2008年06月06日

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旧本能寺跡に「真言」卒塔婆
信長自害の法華宗寺院

京都新聞

 京都市中京区の旧本能寺跡で昨年夏に行われた発掘調査で出土した卒塔婆(そとば)に、密教で使われる呪文(じゅもん)「真言」が記されていることが6日までに分かった。織田信長が明智光秀に攻められ自害した「本能寺の変」(1582年)直後に、焼け落ちた法華宗の本能寺跡で真言宗の僧が死者を供養した可能性があり、戦いの激しさや当時の人々の思いを示す貴重な遺物になりそうだ。

 発掘は昨年7-8月、関西文化財調査会(吉川義彦代表)が行い、変に伴うとみられる焼け瓦やL字形の堀跡、石垣が見つかった。

 卒塔婆は南側の堀から見つかった15本のうちの1本。長さ約40センチで五輪塔の形をしていた。赤外線撮影や文字を浮き立たせる処理を行い解読を進めたところ、「…遮那摩訶母那羅摩尼(シャノウマカボダラマニ)□□摩(マ)…」という光明真言が浮かび上がった。裏面には「三界萬霊十方」「眷属(けんぞく)」の文字が見え、不特定多数の死者や一族を弔ったらしい。

 吉川代表は、「日光にさらされ木がやせることによって起こる『浮き字』がなく、どこかの墓にあったものが紛れ込んだ可能性は低い。また堀の底から15センチほど上層の泥から見つかっており、本能寺の変の時期に近い」としている。

 葬送儀礼に詳しい勝田至・京都光華女子大非常勤講師(日本中世史)によると、法華寺院に他の宗派の僧が立ち入り、死者を供養することは通常考えられず、本能寺の変で寺が焼け落ちた状況以外は考えにくいという。

 勝田講師は「光明真言は天台宗でも使われるが、比叡山焼き打ちを行った信長軍を天台宗が供養することはないだろう」とした上で「信長を弔ったにしてはサイズが小さく、真言宗の僧が個人的に、敵味方を問わず供養したのかもしれない」と話している。

 光明真言 「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」と唱える。死者を弔う呪文で、一切の罪業を除くという。

 【卒塔婆に記された文字】

 (表)□遮那摩訶母那羅摩尼(シャノウマカボダラマニ)□□摩(マ)  □□羅波(ラハ)…

 □ □□罪三波羅三波…

 (裏)…□三界萬霊十方□   眷属須□

京都新聞

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2008年05月25日

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行方不明だった屏風絵 狩野永徳作だった

狩野派の屏風(びょうぶ)絵で、数十年にわたり行方不明だった逸品の存在が、最近ふたたび確認された。しかも、新たに調べた専門家は、安土桃山時代を代表する絵師・狩野永徳(1543~90)の作と判断した。織田信長や豊臣秀吉が重用した永徳は、真筆と目される作品が約10件しか現存していない。

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見つかった狩野永徳の「松に叭叭鳥(ははちょう)・柳に白鷺(しらさぎ)図屏風(びょうぶ)」のうち左隻
http://www.asahi.com/culture/update/0523/images/TKY200805230320.jpg
見つかった狩野永徳筆の「松に叭叭鳥・柳に白鷺図屏風」のうち右隻
http://www.asahi.com/culture/update/0523/images/TKY200805230321.jpg
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 見つかったのは、六曲一双(6枚折りの屏風が左右1隻ずつ対となる)の「松に叭叭(はは)鳥(ちょう)・柳に白鷺(しらさぎ)図屏風」。右隻は、渓流のほとりに松が太い根を張り、黒い叭叭鳥(水墨画などによく描かれた鳥)が13羽。左隻はやはり太い幹の柳と池、それに16羽のシラサギが配されている。両隻とも水墨画で、高さ160.5センチ、幅約350センチ。墨の色も濃く、力動感あふれた作風だ。

 もとは、実業家で古美術品収集家としても知られた原三渓(1868~1939)の所蔵品で、当時は永徳の祖父・元信(1476~1559)作の「鷺烏(ろう)図屏風」と考えられていた。原の所蔵品売り立て目録「松風閣蔵品展観図録」に写真が載り、その後は数十年、在りかが分からなかった。

