2007年09月13日

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TBS大型時代劇スペシャル
織田信長
1989年1月1日放送

織田信長 : 渡辺謙

1. 尾張の大うつけ - 小豆坂の合戦 ~ 侍 対 農民

2. 市場の猿 - 美濃を見聞 ~ 藤吉と出会う

3. 市頭と天下布武 - 美濃の代官との出会い ~ 信長の気性改善策まで

4. 苦肉の策と縁談 - 色仕掛け ~ 婚姻交渉

5. マムシの娘 - 短刀の切っ先の行方 ~ 濃姫の輿入れ

6. 憤怒の焼香 - 信秀急逝 ~ 葬儀

7. 平手の死 - 政秀の影腹 ~ 蝮の陰謀

8. 藤吉仕官 - 秀吉の登用 ~ 敵対勢力の策動

9. 正徳寺、対面の儀 - 富田で道三と会見

10. 信行死す - 清洲城攻略戦

11. 反逆 - 内紛の終息 ~ 義龍挙兵

12. 道三散る - 道三討死 ~ 駿府の動き

13. 今川発進 - 藤吉の偵察 ~ 今川上洛開始

14. 決戦前夜 - 野戦か篭城か

15. 奇襲 - 熱田神宮 ~ 善照寺欺兵

16. 桶狭間の合戦 - 雌雄決する

17. 天下布武へ - 織徳同盟 ~ 墨俣の一夜城

18. 岐阜 - 美濃取得 ~ お市環俗

19. 縁組 - 長政と直接交渉 ~ 濃姫の胸騒ぎ

20. 上洛 - 市姫の輿入れ ~ 入京

21. 朝倉攻め - 越前侵攻 ~ 浅井の裏切り

22. 袋の鼠 - 退陣 ~ 浅井攻め

23. 小谷陥落 - 攻城戦 ~ 長篠

24. 安土 - 安土城 ~ 終幕

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2007年09月11日

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桶狭間の戦いで尾張の織田信長が駿河の今川義元の首級をあげるまで。
最初に出てきた伝令の人[秀吉]、まだ生きているのに川の中に置き去り
しっかりしろって、かわいそすw

この状況なら信長軍2000で義元本隊5000[総勢25000]でも勝てますね。
毛利良勝[新助]が今川義元の首を切り取り、長槍で突き刺して天高く掲げます。
[※信長は足軽たちに通常より長い槍を使わせたようですが、あまりにも長いので、長槍でなく大将首を取った時に使う、こういう道具なのかもしれません。]

「敵も味方も見ろやーーー!! 見ろやーーー!! 見ろやーーー!!」

みんな槍ではなく刀で戦っているのに違和感がありましたが笑
今川義元の油断を突いた、形勢不利からの大逆転大勝利でした。

ここで義元の首級を上げた毛利良勝は、
本能寺の変では信長に随行し京都に滞在していました。
そして信長が明智光秀に攻められて自刃した後、
信長嫡男の信忠とともに二条の新御所で、明智勢と戦っています。

覚悟を決めた信忠や毛利良勝は次々と打って出て、見事に討ち死にして行ったそうだ。
毛利良勝は最後の最後まで織田家・信長に尽くした忠臣と言えますね。

織田信長 全編

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2007年09月04日

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■元亀3年 [1572年]
12月22日
上洛途中の武田信玄が徳川家康に完全勝利した三方が原の戦い[みかたがはらのたたかい]の最中、
家康たちが危ういと聞き、浜松城の留守を守る家臣・夏目正吉(吉信)は居ても立ってもいられなくなり、家康を迎えに早馬を走らせた。
ようやく家康を見つけると自ら囮となり、「我が徳川家康ぞ!!」と敵陣に突っ込んで行き、
家康を無事浜松城に帰した。
そして、討ち死にした三河武士の殆どが浜松の方に頭を向け、うつ伏せに倒れ、
退却する者は浜松のほうに頭を向け、仰向けに倒れ武田に背を向けて死んでいる屍は無かったそうだ。
この話は武田信玄の家臣・馬場信房が信玄に報告した話として伝えられるが、
いくらなんでもこれは作り話だろうと思うのだが、敵である信玄側の情報なので、強ち作り話とも言い切れないのだ。
ともかく家康を中心とした三河武士の絆・団結力や勇猛果敢さには驚かされるばかりである。
ところで、家康は逃げ帰る途中、敗北の情けなさと恐怖のあまり切な糞をもらしたエピソードは有名である。
一時は囮で敵を撹乱できたものの、何度か武田の騎馬武者に追われたらしい。
戦国時代最強の武田騎馬武者に追いかけられる恐怖は凄まじい物があったのだろう。
それでも、家康は生き残っている。実は家康は弓の達人でもあった。
家康は追いかけてくる敵を馬上より弓で射倒しながら、駆けに駆け、難を逃れたという。

