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戦国時代のキーパーソン:今川義元


昨今は若い世代の間で、空前の戦国ブームが訪れています。実際の日本の歴史ではあるものの、サブカルチャーという側面で注目を集めており、テレビやスマートフォンのゲームの題材にもなっているほどです。1500年から1600年までの100年間を戦国時代と言いますが、この時代には数多くの武将が活躍をされました。ここではそのうちのひとりである今川義元について、歴史と功績を紹介していきましょう。まずインターネットで検索をすると、必ずと言っていいほど「桶狭間 今川義元」というキーワードが出てきます。この桶狭間とは、今川義元が最初に出陣を果たした戦いのことを指しています。

相手は天下の覇者・織田信長で、この桶狭間の戦いは天下分け目の戦と称されたものでした。今川義元とは尾張一帯を領土に持つ武将でありつつ、京の都の公家でもあります。公家大名という二つ名を持っていた人物で、海道一の弓取りと称される弓の名手です。今川義元の家紋は赤鳥紋と引両紋を組み合わせた図で、足利氏の流れを組んでいることを家紋で証明をされていました。歴史と功績を紹介するうえで、忘れてはいけない功績があります。それは中山道の基礎を作りあげたということです。中山道とは京から駿河へと向かう街道であり、途中に難所の木曽がありました。

この木曽は飛騨山系に差し掛かると急こう配の崖となるため、それよりも先に道を作れない時代が長く続きました。室町時代の300年間の間でも一向に完成をしなかったところでしたが、今川義元はわずか3年で完成をさせたわけです。まず橋を崖にかける技術を編み出し、今では当たり前となった吊り橋を考案したことに起因をします。海道一の弓取りという武将の顔のほかに、公共事業を指揮する監督という側面も持ち合わせていたことがわかるでしょう。戦国時代に活躍をした今川義元はしばしば、弱い人物であるような描写をゲームやアニメ、または時代劇などで表現をされています。

これは桶狭間の戦いで織田信長に無条件降伏をしたことに由来をしている点です。なぜ義元は戦わずに降伏をしたのか、理由は家臣の命を守るためでした。約20万の家臣を持っていた義元は、4000名の織田信長側に圧勝するように見えましたが、織田軍は今川軍を兵糧攻めにする作戦に打って出て、2週間に及ぶ交戦となりました。多くの犠牲者がすでに出ていたこともあり、無条件降伏をおこなって、織田信長にすべての領地を引き渡したわけです。

 
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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