 辻惟雄(のぶお)・東大名誉教授(日本美術史)は約40年前から、写真しか手がかりのなかったこの作品を、元信でなく永徳の作だと推測していた。最近になって、古美術商から情報がもたらされ、都内の画廊でついに作品と対面。樹木の根や岩の描き方など、作風から、やはり永徳と判断した。

 永徳には京都府・大徳寺聚光院に残る国宝「花鳥図襖(ふすま)」がある。今回の屏風はよく似た作風から、辻さんは、それより少し若いころの制作と推定している。

 作品は7月8日から東京国立博物館平成館で開く「対決―巨匠たちの日本美術」展に出品されることが決まった。
http://www.asahi.com/culture/update/0523/TKY200805230315.html

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2008年03月04日

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新説「本能寺の変」名場面はウソ? 信長、宿泊は専用御殿
産経新聞

 「本能寺の変」(1582年)で、織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、ごく小規模な専用御殿だったという新説を、今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)が発表する。昨年、旧本能寺境内で相次いだ発掘調査の成果などから、「建物は最大40メートル四方クラス」と判断した。

 予想外に簡素だった理由については「大坂本願寺に移る予定だった」と推定。ドラマで繰り返し放送される大きな本堂前で奮戦する信長は虚像の可能性が出てきた。

 新説は日文研が近く発行する論文集『王権と都市』に「信長の本能寺“御殿”について」として発表される。

 本能寺は現在、京都市役所の南にあるが、「変」当時は、約1キロ南西の中京区六角通と蛸薬師通、西洞院通と油小路通に囲まれた約120メートル四方の地を境内としていた。

 発掘調査は昨年夏、住宅建設のため2カ所で実施され、東側の調査地からはL字形の堀(幅約6メートル、深さ約1メートル)や焼けた痕跡のある文字瓦などが見つかった。西側調査地からは、建物跡などは出なかった。この結果、東側の堀は西に延びず、約40メートル四方の建物を囲むものと分かった。

 今谷教授は当時の文献を詳しく調べたが、本能寺がよそに移転した形跡はなく、境内東北隅の堀に囲まれた中に、信長の宿舎となる御殿が建っていたと結論付けた。具体的には、「ほぼ同時代に建てられた園城寺勧学院(かんがくいん)や同光浄院(こうじょういん)(大津市、いずれも国宝)のような規模の小さい住宅用御殿が建っていた」とみている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080304-00000056-san-soci

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2008年03月03日

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なぜこれほど不用心だったのか…信長の個性裏付け

戦国時代の転機となった「本能寺の変」に関して、初めて確認された旧本能寺遺構は、織田信長の常識ではとらえがたい行動を裏付けることとなった。あれほど執念深い人物がなぜ、わずかな供だけで無防備な宿舎に入ったのか。謎はますます広がっている。

 「この石垣が、信長の時代のものであることは間違いない。それと遺物、とくに瓦の量などから大きな伽藍(がらん)が焼けた可能性は低いのではないでしょうか」

 発掘調査にあたった吉川義彦・関西文化財調査会代表は、こう話す。遺構の伸び方からみて、堀が巡らされていたのは、境内の東北隅にあたるほぼ40メートル四方。この場所に、信長の御殿があったことは疑いないという。

 規模の小さな御殿で、しかも警護の者は少ない。圧倒的な兵力(1万3000人)の明智軍を前に、信長はあっけなく自害。戦いはすぐ決着がつき、伽藍の被害もそれほど大きくなかったということのようだ。

 それにしても、信長はなぜこれほど不用心だったのか。今谷明・国際日本文化研究センター教授は「光秀が叛くとは、考えてもいなかった」とみている。光秀の謀反の理由については、(1)領地替えを命じられたり、安土城での家康接待役を免じられたりしたことに対する恨み(2)佐久間信盛ら重臣が次々、追放されたことに対する焦燥や危機感(3)足利義昭や近衛前久(さきひさ)ら、旧幕府・朝廷勢力に唆(そそのか)された-などの説が唱えられている。

しかし、今谷教授は、光秀は城持ち大名になったのも早く、かなり優遇されていたことなどから、怨恨(えんこん)説は考えにくいとする。やはり、本能寺に少人数で宿泊するとの情報を得た光秀が「天下取りのチャンス」と、決断したとみている。