ちなみに、囮となった夏目正吉は夏目漱石の祖先に当たるそうだ。

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2007年09月03日

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織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼を叩きのめした長篠・設楽が原の戦い
信長の頭の中には、戦う前から、すでに勝つための方程式が出来上がっていた。
信長恐るべし。

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2007年09月02日

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織田信長・徳川家康連合軍と甲斐の武田勝頼が戦った、長篠・設楽が原の戦い[ながしの・したらがはらのたたかい]は武田勝頼が徳川配下の奥平信昌が守る長篠城を包囲する事から始まった。
長篠城城主・奥平信昌の家臣に鳥居強右衛門[とりいすねえもん]という者がいた。
鳥居強右衛門は後詰の援軍を得るため、武田勝頼軍の隙を見て長篠城から決死の脱出を試みて見事に成功し、城の窮状を家康方に伝えて、大役を果たしたのであった。
ところが鳥居強右衛門は帰陣する際に武田軍に捕まってしまう。
捕まった強右衛門は、場内の兵士の士気を落とすため、城の門前にて「家康・信長の援軍は来ない」と言えば命だけは助けてやると言われ、門前に引き出される。
(この大河ドラマではちょっと話が違っていますね。)
そして、鳥居強右衛門が門前に引き出され、強右衛門が命を掛けて言った言葉は、
「徳川家康・織田信長の両大将は、すでに4万の大軍を引き連れて岡崎を発した」だった。
当然、鳥居強右衛門は磔にされ槍で突き殺された。

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織田信長と本願寺顕如との十年戦争
天下統一を目指す織田信長と、一向一揆の本山・石山本願寺との戦争“石山合戦”の実像に迫る
織田信長は、進まば往生極楽、退かば無間地獄とのスローガンを掲げ死をも恐れず立ち向かってくる一向一揆をどのように制圧していったのか?
そしてなぜ本願寺顕如は、最強の戦国大名・信長と11年にもわたり戦い続けることが出来たのか?
その秘密は顕如の筆まめさと、それを支援する毛利氏を始めとする反信長勢力にあった。

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2007年08月18日

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ニコニコ 1/2
ニコニコ 2/2


上杉謙信 vs 織田信長

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2007年07月23日

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先日、大河ドラマ・風林火山で上田原の戦いを最後に、見事、板垣信方[いたがきのぶかた]を演じきった千葉真一。これまで演じてきた時代劇の役柄と風林火山・板垣信方への思い、そしてこれからの千葉真一をを語っています。

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1985年公開、黒澤明[くろさわあきら]監督の「乱」です。
三国を領した一文字秀虎なる架空の戦国武将が隠居宣言し、三人の息子達に家督を譲ることになります。
隠居宣言の際に毛利元就の三本の矢のエピソードをモチーフにした場面が出てきて、三男の三郎は三本の矢を強引に折って、父の考えは甘いと諫言[かんげん]します。これは父が隠居し、一人ではなく三人に家督を譲れば、必ず三人は争いだすという三郎の父親へ対する一文字家を思った諫言のつもりでしたが、怒った秀虎は三郎を追放します。
そして案の定、兄弟達が争いだし、一文字家の秩序が乱れ始め、とうとう終いには、秀虎も城を攻められ、互いが武力を用いて覇権を争うことになります。
毛利家の毛利隆元、吉川元春、小早川隆景 兄弟のようには行きませんでした。

さすが黒澤作品、なにより映像がすばらしい。城攻めの迫力と攻められる恐怖が良く伝わってきます。
日仏合作作品

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2007年07月22日

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1990年の角川映画の「天と地と」のまとめ。海音寺潮五郎[かいおんじちょうごろう]が上杉謙信の生涯を描いた歴史小説が「天と地と」の原作です。
当初、主演の上杉謙信[長尾景虎]は渡辺謙が演じる予定でしたが、ご存知のように渡辺謙が病気[急性骨髄性白血病]になってしまったので、最終的には榎木孝明が演じています。

後にラストサムライで、戦国武将は、かなりはまり役だったので渡辺謙の上杉謙信は是非見てみたかった。

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タイトルどおりです。風林火山オープニング曲で「のだめカンタービレ」をやっちゃいます。よく合っていますね笑

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時代劇初挑戦のGackt[ガクト]が上杉謙信と風林火山に対する思いを語っています。出演するきっかけや裏話、これからの風林火山出演など。下の動画は山本勘助[内野]もコメントしています。

