2007年12月03日

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すいませんでした笑



外人さんが編集した
徳川四天王 本多忠勝

天と地と や黒澤明監督の乱とかの映像とかあり滅茶苦茶ですが、
エピソード満載でよく出来ています笑
それにしてもこの外人さんよく勉強していますね。

本多忠勝[平八郎]が徳川四天王の一人と言われたのは良く知られている通りです。

忠勝は槍の名手としても知られています。
忠勝の槍は柄が太く、二十尺[約6メートル]もの長さがありました。
これほどの槍を使いこなす豪腕だったのです。だから戦国時代を題材にしたゲーム 戦国無双での本多忠勝キャラは筋肉モリモリなんですね。
戦国BASARAに至ってはロボットキャラです。もう笑うしかないです。

しかもこの槍、刃にトンボが止まると体が真っ二つに切れたことから「蜻蛉切り」と言われていました。
当然そんなことはありえませんが、それほど刃が鋭かったという事です。

この槍を武器に次々と戦功を挙げ、家康に無くてはならない存在となっていくのです。
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」
この言葉は本多忠勝の偉大さを表す文言として必ず出てきます。

永禄3年[1560年] 本多忠勝[平八郎]は松平元康[徳川家康]に従って
当時、元康が臣従していた今川義元の最前線基地である大高城に兵糧を搬入したのが初陣です。
その直後、今川義元は桶狭間にて織田信長に討たれ死にます。
松平元康と本多忠勝らは岡崎城に撤退し、その後 元康は信長と同盟を結び過酷な戦国時代を生き延びていくことになりました。

本多忠勝のトレードマークは先の蜻蛉切りの槍ともう一つあります。
そう牡鹿の角をあしらった兜[鹿角脇立兜]です。
松平元康は桶狭間の合戦後、信長と同盟を結ぶ直前、今川義元の弔い合戦と称して織田領になった三河を取り戻そうとします。
その時、元康は忠勝に偵察を命じますが、奇しくもその帰り道に川の氾濫で立ち往生します。
そこに通りかかった鹿が川の氾濫にもかかわらず悠々と川を渡渉して行くのを見ました。
なんと浅瀬があったのです。
忠勝は鹿を伊賀八幡宮の使いだったと信じ、その後は牡鹿の角をあしらった兜を愛用するようになりました。

忠勝は生涯50回の出陣にもかかわらず、ただの一度も手傷を負わなかったと言われています。
忠勝は家康が武田信玄に大敗した元亀3年[1572年]の三方が原の戦いで殿軍を務め、少数ながら2万以上の武田軍を相手に見事家康を浜松城に生還させました。
きっと伊賀八幡宮の鹿が守ってくれたのでしょう。

忠勝 現役最後の戦は関が原の合戦です。東海道を西進する東軍の先鋒を見事に務めました。
その後、ご存知のように家康は関が原の戦いで勝利を収め天下を治めます。
家康が天下を治め世の中が安定すると、バリバリの武断派の本多忠勝は活躍する場を失い、引退を決意します。

忠勝が病で死んだとは知っていましたが、死因がこの動画の通り木像彫刻中の怪我が原因[破傷風?]とは知りませんでした。
まったく皮肉なものですね。

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⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板


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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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