 また信長は、近々朝廷に、自分の望む官位を伝えることになっていた。(1)関白(2)征夷大将軍(3)太政大臣-の3説があるが、今谷教授は「毛利氏の攻略にめどがたった時点で、征夷大将軍を受け、幕府を開こうと考えていた」と話す。一方、脇田修・大阪歴史博物館長は「平氏の流れをくむと自称していたから、平清盛の先例もある太政大臣ではないか」とみている。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080303/acd0803031414006-n1.htm

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信長御殿”簡素だった 「本能寺の変」の舞台で新説

「本能寺の変」(1582年)のおり、織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、ごく小規模な専用御殿だったいう新説を、今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)が発表する。昨年、旧本能寺境内で相次いだ発掘調査の成果などから、「建物は最大40メートル四方クラス」と判断した。予想外に簡素だった理由については「大坂本願寺に移る予定だった」と推定。テレビドラマで繰り返し放送される、大きな本堂前で奮戦する信長は虚像とわかった。

 新説は日文研が近く発行する論文集『王権と都市』に「信長の本能寺“御殿”について」として発表される。

 本能寺は現在、京都市役所の南にあるが、「変」当時は、約1キロ南西の中京区六角通と蛸薬師通、西洞院通と油小路通に囲まれた約120メートル四方の地を境内としていた。

 発掘調査は昨年夏、住宅建設のため2カ所で実施され、東側の調査地からはL字形の堀(幅約6メートル、深さ約1メートル)や焼けた痕跡のある「■(能の異体字)」の文字瓦などが見つかった。西側調査地からは、建物跡などは出なかった。この結果、東側の堀は西に延びず、約40メートル四方の建物を囲むものとわかった。

 信長の生涯を記した『信長公記(しんちょうこうき)』によると、信長は「変」の2年前にあたる天正8(1580)年2月、京都での宿舎を妙覚寺から本能寺に移すことを決め、所司代の村井貞勝に普請を命じた。

 本能寺を始めとする日蓮宗寺院は、「天文法華(てんぶんほっけ)の乱」(1536年)をきっかけに京都から追放されたのが許され戻ってきたばかりで、本能寺も「信長軍に占拠され、寺僧はすべて追放されていた」とする意見も出されていた。

今谷教授は当時の文献を詳しく調べたが、本能寺が他所に移転した形跡はなく、境内東北隅の堀に囲まれた中に、信長の宿舎となる御殿が建っていたと結論付けた。具体的には「ほぼ同時代に建てられた園城寺勧学院(かんがくいん)や同光浄院(こうじょういん)(大津市、いずれも国宝)のような規模の小さい住宅用御殿が建っていた」とみている。

 権力者の京都での御殿としては、豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい)や徳川家康の二条城などが有名。これら本格的城郭に比べ、信長が簡素な建物しか造らなかった理由について、今谷教授は本能寺御殿を建て始めるころ、大坂本願寺が落城寸前で、毛利攻めのため大坂へ本拠を移そうと意図していたと推測している。

 小島道裕・国立歴史民俗博物館准教授(日本中近世史)の話 「信長が本拠を安土から大坂に移そうとしていたのは、後継者の秀吉が大坂城を築いたことからも可能性が高い。京都については、あくまで臨時の宿舎なので、小規模だったのだろう。興味深い説と思う」

 本能寺の変 甲信から京都にかけてを制圧した信長は天正10年5月29日、中国攻めのため、わずかな供を連れ京の宿所だった本能寺に入った。6月2日未明、明智光秀の軍1万3000人が急襲、信長は妙覚寺にいた長男・信忠とともに討たれた。信長49歳。天下統一の業は秀吉に受け継がれた。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080303/acd0803031411005-n1.htm

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2008年02月09日

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安土城の石垣沿い通路は城内だった 2カ所目の「虎口」発掘
中日新聞

 織田信長が築いた安土城(安土町、東近江市)の城跡南側の石垣から、城郭の出入り口「虎口」の遺構が新たに確認され、県安土城郭調査研究所が8日、発表した。近くで昨秋見つかった虎口と同様、防御性は低く、研究所は「石垣に沿った通路は、家臣らが使った城内路であったことを裏付ける発見」としている。

 研究所によると、虎口の遺構は幅約4・5メートル、奥行きは約4メートル。幅約90センチの石段が3段あり、大手門と西側の百々橋口のほぼ中間に位置している。東側に幅約30センチの石組み側溝があり、南側通路の側溝につながっていたとみられる。

