端の新曲輪、鍛冶曲輪(かじぐるわ)跡が県史跡に指定。一九九五年には後北条氏の勢力下を裏付ける堀障子が見つかっている。
◆旧岩槻市民の誇り
現在、目に見える形で岩槻城の面影を残すものは、城址公園内に移設された「黒門」「裏門」など数えるほど。中には城があったことすら知らない市民も増えてきているという。地元・岩槻の歴史を三十年以上にわたり調査している同区東町の小宮正男さん(64)によると、岩槻城復元を願う声は一九八七年ごろ、当時の岩槻市民の間から持ち上がった。
運動は二十年来、岩槻ライオンズクラブ内の委員会を中心に続けられてきた。「岩槻は(現在の埼玉県域の)中心地の一つとして栄えていた」という思いを残す人も多く、岩槻市がさいたま市に編入合併された一昨年には、「さいたま市のシンボルになる」として市長に復元を要望。築城五百五十年の今年、同じく市長に提出された署名には、岩槻区を中心にした法人や個人が名を連ねた。
「二万六千人を超す署名は、それだけ市民に深い気持ちがあるということ。岩槻の歴史と文化を語り継がなければいけない」と小宮さん。岩槻城復元推進協議会の遠藤会長は「建設予定の人形会館を岩槻城にちなんだ外観にするなど、やり方はある」と実現可能な案を示す。
旧岩槻市民が抱いている「岩槻城」という誇りをさいたま市に広げたい。復元の願いには、そんな郷土愛が込められている。
http://www.saitama-np.co.jp/news11/23/11x.html
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