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この戦国バサラ お市はかなり萌える。
実際、お市の方[おいちのかた]はかなりの美人だったことで知られているが、よく言われる「東国一の美人」という言葉がその美しさを如実に表している。
言うまでも無いが、お市は織田信長の妹で、信長に攻略されるまで北近江を治めていた浅井長政[あざいながまさ]の妻である。
政略結婚の典型ともいわれる結婚だったが、お市は長政を非常に好いていたらしい。このバサラ動画[声だが]でも長政様ゾッコン[死語?]なイメージですね笑
お市は長政が小谷城で自刃した際、共に死ぬことを望んだが死に切れなかった。長政の必死の説得があったからであろう。
一方、浅井攻めの裏では信長の命を受けた秀吉たちの必死の救出作戦が行われていたようだ。
こうして救われたお市であったが、後の信長の後継者争いの流れで、またも政略結婚とも言える信長家臣筆頭・柴田勝家の妻となった。
そして、天正11年 [1583年] 3月からの賤ヶ岳の戦い[しずがたけのたたかい]で秀吉に破れた柴田勝家は越前北ノ庄城に敗走し、勝家とお市は自害したという。

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2007年07月18日

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戦国バサラ 伊達政宗オープニング。やっぱバサラの伊達政宗はカッコいい。
伊達政宗は良く知られているので、小十郎についてちょっと話してみます。小十郎とは通称で、伊達家[正宗の代頃から]に仕えた家老・片倉氏の当主を代々「片倉小十郎 かたくら こじゅうろう」と呼んでいました。襲名みたいな物ですね。
伊達政宗の時代には、この動画のように正宗の片腕として活躍したのです。
初代・片倉小十郎[片倉景綱]は秀吉の小田原征伐参陣要請を正宗が拒んでいたことについて、諫言[かんげん]し伊達家討伐を回避しました。また、2代・片倉小十郎[片倉重長]は大阪夏の陣で真田幸村と戦っています。恐らく、バサラに出てくる小十郎はこの2代目の片倉小十郎なのかもしれません。とはいっても、幸村の御屋形様が信玄なので時代設定はめちゃくちゃなんですが笑
※信玄が上洛途中で死んだのが1573年[元亀4年]、真田幸村[信繁]が生まれたのが1567年[永禄10年]。つまり信玄が死んだとき幸村は6才。幸村の時代は武田勝頼です。

おまけ
戦国バサラ 伊達政宗の声
レッツパーリー!! う~ん。かっこいい笑

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2007年07月17日

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功名が辻で舘ひろしが演じる織田信長のシーン。なかなかに迫真の演技なれど、なぜか違和感がある。信長は誰の中にも確固としたイメージがあるから、演じるのは難しいですね。誰がいいのかなぁ。

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はっははははははは
はははははははははははははははははははは
あっ~はははは
はははははははははははははははは
あふはははははははははははは

福島[くしま]めぇぇぇ、とうとう、やりおったわい、アーッははははは

はははははははははははははははは

武田信虎は火急の知らせを聞き、武田に内応していたと言われる、テリー伊藤演じる福島越前守[くしまえちぜんのかみ]が何かをやらかしたのを知った。
甲斐の躑躅ヶ崎館[つづじがさきやかた]では信虎の笑い声が響き渡り、その顎が外れるほどの高笑いに家臣たちはドン引きしている様子です。誰も信虎のほうを見ません笑
その何かとは、今川家当主の今川氏輝と、上位継承者であった弟の彦五郎が殺された[福島が一枚かんでる]と言うことだったと思われますが、ドラマでは火急の知らせの内容までは分かりませんでした。

※天文5年 [1536年]
6月10日 - 先日、駿河の今川氏輝と弟の彦五郎が殺された。これを端とし今川家の後継者争いである花倉の乱が勃発した。
嫡流の梅岳承芳[ばいがくしょうほう]が勝利し、京の足利将軍から偏偉[へんき]を賜り今川義元と名乗り家督を相続した。
敗れた玄広恵探[げんこうえたん]は自刃するが、その玄広恵探の側についたのがテリー福島越前守[くしまえちぜんのかみ]。

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戦国BASARA2 長宗我部元親[ちょうそかべもとちか]。一度聞いたら忘れられない名前ですね。

子供の頃の元親はかなりひ弱に見え、家臣からも馬鹿にされていたという。武芸は全くダメで、狩に出ても獲物も仕留められなかった。戦国時代の初陣は15~16才が普通だと思われるが、元親の初陣は22才とかなり遅めだった。初陣に際し、元親のダメっぷりが炸裂する。家臣に「大将は兵の先を行くのか? 後を行くのか?」 と尋ねたという。そして、槍の使い方についても、どう使うのか分からず尋ねたというレベルだった。これでは家臣は初陣どころではなく、討ち死にでもするんでは無いかと心配していたという。
ところが、元親はいざ戦が始まると、いきなり敵兵2騎を打ち崩し、押されても「引くな者ども!!」と声を張り上げて押し戻し、見事初陣を勝利で飾ったという。これを豹変といわずして何というか、という変わりっぷりだった。
そして家督を相続した後、土佐一国を支配し、続いて阿波国の三好氏、讃岐国の十河氏、伊予国の河野氏らを攻略し、終に四国統一を成し遂げ、戦国大名の列に加わることになる。