 虎口は廃城後、畑になっていた場所の土留め石を取り除き、築城時の石積みを再現する工事の過程で出土した。昨秋、約23・5メートル西で見つかった虎口とほぼ同規模だった。

 これら2つの虎口が確認されるまでは、石垣が城域の南端で、石垣沿いの通路(長さ約400メートル、幅約6メートル)は商人や庶民らが通行した城外路だったとみられていた。

 ところが、これらの虎口は礎石の規模などから敵の侵入を防ぐ「枡(ます)形虎口」ような重厚な造りではないことが判明した。

 研究所は「通路は武士や家臣らが使った城内路だった」と結論付けた上で、近世城郭と同様、内堀が外郭であったとみている。

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20080209/CK2008020902086160.html

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2008年02月08日

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安土城の全容解明は後世に
08年度で調査終了、史跡の8割残す
京都新聞

 滋賀県安土町にある国の特別史跡安土城跡の調査・整備事業が2008年度で終了する。これまでに調査が終わったのは史跡指定面積の2割で、織田信長が天下布武の拠点として築いた城の全容解明は後世に託されることになった。

 発掘調査を担当してきた県安土城郭調査研究所は「調査を続ければまだ明らかになることも多かったはず」と落胆している。

 安土城跡の調査・整備事業は1989年度から20年計画で始まった。天主跡や大手門周辺、伝羽柴秀吉邸跡などの屋敷地などを調査、整備し、城の基本構造が次第に明らかになってきた。

 同研究所によるとこれまでに調査、整備を終えたのは史跡指定面積96ヘクタールのうち約17ヘクタール。眺望が開ける八角平は手つかずのままで、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが書き記した山中の庭園の有無も確認できていない。主郭部のとりで3カ所も未調査だ。

 すべて整備を終えるには50年から100年は必要といい、財政構造改革を進める県は、計画の最終年度となる2008年度以降は事業を継続しないことを決めた。

 史跡近くを通る県道の改良工事に伴い、信長が京都に上るため整備した「下街道」の発掘調査などの将来構想もあったが、実現の可能性は不透明という。

 同研究所の近藤滋所長は「この20年で基本構造が分かり、ほかの城と比較できるようになってきた。こんな状況だから仕方ないが、防御の遺構などを整備できず、県民の期待に応えることができないのは残念」と話している。

 安土町の津村孝司町長は「やり残したことがたくさんあると聞いている。やがてまた再開できる時が来ると期待している」としている。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008020800153&genre=M2&area=S00

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2008年02月05日

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新名神に「穴太積み」
甲賀 コンクリ壁の強度上回る

新名神高速道路沿いの東海自然歩道に築かれた穴太積みの石垣(写真:甲賀市甲南町)
 23日に部分開通する新名神高速道路の建設に伴い、滋賀県甲賀市甲南町と水口町の区間脇に付け替えられた東海自然歩道沿いの壁に、大津市坂本に伝わる「穴太(あのう)積み」が採用された。織田信長が築城した安土城など、全国の名城でみられる強固な石垣として知られるが、京都大学大学院などによる施工前の耐力実験で、コンクリートブロック壁の強度を上回るとの初のデータも得られた。伝統技術を継承する「穴太衆」として施工した職人は「先人の技術の高さが立証された」と感慨を深めている。

 新名神は県立自然公園内を通るため、西日本高速道路大津工事事務所が、自然環境との調和などを狙いに穴太積みに着目した。現在残る唯一の穴太衆として全国の城壁修復を手掛ける大津市坂本3丁目の粟田建設(粟田純司会長)が、工事で出た花こう岩を再利用し、2004年3月、高さ3・5メートル、長さ260メートルの石垣が完成した。

 穴太積みは自然石を積み上げ、石垣奥に小さな「栗石」を大量に入れて強度と排水性を高めるのが特徴。目地に詰め物をしない空積みという高速道路工事では珍しい工法になり、安全性を立証するため耐力実験が必要になった。

 現場に高さ3・5メートル、幅8メートルの石積みとコンクリートブロック壁を造り、上部と背後から装置で圧力をかけた。ブロック壁は200トンの圧力で亀裂が入ったが、穴太積みは十数センチのせり出しがあった程度。230トンでブロック壁は壊れそうになり実験を中止したが、穴太積みは250トンの圧力でも持ちこたえ、十分な強度や耐震性があることが裏付けられた。

