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関ケ原の戦い|なぜ石田三成は負けたのか分かりやすく解説
日本には戦国時代と言う時代がありその後江戸時代が続いていますが、戦国時代の終わりの頃の戦いとして教科書にも載っている有名なものがあります。それが、関ヶ原の戦いです。
関ヶ原は現在の岐阜県になり、冬は雪が降る場所として知られています。新幹線で関ヶ原駅に行くと、その周辺だけが雪が降っていますので、ご存じな方もいるかもしれません。そんな関ヶ原で戦いが行われたのは、東軍と西軍に分かれて戦が行われたかです。ちなみに関東と言う呼び名と関西と言う呼び名がありますが、これは関ヶ原より東が関東と言うことです。一方関ヶ原のより西が関西と言うことになりますので、この点は豆知識として覚えておくのが良いかもしれません。
関ケ原の戦いの中で、有名なのは石田三成と徳川家康になります。石田三成は、豊臣秀吉の意思を継いでそのまま西軍として君臨しました。一方徳川家康は、豊臣秀吉の意思を継いでいたものの、石田三成がその後を継ぐと言うのはやはり不都合に感じたのでしょう。このように、2人の対立があり、それぞれの戦国武将がどちらに着くか分かれました。基本的には西に住んでいた人は関ヶ原の戦いにおいて西軍に着くことになります。
前田利家は当時西軍で特に強い戦国武将の一人でしたが、五大老等を筆頭とする有名な一方でもありました。しかし徳川にとって強敵であったであろう前田利家は関ヶ原の戦いが起こる2年位前に亡くなっていました。もし前田利家のような5大老の有名な戦国武将が生きていたとしたら、徳川家康が天下を取る事はなかったかもしれないです。
事前の予想では、関ヶ原の戦いは数ヶ月に及ぶのではないかと言われていた噂もあります。数ヶ月は長いとしても数日はかかるのではないかと言われていましたが、実際は朝の8時から始まり、夕方には既に決着がついていたのです。およそ200,000人にも及ぶ兵士たちがいた戦いで、これほど短期的に決着がつくと予想していた人はいませんでした。なぜそのようなことが起こったかと言えば、夕方近くになり大軍の裏切りがあったからです。小早川秀秋が石田三成を裏切ったのは有名な話でしょう。ちなみに小早川秀秋はその後、命を落としています。この戦いとは別の理由で命を落としており、若干24歳で亡くなったと言われています。
石田三成の最後は、柿の話で有名です。処刑前であっても柿は体に悪いと断固拒否したこだわりや頑固さを持っていたと言うのは、今の時代でも記録に残っています。
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板