だが、その統一は苦難の連続であり、統一期間は儚い夢幻の如く短い物であった。信長とその意を継ぐ秀吉という津波のように大きな波が押し寄せてきたのである。やはり天下統一を目指す信長にとっては四国も所詮、地方の一地域に過ぎなかったのだ。

当初、元親と信長の関係は良好だった。信長から嫡男の信親に偏諱を賜り[へんきをたまわり]、正室も信長家臣の親族から迎える[明智光秀の家臣、斎藤利三の異父妹]など友好関係がしばらく続き、四国統一に向けて共闘体制をとっていた。

だが、天正8年、信長は元親にたいし土佐と阿波の所領安堵を条件とし臣従せよと要求してきた。元親はそれを拒絶したため、信長との共闘路線は完全に瓦解してしまった。さらに天正9年信長が対長宗我部元親として手を結んだ三好氏[三好長治みよしながはるの弟・十河存保・そごうまさやす]にも攻められ、完全に信長に四国制覇を阻まれる形となる。
信長は武田勝頼を天正10年[1582年]3月に滅ぼすと4月に安土城に凱旋し、すぐさま5月に三男・織田信孝に阿波の国を与え四国征伐を命じている。そして運命の本能寺の変が6月2日。ここで束の間だが元親は攻められる心配が無くなり、押し戻している。

信長死後の賤ヶ岳の戦い[天正11年 1583年]では、柴田勝家と手を結んで秀吉と敵対し、さらに天正12年の小牧・長久手の戦いでも、信長次男・織田信雄[のぶかつ]と徳川家康らと共に秀吉に対抗した。二つの戦とも背後から秀吉を脅かしたということになる。

そして終に、天正13年[1585年]、伊予国の河野氏・西園寺氏などを攻略し、四国制覇を達成することになるが、散々こけにされた秀吉が黙っているはずも無く、着々と準備を進めていた秀吉に12万5千とも言われる大軍を四国に送り込まれ、敗北し、最終的には秀吉の軍門に下ることで太平洋側の土佐一国を安堵された。

後に嫡男の信親は秀吉の九州征伐に父の元親と共に加わり討ち死にし、元親本人も帰国後に病死、家督を継いだ4男の盛親は関が原の戦いで西軍に付き、最後は大阪夏の陣で捕まり斬首され、ここに長宗我部氏は滅びた。
ここで面白い話があって、実は盛親は当初東軍に加わる予定だったらしい。近江国・水口まで進軍したところで、当地を支配する西軍の長束正家[なつかまさいえ]に進路を阻まれ、無理やり西軍に加わることになってしまったとされている。もし、長束に絡まれず素通りしていたら、長宗我部氏は滅びなくても済んでいたかも知れなかった。

ところで、みなさん饅頭の話は知ってますか? 豊臣秀吉は天下を統一した後に、各地の大名を集めて舟遊びをしたと言うが、秀吉は自ら大名たちに饅頭を配って歩き、そして皆一様に美味しそうに饅頭を平らげたと言う。ところが、長宗我部元親だけは饅頭の端を千切って一口だけ食べ、残りは紙に包んで懐に入れてしまったという。秀吉は「なぜ全部食べないのだ?」と聞くと、元親は「太閤様より頂いた有り難い饅頭ですので、土佐に帰りましたら家来に分け与えます」と答えたと言う。秀吉は非常に喜び饅頭を全部元親にあげたと言う。そうして、ますます秀吉に気に入られた。人柄の良さが滲み出て、なんとも良い話だが、世渡り上手とも言えなくも無い。これって応用すれば、現代でもどこかの場面で使えますよね笑。作り話なのだろうか・・・

最後に動画に戻るけど長宗我部元親は水軍のイメージなんだろうか。小田原の北条攻めの時には水軍を使い、16メートルもの鯨を生け捕りにし大阪城まで運び、鯨など見たことも無かった豊臣秀吉の度肝を抜き、食べさせたという話は有名だけれどもね。
戦国無双 長宗我部元親

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紀州雑賀鉄砲衆による鉄砲演武だそうです。個人的には法螺貝の音が聞けて満足でした。

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戦国無双 今川義元 オープニングです。都へ上ろうかのう? 都で蹴鞠がしたいのお。尾張のうつけも蹴鞠るかのう!? 楽しそうじゃの。これが今川義元のイメージか笑。雪斎が死んで腑抜けになってた頃の義元か。信長に討たれるはずだ。でも実際の今川義元はかなりのキレモノだったということが分かってきている。

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2007年07月16日

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功名が辻で舘ひろし演じる信長が敦盛を舞います。前半が桶狭間の戦い直前、後半が本能寺の変で自害する場面です。

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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