 東海自然歩道は信楽インターチェンジに近く、重厚な穴太積みはハイカーらの目を引きそう。穴太衆十四代目の粟田純司会長(67)は「耐力実験は初めてだったが『石の声を聴き、石の行きたがるところへやれ』との言い伝えを守った石積みには自信があった。今後は城の修復だけでなく、実験データを基に近代的な建造物にも仕事を広げたい」と話している。

 ■穴太衆 古墳時代(3世紀末-7世紀)に大陸から渡来し、比叡山麓(さんろく)の大津市穴太あたりを本拠とした石工集団がルーツとされる。比叡山の石垣構築や修理を担い、戦国時代、全国各地の城郭の石垣づくりで名をはせた。諸説あるが、西日本を中心に現存する全国の城のおよそ8割を手掛けたという。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008020300035&genre=K1&area=S10

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2008年01月20日

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信長像迫る 収蔵品205点
家康への文書や画

県立安土城考古博物館(安土町下豊浦)で19日、企画展「信長と安土城―収蔵品で語る戦国の歴史」が始まった。安土を拠点に天下統一を目指した織田信長の事績などについて、205点の収蔵品を前・後期に分けて公開する。

 1992年11月に開館した同館の15周年を記念して企画した。前期(2月24日まで)では、浄厳院(安土町)が所蔵する黒の束帯姿で右手を笏(しゃく)の上に乗せた「織田信長画像」や、10年ぶりに一般公開されたビロード地に金糸で織田家の家紋と龍が描かれた信長所有の陣羽織のほか、長篠の合戦後、信長が徳川家康に送った文書などが並び、信長ファンらを楽しませている。

 観光で訪れたという川崎市中原区、主婦清水朱美さん(61)は「もし、本能寺の変で信長が死ななければ、世の中はずいぶん変わっていたと思うと興味が尽きない」と話していた。

 20日には同館学芸員が「信長文書を読む」、2月17日は「絵図・地図で見る今昔」と題して講座を開く。いずれも午後1時30分~3時で、無料。定員140人(先着順)。

 3月30日までの午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)。大人350円、高校大学生250円、小中学生150円。月曜休館(祝日の場合は翌日)。問い合わせは同館(0748・46・2424)。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shiga/news/20080119-OYT8T00670.htm

期間: 平成20年1月19日(土)~3月30日(日)
開館時間: 午前9時~午後5時 (ただし入館は午後4時30分まで)
入館料: 大人350円(280円)高大生250円(200円) 
小中生150円(120円)
※( )は20人以上の団体料金です。
※「信長の館」との共通券もあります。
休館日:月曜日(祝・休日を除く) 
但し、2月11日(月)は開館し2月12日(火)は休館します。
主な展示資料(◎は重要文化財、□は県指定文化財、△は市町指定文化財)

◎鉄鐔(摠見寺蔵)・△織田信長像(摠見寺蔵)・六角義賢書状・□六角氏式目(個人蔵)・□崇永版大般若経(正禅寺蔵)・近江堅田関係書状集・織田信長判物・安土記・伝織田信澄所用鎖帷子(個人蔵)・勝楽寺文書・豊臣秀吉画像復元模写(原本:多賀大社蔵)・長篠合戦図・安土城跡出土鯱瓦片・徳川家康画像・近江膳所城絵図・金沢城内絵図・□竜王町左右神社文書(左右神社蔵)△安治区有文書(安治区蔵)・□霊仲禅英墨蹟(曹源寺蔵)など200点余を前後期に分けて展示します。
http://www.azuchi-museum.or.jp/

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2007年12月28日

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信長の「敦盛」、福岡の幸若舞保存会が4年がかりで復元

 「―人間五十年、げてんの中(うち)をくらぶれば……」と、織田信長が桶狭間の戦いの前に舞い謡ったとされる幸若舞の敦盛。節回しがわからず「伝説の舞」とされてきたが、国内で唯一、幸若舞を伝承している福岡県みやま市瀬高町の幸若舞保存会(会長=松尾正巳第30代家元)が4年がかりで節をつけ、来年1月20日、同市の大江天満神社で初披露する。

