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旧本能寺跡 石碑 拡大地図

戦国時代中国ではその頃何が起きていたのか

"メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明と続き、紀元前1600年頃には中国でも黄河や長江流域にたくさんの都市がつくられて、中国文明が誕生しました。黄河流域の都市を統合した殷という王朝が栄え、殷王は占いによる政治や祭事を行うようになり、すべてを占いによって農民や奴隷を支配する政治が行われていたのです。祭事においては、今も古代遺産として残っている独特の形をした青銅器に、作物やお酒が入れられて神に供えられていました。異民族との戦いや農業などを占った結果は、亀の甲や牛の骨に甲骨文字で記されました。そんな殷王朝も紀元前1100年頃には周に滅ぼされてしまいます。周王朝では役人の不正や過酷な租税の取り立てにより、政治は腐敗し経済も衰退の一途を辿ることとなってしまいました。これは、国の衰退を早める要因となり、紀元前8世紀頃には周の封建制に基づく国家体制も弱体化していきました。この時期は、国内が封建制から郡県制へと変遷する過程でもあったのです。中央政府が不安定になると、中国国内の各地にいくつも国が出来て、それぞれの国がお互いに戦争をするようになりました。この頃には、乱れた政治や社会を立て直す方法を考え、それを説いていく多くの思想家が登場しました。その中にいたのが、かの有名な孔子であり、仁(思いやりの心)をもって行いを正し、日常の生活や政治に取り組むことにより、国は良く治まると説きました。この教えを儒教とよび、朝鮮半島や日本にも伝わり大きな影響を与えることになりました。周が滅亡した後は、中国大陸には戦国七雄(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓)が群雄割拠する分裂国家となり、戦国時代が幕を開けました。中でも楚や斉に至っては、自立した国としての体を成しており、領土も拡大していきました。各地の王たちは、自分の国を富ませ、戦いに勝利するため有能な人材を集めることに腐心しました。紀元前4世紀頃になると、青銅器よりも固くて頑丈な鉄製の農具が使われるようになり、耕地が広がりました。鉄製農具の普及により深耕・除草などが容易になり、農業生産力が著しく上昇し、治水やかんがいの技術が進歩しました。それに伴って商業も発展し、青銅貨幣が流通し始め、貨幣の裏面には発行した都市名・価値を示す重量が記され交換レートまで決められていました。万里の長城は秦の始皇帝が築いたといわれていますが、戦国時代にすでに列国が異民族の侵入を防ぐために築いていたといわれています。" ⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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かんりにん一言

日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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