 復元作業の中心となったのは第27代家元の江崎恒隆さん(77)。町に合併話が持ち上がり、「合併すれば伝統芸能が廃れてしまう」と危機感を持ったのがきっかけ。敦盛は能の舞台では演じられるが、「人間五十年……」の謡い回しがなく、動きも幸若舞とは異なる。敦盛をよみがえらせ、幸若舞の保存活動の後押しにしたいと考えた。

 幸若舞は口伝のため、台本は残っていても節回しの手がかりはない。ただ、戦いの場面では速いテンポで勇壮に声を出すなど、場面や感情によって節回しが共通という特徴があった。このため現存する8曲から似たような情景、感情に使われている節回しを探し、一つずつ当てはめていった。

 だが悲哀、恋慕などの表現には多様な節回しが存在し、作業は難航。地道な作業の末、7月に完成した。

 江崎さんは「『敦盛を見たい』という期待の声にやっと応えられる」と連日、練習に励んでいる。本番で舞う松尾さんは「節回しに違和感はなく、信長が舞い謡ったものだと自信を持っている」と胸を張る。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_07122855.htm

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2007年12月27日

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旧本能寺の建物跡が初出土 周辺からは「変」の焼土
朝日コム

 織田信長が明智光秀の謀反で自害に追い込まれた「本能寺の変」(1582年)の舞台になった旧本能寺跡(京都市中京区)で、建物の痕跡が見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が26日、発表した。建物の痕跡の発見は初めてという。

 マンション建設に伴う約100平方メートルの発掘調査で、16世紀中頃の建物の柱の礎石を支えたとみられるこぶし大の石が数十個集まった「集石(しゅうせき)」が3カ所で見つかった。集石は約2・4メートル間隔で、何らかの比較的小さな建物があった可能性が高いという。近くから同時代の土器のほか、寺跡内の別の場所でも見つかっている本能寺の変で焼けたと推測される壁土や、寺の銘入り軒丸瓦1点も出土した。

 また、約70メートル南東の別の調査地で寺の南端を示す堀の跡も見つかった。南端は文献によって食い違っていたが、これでほぼ特定できるという。

 本能寺の変の様子は文献で描かれているが、寺の伽藍(がらん)配置はわかっておらず、調査員は「不明な点がまだ多いが、今後の調査につながる成果だ」と話している。

 本能寺はたび重なる火災で場所を変え、1545年に今回の調査場所の付近に移った。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200712260069.html

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2007年12月26日

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本能寺跡で堀の一部見つかる
NHKニュース

織田信長が明智光秀に攻め滅ぼされた京都の本能寺の跡から、戦乱に備えて整備されていたとみられる堀の一部が見つかりました。本能寺の周りに堀があったことは当時の文献にも記されていますが、実際に確認されたのは初めてです。
http://www3.nhk.or.jp/knews/news/2007/12/26/t20071226000120.html

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2007年12月18日

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16日に終了したNHK総合の大河ドラマ「風林火山」の年間平均視聴率が18・7%(関西地区は15・9)だったことが17日、ビデオリサーチの調べで分かった。最高は22・9%だった。ドラマは戦国時代の軍師・山本勘助の夢の野望を描いた戦国ロマン。平均視聴率は2年ぶりに20%を割り込んだが、合戦シーンが放送された回は軒並み20%を超えた。若泉久朗チーフプロデューサーは「従来の大河ドラマ以上に、男性の支持が高かったことや、特に10代が視聴したNHKでも数少ない番組だったことが特徴」とコメントしている。(数字は関東地区)
http://www.daily.co.jp/gossip/2007/12/18/0000774317.shtml

結構盛り上がっている感があったのに、
意外と少なかったですね。
Gacktが出てなかったらどうなってたんでしょうか!?

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兼松家に伝わるアシの門松お目見え 東山植物園の武家屋敷門
中日新聞

 正月準備が進む東山植物園(名古屋市千種区)の武家屋敷門に17日、尾張藩士兼松家に代々伝わっていたアシの門松がお目見えした。1月14日まで見ることができる。

 門松は1570年の姉川の合戦に織田信長軍の一員として従軍した兼松又四郎正吉が、陣中で正月を迎えた際に、河原に生えていたアシで臨時にこしらえて武運を祈ったのが始まりという。武家屋敷門はもともと東区内にあった兼松家の木造長屋門で、1967年に同園へ移築された。以来、兼松家で代々、アシの門松を飾っていた習慣を受け継ぎ迎春の雰囲気づくりに一役買っている。

 高さ約6メートルの真竹を中心に周囲に約3メートルのアシ約100本を束ね、しめ縄で結んでいる。根元には白い寒水石を配した。園職員が5人がかりで約2時間で飾り付けた。近年入手が難しくなっているというアシは木曽川立田大橋付近で採集したもの。
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20071218/CK2007121802072962.html

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2007年12月17日

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「山本勘助」実在の証し、釧路で市河文書公開展
釧路新聞

  「武田信玄の幻の軍師」とされてきた山本勘助の実在が初めて確認された釧路市指定文化財「市河文書」が15日、釧路市内で一般に初公開された。個人の所蔵で、今回は指定文化財19点のうち18点を含む、40点が展示されている。市河文書は中世北信濃の武士市河家の文書で、山形県酒田市の本間美術館に146通が所蔵され、国の重要文化財に指定されている。市河家は武田、上杉家に使え、明治期に厚岸町太田に屯田兵として入植、昭和に釧路にやってきた。釧路市河文書は山本勘助の名が記された武田晴信(信玄)書状、武田家朱印状、上杉景勝書状など戦国時代をいきいきと語る文書が含まれている。展示は24日まで。
http://www.news-kushiro.jp/news/20071216/200712161.html

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能美の西山古墳群 砦跡発見 織田の陣城か 
中日新聞

中世墓、弥生の遺構も
複合遺跡裏付け
 能美市の国指定史跡・秋常山古墳群東側に広がる西山古墳群の一部で、弥生時代の遺構や鎌倉時代の中世墓、戦国時代の砦(とりで)跡などが見つかった。本年度から実施した詳細分布調査で明らかになった。いくつかの時代にまたがる複合遺跡であることを裏付ける貴重な史料になる。 (田嶋豊)

 十五日に現地説明会があり、学芸員らが考古学愛好家らに調査経過を中間報告した。

 砦跡などが見つかったのは、西山古墳群の南尾根の一角。この一角には昭和三十年代から四十年代の踏査で二つの古墳があるとされていたが、今回の調査で古墳ではなく山城の一部であることが分かった。

 市学芸員によると、山城は曲輪(くるわ)や高さ一・五メートル前後の土塁、切岸などを備えている。小規模で簡易的なつくりであることから、短期決戦を目的とした臨時的な砦だったとみている。

 戦国時代末期に加賀国へ進出し、上杉謙信と手取川で対峙(たいじ)した時に築かれた織田軍の陣城、もしくは近くの和田山城に築城した一向一揆軍を攻めるのに築いた織田軍の陣城だった可能性があるという。

 同所からは弥生時代終末期の土壙(どこう)墓や柱穴と思われる遺構なども見つかった。土塁をつくるために使われた盛土から素焼きの陶器が大量に出土。珠洲焼片や河原石もあり、鎌倉時代を中心とした中世墓とみている。

 西山古墳群は徳久、高座、秋常の三町内にまたがる丘陵上に分布する古墳群。二〇〇九年度まで部分的な発掘調査を含め、規模の確認や歴史などを明らかにしていく。
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20071216/CK2007121602072651.html

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2007年12月15日

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和央ようか「幸せを感じながら現場にいた」『茶々 天涯の貴妃』ついに完成披露

戦国の世を凛とした強さと美しさを持って駆け抜けた茶々。彼女の激動の生涯を描いた『茶々 天涯の貴妃(おんな)』の完成披露試写会が12月13日(木)に行われた。上映前の舞台挨拶に主演の和央ようかと橋本一監督が登壇。シネマカフェで展開中の特集「CHACHA美人入門」で読者モデルを務める「CHACHA美人」4人から和央さん、橋本監督への花束の贈呈が行われるなど会場は大きな盛り上がりを見せた。
cinemacafe

客席後ろから赤い着物姿の和央さんが登場すると客席からは大きな歓声がわき起こった。和央さんは「心を込めて演じさせていただいたこの作品が、初めてみなさんに観ていただけるということに誰よりも緊張しています」と挨拶。すでに完成した作品を観たという和央さんだが「多くの人の愛を感じながら撮影に臨んでいた日々を思い出して、冷静に観ることができなかったです。これからもう一度じっくり観ようと思います」と笑顔で語った。現場の様子について訊かれると「スタッフのみなさんが本当にかっこよくて『この方たちに支えていただいてお仕事ができるって幸せだなぁ』と思いながら現場にいました」とふり返った。監督によると和央さんはいつも現場で「私を起用して後悔してるでしょ?」、「もう二度と私と仕事したくないでしょ?」と監督に言っていたとか。監督が「この場を借りて言わせてもらいますが、全くそんなこと思ってません。和央さんで良かったと心から思ってます!」と言うと会場からは大きな拍手が。和央さんは「良かったぁ…。この場で『あなたとは二度と…』って言われたらどうしようかと思いました」と笑顔を見せた。
和央さんにとって女性役を演じるのは初めてだったが、橋本監督は「実際に始めてみると本当に女性らしい方でした。逆にこれまで培ってこられた雄々しい部分も随所に見せてくれまして、僕は現場でしびれました」と語った。そして話題を呼んだ本作のポスターについて触れ「日本であのかっこよさを出せるのは、僕が知る限り和央さんだけ」と称賛した。

続いて行われた花束の贈呈では、シネマカフェで展開中の特集「CHACHA美人入門」で、茶々のように強く美しい女性を目指す“CHACHA美人”として華道やテーブルマナー講座を受講している4名の女性がプレゼンターを務めた。さらに、癒しキャラとして人気の“お茶犬”とのコラボレーションで誕生し、和央さん自らがプロデュースに参加した本作の応援隊長“茶々犬”も登場し会場をわかせた。最後に和央さんは「これまで、男性用の衣裳しか着たことがなかったのですが、今回演じた茶々の衣裳は本当に重かったです。ですがその重みに幸せを感じていました。2か月間、茶々を演じましたが最高のスタッフ・共演者の方々とご一緒できて本当に嬉しく思っております。観ていただいたみなさんがこの作品から何かを感じていただければ、と思います」と語り、舞台挨拶を締めくくった。『茶々 天涯の貴妃(おんな)』は12月22日(土)より全国東映系にて公開。
http://www.cinemacafe.net/news/cgi/report/2007/12/3042/

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2007年12月14日

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日本刀禁止法策定へ=英政府
 【ロンドン11日時事】11日付英大衆紙サンは、同国政府が日本刀禁止法を策定する方針だと伝えた。国内での製造、輸入ともにすべてできなくなる。
 同紙は社説で「サムライ・ソード(日本刀)は、人を効率的に殺すためだけの目的につくられ、悪用されれば銃と同じくらい危険だ」と指摘、犯罪使用による犠牲者を防ぐ必要があると強調した。政府統計によると、日本刀は2003年以来100件の犯罪で使われ、少なくとも6人が殺害されたという。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2007121100936

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2007年12月13日

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信長の庭園に長良川の石使用? 岐阜公園の居館跡に造園
中日新聞

長良川の河原石を敷いてつくったとみられる織田信長の庭園跡=岐阜市の岐阜公園で
写真

 岐阜市の岐阜公園で発掘された戦国武将、織田信長の庭園とみられる遺構の石敷きを岐阜市教育委員会が調査した結果、長良川の河原石である可能性が高いことが分かった。河原からわざわざ石を運び込んでいることから、市教委は遺構が庭園である有力な裏付けになると判断している。信長の庭園の遺構は全国に例がないという。

 現場は岐阜公園内の金華山のロープウエー乗り場東。地中約50センチの粘土に埋まって、砂岩39個、流紋岩26個、安山岩8個が密集しているのが見つかった。

 市教委がこれらの石を調べたところ、安山岩は長良川の石と特徴が同じと判明した。また石敷きよりさらに深い地層では焼土と炭を発掘。市教委は、1567年に信長が当時の稲葉山城を攻略した後、新たな居館や城下町の整備を進める中で、長良川の石を運んで庭園を造ったとみている。

 信長の庭園は当時のポルトガル人宣教師が居館の付近にあったと記録。発掘調査現場では当時の大通り「大道」や茶室、蔵とみられる遺構も出ている。市教委の高橋方紀主任は「信長の居館跡を特定する手掛かりになる」と話している。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2007121302071704.html

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2007年12月12日